【仏教】悟りを開いた人のスレ505【天空寺】
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悟ったと思う者は、体験、技術、見解などを書く事。
否定されても発狂しない。
罵倒、批判だけのレスはスルー。
修行もすること。(任意)
>>970が次スレを立てる。無理なら以降の有志にお願い
※前スレ
【仏教】悟りを開いた人のスレ504【天空寺】
http://www.kyodemo.net/demo/r/psy/1590571983/1- >>284
>>285
あんまり人に迷惑かけちゃいかんよ
甘えてちゃいかん >>286
さっさと悟ってることに気づけや、このオタンコナス
そして悟りなんか捨てちまえ(´・ω・`)アホ 諸法実相(dharma)ですけど、インド→中国→日本へとその概念が変遷していったようなんです。
印度では、”ものごと・現象のありのままの姿(植木雅彦訳以下同じ)”という主旨
中国では、”現象そのままが実相” という趣旨
日本では、現実肯定論(=ありのまま)
という風に。 >>287
突然何言ってんの?コイツ(´・ω・`)バカ? >>286
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ世俗諦にいますので勝義諦の平等から差別の世界に戻りませんか?
色即是空 空即是色 栄進さんはもう少しまともな人かと思ってましたが
結局こじさんや鬼子さんと同じタイプの人みたいだね
人に迷惑かけて苦しめても平気
そんな人のままでは菩提は決してあらわれない
狂人になるだけ >>289(続き)
つまり、真如が実相として物事・現象に顕れてるという趣旨から、物事・現象は真如・実相であるって逆転が起きたんです。 >>294(続き)
言い換えると、真如が煩悩として顕れてるというのが、煩悩は真如であるってなってしまったんですw
これじゃ身も蓋もありませんww >>296
もしかしたら気付かれるかとも思ってましたが、さよならです >>297(続き)
更に言い換えると、真如が今に現前してるというのが、今が真如であるってなってしまったんです。
”ありのままー” とか ”今しかない” とか、それはそれである意味仏教哲学としては行き着いたところとは思うんです。
でも、我々のような凡夫が迂闊にそんな事を云っていいものか、私は首肯できませんw たかが悟りぐれえ一言で言い表せや
情けねー奴だなあ(´・ω・`) >>294
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ阿頼耶識(現量)→末那識(非量)
→意識(現量・非量・比量)
阿頼耶識から顕現されますので一念三千が諸法実相になると思いますけど
如来(平等)の見方は出来ないにしても現量に近づくのが修行かなぁと思うんですけど? >>302
言い表すまでもなく
それに全然気付いていない
気付いているかな
↑
この書き込み >>300(続き)
更に言い換えると、真如が凡夫として現前してるというのが、凡夫が真如であるってなってしまったんですw 気付いていたら礼拝します
3年ほどこのスレにいるけど、気付いてる人にまだ一人も出会ってない >>304
先ずは現量の自覚でしょうね。
ちなみに私のPCでは ”ポッタン師” ってNGワードになってあぼーんになってますんで。
それが原因でスルーしてしまっても悪しからず。 >>306
なげ〜わ
悟りなんて一文字でええわ
無(´・ω・`)笑 文字は文字、書き込みは書き込み、
話すは話す、寝るは寝る、食べるは食べる
仏教は仏教
否定でもなく肯定でもなく、有るでもなく無いでもなく
悟りでもなく迷いでもなく、捨てるでもなく拾うでもなく
これを示し得たなら、少なくとも私は礼拝します >>308
お前以外、全人類が気付いとるわ(´・ω・`)大爆笑 >>310
無がある、悟りがあると言ってる
捨てる悟りがある
そこまでで残念、さよなら >>312
「お前」とか「全人類」とかw
しゃあないやっちゃな栄進さんw
お話しにならない >>311
礼拝!?
コイツ、キメェ(´・ω・`)大爆笑 示すっていうことは、元々真如が実相として物事・現象に顕れているのに、物事・現象は真如・実相であるって逆転させる事でしょ? >>314
示せば逸れる、でも示さなければ分からない
そして「逸れる」ものもなく
>>312
「俺だけが知らない気付いてない」
まさしくそうありたいもの >>313
無なんて無いだろーが(´・ω・`)笑
>>315
お前以外、全宇宙が覚っとるわ(´・ω・`)ダセェ >>318
コイツ、新種の「ウナギ」か!?
