>>166
>諸々の汚れと執著のよりどころとを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない。
>三種の想いと汚泥とを除き断って、妄想分別に赴かない、かれを〈すぐれた人〉と呼ぶ。

これいわゆる無分別智じゃないよね

無分別智(nirvikalpa-jJAna)というのは

「捉えるもの」(grAhaka)=「主体」

「捉えられるもの」(grAhya)=「客体」
のない智慧のことだから

>妄想分別に赴かない

ここで妄想分別と訳されてるのはkappa
https://accesstoinsight.org/tipitaka/sltp/Sn_utf8.html#pts.099

注釈書:欲愛等の破壊するものが、「三種の想い」である。〔そしてさらに〕感官の喜びという名の「汚泥」を除いて、
〔三種の想いと汚泥を〕除いた〔者〕は渇愛・見解・思考のどれか一つ〔について〕でさえも「妄想分別に赴かない」。
(kAmAdibhedaJca saJJaM tividhaM. KAmaguNasaGkhAtaJca paGkaM panujja panuditvA taGhAdiTThikappAnaM aJJatarampi kappaM na eti)

まとめると:
無分別智にないのは二つ(能取と所取)
妄想分別を構成するのは三つ(渇愛・見解・思考)

結論:スッタニパータには無分別智は説かれていない