三位一体について外観をざっとシェア
※最後の一センテンスだけは個人的な捉え方なので教会の伝統的理解とは何の関係もないどす

三位一体を語る時にキリスト教では父は全ての神性の源流であり、子は父を啓示する神であり、聖霊は父と子を啓示する神だと語られる

この父と子と聖霊の三位一体を信じる唯一の対象としている
キリストが父と同一であることは325年のニケア公会議で宣言され、聖霊が三位一体の神であることは381年のコンスタンチノープル公会議で宣言された

キリストが父と一つであることはマタイ11:27で語られる
「子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。」
キリストは父なる神の「父」を子なる神との関係性における「父」であると明らかにしている
使徒達はキリストは「初めに神とともにあり、神であることば」(ヨハネ1:1)や「見えない神の姿」(コロサイ1:15)、「神の栄光の反映、神の本質の完全な現れ」(ヘブライ1:3)であると宣言している
子は父と同一実体の神であるとされた

聖霊は「子の名によって父から、また父の元に戻られた子から派遣されるとキリストは父の創造の約束を告げる(ヨハネ7:39、14:26、15:26、16:14)
また、創造の時以来働き(創世記1:2)、弟子と共にあり(ヨハネ14:17)、教え導き(ヨハネ14:26)、真理を悟らせる(ヨハネ16:13)という三位一体の側面であると語られる
これらを背景に聖霊の三位一体に関する教会の宣言は381年のコンスタンチノープルの公会議で行われた。

父と子と聖霊は神の様態でもなく三神でもなく一なる実体の3つの位格である、みたいな位格や様態に関する概念はグノーシス主義に対抗するための論理による盾であることは言うまでもないが

三位一体によりイスラムやユダヤ教のような神の平面的な理解ではなく、立体的な捉え方が可能であるとは思う
つまり、三位一体に捉えることで、それらが一であるより次元の高い一なる神の像を心象に形成することができる