>>997(前スレ >>115続き)

阿頼耶識には迷いの原因になる種子と悟りの原因になる種子が蔵されているわけです。
少し頭の回転が速い方なら、そのことからしても阿頼耶識が現量でないと矛盾が生じる事は察知できるでしょう。

現量と比量・非量の違いは、いわゆる言語(思考)による分節行為の介在の有無なんです。

前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)が現量とされるのは、言語による分節が伴ってないからです。
また、末那識や意識が現量とされないのは、言語による分節が伴うからなんです。

詳細は三量門として唯識仏教では説かれてますが、煩雑な概念なのでここでは省略します。

簡単に説明すると、阿頼耶識は言語そのものの貯蔵庫で、そのに分節はないんです。
それ故に、現量とされるんです。