>>967
>何かが心に生じたなら、いつ生じたかわかりますか? また、滅したなら、いつ滅したかわかりますか?

日常生活ではいつの間にか雑念に追われていたと後で気づくことがありますが、坐禅中は雑念が生じてきたのは自覚できますよ。

>さて、坐禅をするときは、静かな部屋ですべきであり、飲食に節度をもって、雑事を忘れ、全ての関わりから離れ、事の是非、善悪を思わず、心に念が浮かぶことも意識に想像することも、何かを観じるという認識作用も働かせてはならず、また仏に成ろうと思ってもいけない。
http://enlighten.fc2web.com/fukanzazengi.html

>心に念が浮かぶことも意識に想像することも、何かを観じるという認識作用も働かせてはならず、

という言わばルールの中での坐禅ですからね。
生じてきたその瞬間をコンマ秒単位で掴まえろというのは無理ですよ、それは刹那滅の観察でテーラワーダのヴィパッサナーでも無理とされてますからね。
でも、生じてきたら何秒か後には心に浮かんできたというのは流石に分かります。
でないと、数息観をしていて息を数える以外に邪念が入ったら振り出しに戻るなんてことはなくなるんじゃないですかね?少なくとも十まで数える内に生じたことに気づかなかったということが多々あって、十達成率が上がりそうですw

念のためもう一度書きますが、刹那滅の生のその刹那を掴むというのとは別な話ですよ。
第一私は部派仏教以来の自性を有した刹那滅などはまず信じてないですしw
例えそれを道元が信じていたとしても。

>何かについて、思っているとき、それを同時に観察することは可能でしょうか?

ですから瞬間瞬間に思いは猿が木から木へと移るように変わっていくということです。それを追いかけて観察するということです。
これも例えば数息観を例に出せば容易に想像がつくかと思います。

>雑念が苦でしょうか?w

仏教の教えでは苦ですよね。ヨガの瞑想も心の働きを制御するのが目的ですから制御できない雑念は苦となりますね。
あなたがそれを苦と感じずどのような瞑想をしようともそれは私には関係がないことですし自由ですが、仏教でもヨガでも苦とされているということは忘れないでください。

>そして見れば見たまま、聞けば聞いたまま、思えば思ったまま、ただ鏡のように、少しも選り好みせず、善悪を分別しないこと。これが坐禅の秘訣である。
http://enlighten.fc2web.com/fukanzazengi.html

>そういう因縁にも実体がないわけだから、何かの因がある、という考えが無明かもしれません。。

その「ある」という言葉について静かに思惟すべし、卒爾にすること勿れ。

但し、あなたがどのような瞑想法をどのような観念でしようとも私には関係ありませんので、どうぞご自由に好きなようにしてください(^_-)

以上です。
あなたもご存知かもしれませんが、この板でのマインドフルネススレでは坐禅や瞑想についての自説を嬉々として語れば語るほど周りからは引かれます。
私も瞑想についての「議論、討論」をここでする気は全くありません。
ですからもうこの話は私からはここでお終いにしますので悪しからずm(_ _)m
このレスにレスされるのはご自由ですが、私はそれについて何も語らないし答えないということです。