>>920
世間法涅槃という語句は初耳ですが、龍樹中論の「涅槃は世間と少分の別も有ること無く、世間は涅槃と亦た少分の別も無し」の意味のことでしたら

《スッタニパータ》
1094 いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと、──これが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。
1095 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、悪魔に伏せられない。かれらは悪魔の従者とはならない。

《中論》
およそ,〔もろもろの要素に〕依存して,あるいは縁って,生死輪転するもの,それが,縁らず,依存していないとき(諸々の要素の因縁を受けないとき)に,これがニルヴァーナである,と説かれている。
〔ニルヴァーナとは〕,一切の得ること(有所得)が寂滅し,戲論(虚妄分別)が寂滅して,吉祥なるものである。ブッダによって,どのような法(教え)も,どのような処でも,だれに対しても,説かれたことはない。
※最後は究極の教えは言葉では説けないことを意味しているとされています。またおそらくは、特にニルヴァーナにおいては分別がないので言葉で説くことはないという意味もあるかと思います。

(参考)ウダーナ 涅槃に関する経 8-1
「比丘たちよ、その場所(処、境地)は存在する
――そこにおいては、まさしく、地なく、水なく、火なく、風なく、
虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処:虚空のように終わりはない、という瞑想の境地)なく、
識別無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処:心意識に終わりはない、という瞑想の境地)なく、
無所有なる〔認識の〕場所(無所有処:いかなるものも断片的対象物として存在しない、という瞑想の境地)なく、
表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処:表象があるでもなく表象がないでもない、という瞑想の境地)なく、
この世なく、他世なく、月と日の両者はない。
比丘たちよ、そこにおいて、また、わたしは、まさしく、帰る所(現世)を説かず、赴く所(来世)を〔説か〕ず、止住を〔説か〕ず、死滅を〔説か〕ず、再生を〔説か〕ず、
これ(涅槃)を、依って立つところなきものと〔説き〕、〔対象として〕転起されることなきものと〔説き〕、まさしく、〔転起された〕対象ならざるものと〔説く〕。これこそは、苦しみの終極“おわり”である」

ということで、執着がなく所有所得がなく、因縁を受けることがなくなるてと現世で涅槃を得るというのは、ブッダも龍樹も変わらないと思います。
諸法非我は涅槃に至るための言わば方便です。
ちな龍樹は、第一義においては有我も無我もないとしております。