大山!退治せえ(´・ω・`)笑 >>319
無いなら「無」なんて言葉は出てこない
出してくるのはその人の思いから
それを「有」と呼ぶ
「全宇宙」もまた認められない
言いかえると「自分」だけが悟ってない解脱してない
この「自分」が消えれば解脱 >>321
滑ってるよ!スッゴイ滑るよ!
ヌルヌルしすぎ
大山!バトンタッチ(´・ω・`)ウナギ嫌い 解脱してない「自分」があるから
「お前」とか「誰か」とか「宇宙」とか「悟り」とかを認める
それにまず気付くかどうかってだけ
栄進さんは気付いてないようですね
そして気付くためには「自分」に疑問を持たなきゃなかなかどうしやうようもない
人に迷惑かけたり罵倒して「知ったことじやないw」「キメえw」とかやってては無理ってのはそういうこと そうして対象に「何か」を認めるはたらきを無明って呼ぶから
認めたものを解こうとする人は近付く
驕ったり自分勝手の人は遠ざかる
近付いても遠ざかっても、ともに一心ですが
でもそれに気付くことはない >>318
示すって事は、まぁ、無限の中から部分を限定するって事でしょうからね。
示してもあながち間違いでもないとは思いますけど、示し方のセンスが、ねw >>323
コイツ、覚えてるわ
前にも見かけた
「自分」バカ
ひたすら「自分」が口癖のノータリン
自分で無限遡及してやんの
その「自分」を認めてあげればいいだけなのに(´・ω・`)アホ 近付くも遠ざかるも、縁ですので
人からはなかなかどうしようもないんですが
出来れば気付いて欲しかった
>>328
「自分」の無限遡及という無駄事、これを仏道修行と言います
「認めてあげる」「このままで良い」
これはありのまま教、ニューエイジ思想
それで良いというならもう言うことはないよ >>324
「無」もそれを認める自分という「有」も肯定したらええやんけ
矛盾してもええ
矛盾を矛盾と素直に受け入れる態度が中道やろが
ホンマ、コイツ仏教を全然理解しとらんわ(´・ω・`)ヤレヤレ >>331
「肯定」は自分がやってる
自分がやってる内は世間事、無明の中
是非善悪の世界
その錯覚の「自分」を、無限遡及という無駄ごとですりつぶす >>320
たしか ”認める自己の否定” の人でしょw >>330
矛盾を矛盾のまま受け入れる
とっくに気付いとるわ
しょーもないマウントとるなや
情けねえ(´・ω・)、ペッ >>328
そういう事。
どう足掻いたって限定されたものにしかならないんですから。 >>333
だから、自分も無い、自分がある
この矛盾して相反する概念を素直に認めろや
わっかんねーバカだな(´・ω・`)シバくぞ 中道(涅槃)は、八不っていう、人の見方を全て否定することで中道となる
人の見方が残ってる(これで良いとかありのままに素直にとか)と、八不に引っ掛かりますよ 縁が熟してない人に無理に言っても
おかしくなるだけみたいですので
出来れば仏縁深くなる方向に向いてもらいたかった
栄進さん、さよなら 真理とは矛盾しとんのや
今まで「有」という発想しか出来なかった人類の中で初めて釈迦が「無」を悟った
「有」と「無」という相反して対立した観念を解決するのが中道やろが
それが仏教
たた、それだけ(´・ω・`)笑 >>339
八不という非限定の世界は、限定された自己に顕れてると思うんです。
つまり、”自己と云うのは限定されたもの”って省察・認識があればいいのではありませんか?
言い換えると、八不という非限定の世界は、限定された自己、つまり人のとの見方に顕れてると思うんです。
だから、人の見方を残しておいても良いと思うんです。
その省察があれば。 >>339
中道?
どっちでも良いってこった(´・ω・`)笑
>>343
お前、もっとシンプルに物事を思考しろや
ハイ、サヨナラ(´・ω・) (訂正)
>>339
八不という非限定の世界は、限定された自己に顕れてると思うんです。
つまり、”自己と云うのは限定されたもの”って省察・認識があればいいのではありませんか?
