他の宗教者にノンクリでも救われるかと問われれば、カトリックは良心に叶って生きていれば救われ得る、と答える
また、パウロは「私ではなく私の中のキリスト」とも語る
また、キリスト者にとって身体は神の宮であるが、この神の宮とはまさにこの良心であり、良心の中に聖霊や紙が働く、とも考える

つまり、私に肉の欲ではなく御霊の実である良心がベースラインで働く時に、「私ではなく私の中のキリスト」と言いうる体験をする

これを隣人愛に適応した時に、隣人の魂は自分と同様に善と悪がせめぎ合ってるが、善の良心が働く時、隣人も「私ではなく私の中のキリスト」といった体験をしている

つまり、良心に叶った生き方をしている隣人はキリストであり、良心に叶った生き方をしてなくても可能態としてキリストである、ということでもある

上に、人間の尊厳の根拠は神にあると語ったが、人間という人格は御霊の実によりキリストに似たものになる

その前提で隣人を捉えると、第一の戒めの意味がより深く理解できると思うわ