>>677
その問いは多くの人が思春期に通ってるんじゃないかな

俺なりにだけど
・自分が見ている(と感じている)世界(自分の肉体も含めて)が実在しているのかいないのかは確かめようがない
・それをどちらであると確証を得られる人間もいないし証明できる人間もいない
・ネット上によくある「水槽の中の脳」とか「宇宙五分前仮説」なんかも勿論確かめようがない

逆に絶対に確かなこと(もし間違っていたら永久に地獄に堕ちると言い切れるレベルでの確かさで)は
・今ここに自我(魂)が実在してること
・その魂に付随した感情(喜怒哀楽)が実在してること(人に優しくされると嬉しい、傷つけられると悲しい等)

それだけだな それしか確かな事がないからこそ
>>663さんの言うような「優しい心、人に優しくあれ、ということが とても大切なことであることを実感します。」
が大事なんだと思うよ
自分がされて嬉しい事を人にする 自分がされて悲しい事を人にしない
確かな事を土台にしてるんだからこれは間違いようがない

逆に確かめようのない事を魂や生き方の土台にしてしまうと
こっちの人がこう言った、あっちの人がああ言った、で魂が一生迷子のままで死ぬことになる

俺も批判はするけど、大川隆法が神であることを完全には否定してないわけだ
それは蛭子能収が神であること(本人はまだ気づいてない)を完全に否定できる人間がいないのと同じこと
蛭子能収が至高神であるかもしれないのと同じく大川隆法が至高神であるかもしれない

俺の言いたいのは、そんな確かめようのないことに惑わされて生きるより
絶対に絶対に絶対に間違いようのない確かな事を土台として生きる方が大事なんじゃありませんかってこと