言い換えると、八不という非限定の世界は、限定された自己、つまり人の見方に顕れてると思うんです。
だから、人の見方を残しておいても良いと思うんです。
その省察があれば。 努力もせんと一日中5ちゃんねるやってて悟れるわけがない イエスキリストの敵を愛せ
この教えも中道や
敵でも味方でも、どっちでも良いじゃん
非常に分かりやすくてシンプル(´・ω・`)笑 >>343
横からだけど、栄進さんはそこら辺の事は卒業してると思いますよ。
一見、崩れたことを言ってるようだけど、文脈を読んでくと分ると思うんですが。 イスラエルに仏教が伝来して生まれたのがキリスト教じゃけえの
当然と言えば当然(´・ω・`)笑
>>351
く・・・崩れた?(´・ω・`)カチン🧨 >>323
∞ノノハ∞
川^〇^ハレキメェーはキメェーですよ
即非です ウナギ恐怖症を克服したわ
大したことねえ(´・ω・`)笑 >>354
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ透析たんは?
麦は透析たんは大丈夫だけど人それぞれだねwww 八不という非限定の世界が ”わたし” という限定された世界に還元されるとそこに矛盾が生じると思うんです。
それ(限定された世界への還元)がある意味 ”無明” だと思います。
そもそも、わたしがわたしという限定されたものを超えて非限定の世界になろうという事自体、本末顛倒ではないでしょうかね?
何故なら、わたしは限定した部分ですから。
別に人の見方が残ってていいんです。
それを超えてなにものかにになろうとすること自体、本末転倒だと思うんです
ただし、そこはあくまでも、その非限定と限定が非同非異であるという省察があっての事ですけど。 >>355
透析はunknownや
敵味方識別装置にも反応せん
不気味で得体の知れないモンスターや((((´・ω・`))))ガクプル >>351
そうではないですよ
仮に等覚であっても、真如そのものに目覚めた人であっても
その目覚めた何物か(少物)を認めていては
解脱ではないとされています
その認めるものがなくなった人を「仏」と呼ぶ >>357
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ敵味方ってwww
麦の友達たちも麦もだけど良くない事は良くないと怒るだおwww
見方だとかwwwチヤホヤなんてしないよwww 本当に認めるものがなくなったら、それで解脱した仏となります
「不生にして亦た不滅、不常にして亦た不断、不一にして亦た不異、不来にして亦た不出なりと、能く是の因縁を説きて、善く諸の戯論を滅したまえば、我れは稽首して仏を礼す、諸説中の第一なりと」『中論』
認めてるもの、それによる分別という戯論
それを滅すれば仏として礼拝される >>359
俺は、ぶっちゃけ味方が欲しいんや!
でも敵ばかり
全員許さん(´・ω・`)💢 だから、やることは単純
「単を示す」なんて言われますね
なんか、悟り的なものや解釈を出してくると違うとなる
「それで良いんだ」と言う人は、もう、そうなんでしょう 俺が味方と認めた奴は、トム君か、心理学投影君ぐらいや
何故ならアイツら統合失調症のキチガイやし(´・ω・`)笑 >>361
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ栄進たんは仁者無敵じゃんwww 誰もが既に妙法として、ダルマとしてある
なのに人の見方にとらわれてそれが覆われてる
出来ればそれを解く方向にと思って強引にこじさんや手ぶらさんを叩いたりしましたが
「誰もがダルマとしてある」これも私の見方だったようです
見方を持ってる人には、縁のままにするのが良いようで 既に誰もがそういうものとしてある
縁がそうなれば、どんな人でも誰もが必ず解脱するらしい
一仏乗ですね
そうでない人とはそのままさよならをする
必ず解脱されますので 栄進くん、やあ(●´ω`●)✋
まことオジさんも追加で >>358
> 仮に等覚であっても、真如そのものに目覚めた人であってもその目覚めた何物か(少物)を認めていては
> 解脱ではないとされています
> その認めるものがなくなった人を「仏」と呼ぶ
初耳ですが、経典等にそれを示す記述があれば提示して頂けますか? 「此れは諸法の勝義なり 亦は即ち是れ真如なり
常如にして其の性たるが故に 即ち唯識の実性なり
乃し識を起して 唯識の性に住せんと求めざるに至るまでは
二取の随眠に於て 猶未だ伏し滅すること能わず
前に少物を立てて 是れ唯識の性なりと謂えり
所得有るを以ての故に 実に唯識に住するに非ず」 「若し時に所縁の於に 智都て所得無くなんぬ
爾の時に唯識に住す 二取の相を離れるるが故に
無得なり不思議なり 是れ出世間の智なり
二の麤重そじゅうを捨するが故に 便ち転依を証得す
此は即ち無漏界なり 不思議なり善なり常なり
安楽なり解脱身なり 大牟尼なるを法と名づく」『唯識三十頌』 >>360
>認めてるもの、それによる分別という戯論
>それを滅すれば仏として礼拝される
世親の『成業論』では ”滅尽定でも異熟識ははたらいてる” としてますが、その滅するというのはどういう状態ですか? >>365
>誰もが既に妙法として、ダルマとしてある
>なのに人の見方にとらわれてそれが覆われてる
客塵煩悩説、つまり貴殿は性起説という事でしょうか?
