>>751
しかしながらほんの僅かでも方向性を誤れば天と地ほども悟りから隔たってしまうのであり、僅かでも分別心が生ずればたちまちに本心を失ってしまうものである。
たとえ、自らの仏法の理解を誇ったり、悟りを多く重ねたと自負し、僅かな智慧と通力をもって仏道を得た、心を明らめたといって有頂天になって騒いでみても、それはほとんど自らの解脱の道をふさいでしまっているのに等しいのだ。

言うまでもなく、彼(か)のお釈迦様がお悟りを開かれるまで六年間端座された事蹟は誰もが知っている。
また面壁九年といわれる達磨大師の修行は今尚その名声が聞かれるのである。
昔の聖人でさえ、これほど修行をされたのに今の人が何故修行しないでよいはずがあろう。
それゆえに、書物などの言葉を研究し理解しようとするような自己の外へ向かっての行はやめるべきであり、自らの内に向かって光を当て悟りを照らし出す行をするべきである。
そのとき、『身も心も自然に意識から脱落して』、自らの本来の面目が現前するであろう。
(身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目現前せん。)
そうした悟りを得ようと思うなら、さっそくそのことつまり坐禅に務めるがよい。
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ということですが、ここでいう本来の面目は見性によって得られた自己の本質ではなく、できる限りの如実知見による諸法実相とした方が道元の理に適っているのではないかと思います。
道元は見性をあまり認めてなかったですからね。