>「誰もがダルマとしてある」これも私の見方だったようです
上記のように貴殿のオリジナルではなく、性起説と呼ばれるものです。 唯識の実性(真如)であっても、それに住しようと求めないまでに至らないと
煩悩障・所知障が滅せられたとはならない
唯識・真如として認められた少物を立てて認めてるとそれは有所得で実には唯識(真如)に住してはいない
認められた全てが無くなった真如、それすら滅せられたときに
はじめて本当に唯識に住するとする
これが解脱であり釈迦牟尼仏 >>369>>370
意味は分かりますけど、そこにそれの ”自受用” というものが無ければ、自分の他になにか基体のようなものがあってそれを認める事になりませんか? >>372
オリジナルかどうか性起説かどうかではなく
真の仏説であっても、それを認めていては「見解」になるということです
真如・唯識に目覚めても、それを認めるものがあってはまだ所知障が断たれてないというのと同じですね
なんであっても、知ったこと気付いたことがあっては違うということ >>375
「自受用である」と認めるものがあれば
真の自受用にはならない
そういうことでしょう >>373
八不という非限定の世界が ”わたし” という限定された世界に還元されるとそこに矛盾が生じると思うんです。
それ(限定された世界への還元)がある意味 ”無明” だと思います。
そもそも、わたしがわたしという限定されたものを超えて非限定の世界になろうという事自体、本末顛倒ではないでしょうかね?
何故なら、わたしは限定した部分ですから。
別に人の見方が残ってていいんです。
それを超えてなにものかにになろうとすること自体、本末転倒だと思うんです
ただし、そこはあくまでも、その非限定と限定が非同非異であるという省察があっての事ですけど。 >>378
良いか悪いか、ということではないと思います
というか、「人の見方」というのは煩悩
煩悩はそのまま菩提
でも、煩悩即菩提というそれを実証するためには
その煩悩である「人の見方」と格闘する必要があると
本当に滅しようと極限まで努める必要があると思います >>376>>377
どうも貴殿の解釈と私の解釈は別で、平行線のようですね。
わたしは貴殿の仰る様な認める事の否定から、再び認める事への肯定に戻るものだと思っておりますので。
それを無認識の認識とか無分別の分別とか、或いは理事無碍法界とか表現は様々でしょうが。 人の見方もあらゆる煩悩も、全ての差別相の現象は根本識が転識されて起こってる
根本識は真如とほぼ等しい
差別相の現象(迷い)という暴流を渡ると
根本識がそのまま即として智(悟り)とされるようです
つまり、差別相を一度完全に渡りきる、認めているものを一度停止させる必要があるということでしょう たまには本末顛倒してみるのもよいかもしれんのう^_^)
菩提即煩悩 認めてるものを全て停止させずに、ほどほどに解きほぐして
「これで良いんだ」「もとより全て一如のままにの見解なんだ」とする人もいるのかもしれません
それについてはどうこう言えるほど、私もやりきっていませんです >>379
>煩悩はそのまま菩提
これは如何なものでしょうか?
煩悩も菩提も空性という視座において煩悩即菩提が成立するのではありませんか?
先に話したように ”真如が煩悩として顕現する” という本来の説示が ”煩悩は真如” って180度転換されてしまってる様に思えますが。
>その煩悩である「人の見方」と格闘する必要があると
>本当に滅しようと極限まで努める必要があると思います
人のの見方=言語による分節 と云うのであれば異存はありません。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています