◆悟りを求めない人の談話室◆2(仮)
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悟りを求めない人が気楽に、思ったことを書くスレです。
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※荒らしはスルー、あぼーんしてくださいね。
前スレ
◆悟りを求めないの談話室◆(仮)
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1588492122/ 無宗教。安定を得る為に自由を放棄する。
例外無く全ての宗教は安定と自由の両立という不可能への欲望によって生まれた。 >>90
Rūpaṃ bhikkhave anattā,
vedanā anattā,
saññā anattā,
saṅkhārā anattā,
viññāṇaṃ anattā.
Sabbe saṅkhārā aniccā, sabbe dhammā anattāti.
諸法無我が説かれているが
pañca-kkhandha五蘊の無我とは説かれてないぞ、大山君
rūpaとvedanāとsaññāとsaṅkhāraとviññāṇaのanattāが説かれて
諸法無我が説かれている
ちなみに、これは中部第35経典 異教徒サッチャカの論難の冒頭、
仏弟子のアッサジがヴェーサーリーで托鉢している時に、ニガンタの子の
サッチャカから釈尊の教えを問われて、端的に「諸行無常と諸法無我」を
解説した場面だよ
pañca-kkhandha五蘊という概念はここには出てこない >>71
和気あいあいとしてて楽しそうだもんね、良かったね 色・受・想・行・識の無我は説かれているが
それを「中部第35経典 異教徒サッチャカの論難」は
五蘊という概念を使わず「諸行」「諸法」という観点から
それぞれ無常と無我と説いている点が味噌な経典だ。
大山君はその点を無視して、五蘊という概念と無我を
一挙にくくっているが、五蘊無我と説く経典はない >>107
そうだよ 五蘊無我とか言い出すのは大山君とか小川一乗とか
ものごとを区別できんおおざっぱな人たち >>106 >>106
>諸法無我が説かれているが (中略) 五蘊の無我とは説かれてないぞ
>色・受・想・行・識の無我は説かれているが (中略) 五蘊という概念を使わず
…死んでくださいwww
五蘊とは 色・受・想・行・識 の事を言います。 .
.
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/イィィ,,.,.,.,.,.,  ̄ ̄ !
f/ノノノノノノノ ヘ.__ j jノ__ノ
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.!|.|i/_^ヽ|_'___r⌒ y' ヽ^)| >諸法無我が説かれているが (中略) 五蘊の無我とは説かれてないぞ
!|| fニ> :::::: `ー'゙ (_`___)ノ
ヽ.ニ` : /_ノ/川! / >色・受・想・行・識の無我は説かれているが (中略) 五蘊という概念を使わず
__ノ 、 / ヾ---'´ ノ
__ノ \l ` ____,/
\ ノ リ.|`ー--
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( ´∀`) >…死んでくださいwww
>五蘊とは 色・受・想・行・識 の事を言います。
ζ
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(6.------"◯⌒つ"| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ι _||||||||| | < えっつ!!! 五蘊って 色・受・想・行・識 の事だったの!?
\ //__/. / \________________________
/\ /\ あっ中村元さんから学ばんかったのかw
五とか数字で整理された教理は、新しいバイアスがかかつた教理なんだよ
中部第35経で「五蘊パンチャッカンダ」という概念は出てない
1.色・受・想・行・識の無常を説いて、
五蘊無常ではなくて諸行無常と説いている。
2.色・受・想・行・識の無我を説いて
五蘊無我ではなくて、諸法無我と説いている。
しかもこれが、釈尊の教えだと、釈弟子の比丘が異教徒に教理を端的に示している箇所なんです。
それを大山君が勝手に「五蘊無我」と説いていると主張しても、事実誤認と
云わざる得ない。云ってもあほの大山君には伝わらんのだが
事実を指摘するだけだ 五蘊の中のどこにも中心となるものは無い、司令塔のようなものは無い、というのが無我ということだね。。
で、中心となるものは、人間以外のものにもないから、諸法無我となる。。
アートマン、中心となる本質の否定が、無我だよね。。 >>108
悪いな、それは誤レス。
あまりにも酷いお前のレスを読んで笑いで手がマグニチュード9.9クラスに震えちまってなwww
未だにその余波が収まらないんだよwww 司令塔があって、聴け、と命令しているから聞こえるんじゃない、見ろ、と命令しているから見えるんじゃない。。
思考にしても、考えようとして考えているんじゃない。
すべては、縁起によって生じる=無我=無自性=実体ない、でしょ? 五蘊のどれも我ではない、じゃなくて、五蘊の中のどこにも中心核、アートマン、司令塔となるものが無い、というのが無我だね。。 無宗教。安定を得る為に自由を放棄する。
例外無く全ての宗教は、安定と自由の両立という不可能への欲望によって生まれた。 >>111
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
色蘊・受蘊・想蘊・蘊行・識蘊 = 五蘊 = 一切 = 諸法
上記は = の関係です。 面倒くさいからwikiを引用しておく。
>五蘊とは、仏教において、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の総称。
>物質界と精神界との両面にわたる一切の有為法を示す。
>人間の肉体と精神を5つの集まりに分けて示したもの。
>色・受・想・行・識の5種である しかしながら、無我無我言ってても、無我の実証にはならんから、自分を忘れましょう、他人も忘れましょう、となる。。w
それが坐禅修行だね。。 私はマインドフルネスという横文字よりも
坐禅とか瞑想の二文字が合ってるかな
トムさんあちこちで頑張ってるなー はい、ここで問題です。
以下の例文を読んでお釈迦様は五蘊について何と説かれてますか?
1.無関心である
2.無我である
3.無表情である
回答欄 ___________
<例文>
アッギヴェッサナよ、私はこのように弟子たちを戒める。このように頻繁に語る。
「比丘たちよ、色は無常、受は無常、想は無常、行は無常、識は無常である。
比丘たちよ、色は無我、受は無我、想は無我、行は無我、識は無我である。
すべての行は無常である、すべての法は無我である。」と。
(パーリ仏典, 中部) 道元禅師の本読みたくなってきた
彼曰く、山や川や石が、悟ることを応援してくれてるんだってね 僕は鬼が言っているような、自分を観察する、ってことも否定はしない。。
無我と言う理がわかったところで、自分はこうだ、という思い込み、同一化、があると、無我にはならない。。
その思い込み、我執、自我の迷執なんて言葉があるけれど、それを自覚して、捨てていく、あるいは、捨てなくとも落ちていく、という方向かな。。
>>122
なんであれ、囚われが無くなるのがいいね。。 >>124
無情説法というやつかな?
心がホントに静かにならんと、聴こえないかもね。。
こういうとこに居座っているうちはダメかもね、僕もそうだけど。。w >>82
遠慮しちゃった時点でまだまだ修行が足りないことが分かってよかったよ
自分、全然悟れてなーい ヽ(・ω・)/ >>113
そう考えると怖いものなくなるな
>>116
アートマンを設定したとしても留まることが無いからっていうふうにも言える? すぐにソースは出ないけど、五蘊説はお釈迦様のオリジナルではなく、すでに当時の思想界で云われていたと思うけどねwww >>96
>梅の実に対して全て心を開くと
宇宙さんは梅の実そのものになってるはずですけど
私はその「そのものになる」っていういみがよくわからずにいます
ただ梅の実を見ていただけで、心は開いてないと思いますし、
梅の実に対して、心の開き方がよく分からないですねw
梅の実そのものになるって、なれないですね。
なりたいとも思わないしw 映画「マイ・ボディガード」見た
少女が可愛い
あのくらい可愛かったらワシも命捨てたるわ(´・ω・`) >>123
仏教知識で救われるかいな?
知識オナニー好きは続くなあ。 >>105
純粋な方が多い印象や
下ネタが通じん(´・ω・`) >>133
あそこは女性が中心なところあるから仕方ないんじゃ
ちんこ >>132
だから、無我なのに何が救われるんだよwwwww >>128
真我を設定すると、理論的には、無我と言えなくなる。。
無我とは、五感、六根のどこにも中心がない、言い換えれば、多中心的、多中心のネットワークとして、身心がある、ということかな?
何にも執着しなければ、留まることなく、自由、みたいにはなるかもだけど。。 >>132
そもそも 救われるという我を仮設する から苦しむという矛盾に気付けよ、猿www
何年やっても馬鹿は学習しねーんだな。 >>136
無我である自分が救われるかどうかでしょ? 色蘊・・・目や耳に入ってくること
受蘊・・・それを感じること
想蘊・・・それを分別して一定のものにイメージすること
行蘊・・・さらにそれを硬い、食べれる、美味しいだとか判断すること
識蘊・・・これは分かりません(*_*) 無我の無ってのは、有無の無じゃないだろ?
実体ないくらいだよね。。
有無の見に堕ちること莫れ。。 >>139
無我である自分を仮設してしまっては元も子もないでしょwww >>142
そのまえに、自他を救済するための仏道でしょ?
もちろん、自己も他者もないが、その実体ないという理解は、自他を救うというか、安心させるためにあるわけでしょ?
理解のための理解ではない。。 色 物質的要素(人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質を指すようになった)
受 感情(物事を見る、外界からの刺激を受ける「心」の機能)
想 認知(見たものについて何事かをイメージする「心」の機能)
行 意志(イメージしたものについて、何らかの意志判断を下す「心」の機能)
識 知性(外的作用(受と想)、内的作用(行)を総合して状況判断を下す「心」の機能) ダメダメ親父が実は元特殊部隊の兵士で滅茶苦茶強いって展開に燃える
舐めてた相手をブチ殺すパターンの映画が好きや
このスレでは、まさに俺の事や(`・ω・´) wikiarcってホームページからだけどこの説明が分かりやすいね >>125
一つの事に集中しない、っていう練習をすると囚われないかも
>>126
無情説法?始めて聞いた
山や河は自分がないし、山であって山じゃないから、
そういうことがいいたいんでしょうね >>147
そうじゃなくて、鳥の声とか、水の音、川の流れ、などすべてが古仏の説法である、とかだった気がするけど。。 物質が存在するって感覚も、それに対しての精神活動(それを認めて是非善悪することも)
本当は全て認められないこと、それを認めてる我が錯覚だってことだね >>130
全部ひっくるめて梅をみるんですね
酸っぱいとか美味しいとか感じるもの全て否定も肯定もそのままに見る
そうするとそのものになってるらしいんですけど
私自身実感できなくてよくわからないんですよ
分かりたいからやるんじゃなくて、よくわからないけど続けるのが修行かも >>149
それらを認める識、はあっても、その認識内容は認められない、かな?
識も我じゃないでしょ? >>151
五蘊皆空だから、識という働きも空である
働きも「ある」と認められないってことじゃないかな 物質的対象でも、精神的対象でも、識という働きでも
何であってもそれを「ある」と認めるのは「我」
この「我」を解決すると、全てが解決すると
だから己事究明なんでしょうね >>143
結果を聞いてるんであってプロセスは来てないけど? >>152
そういうことでしょうね。。
しかし、知識とか理解とか、そういうものに、自己同一化しがちなのが、受験競争を経て育ったわれわれですね。。w
そういうこと自体、も認められないのでしょうが。。 >>133
女性陣も、本当は下ネタに乗っかりたいはず
でもそんなことしたら男性陣に引かれてしまうのを恐れているので
下ネタをスルーするのでしょうか?どうなんでしょうw
お互いにリスペクトしているのかもね
自己イメージは、そのスレの環境でもあるから
自己を整えることが、スレの良い雰囲気を作っているのでしょうね
とズレた視点から書いてみた どんなものでも、迷いでも悟りでも
それを「ある」と認めるのは「我」なんですね
言い換えると、解脱した人を除いて
誰もが常になにものかを認めてる
錯覚である「我」が無自覚に付きまとい続けてる
これを根本煩悩の無明と呼ぶんでしょう >>153
あると認めるのが我、というと、我が先にあるみたい。。
そうじゃなくて、何かを認めることと、認めた我が生じるのが同時だと思います。
で、認めるものが無くなれば、我も消える、という道理じゃないですか?
>>154
どういうこと? >>154
訂正
結果を聞いてるんであってプロセスは聞いてないけど? >>137
自分だ、と思っている心は「機能」であって、「機械」ではないから、
目に見えないし取り出せない
常に働いていてつかめるものじゃない
ただその心が執着したと感じているだけでその作用もどんどん生まれては消えていく・・・
だったら最初から辛くなる前にやめようってやつですね
ハジさんは怒りを怒りになる前に手放してるみたいだし >>158
そうですね、それが縁起ですね
「我」と「なにものか」は同時発生する
此が有れば彼が有り、此が無ければ彼が無い。 >>157
そうではなくて、そういう風に認める作用も実体が無く、認識作用として、役に立っている。。
異常な執着とかが無ければ。。w
で、迷いに実体が無い、法そのものであるというのを本来成仏というのではないですか?
で、この本来成仏からすると、迷悟が逆に認められないのでは? そして、宇宙全部、この世とあの世も含めた全てを認めてるのも「我」
この根源の「我」を、元本の無明と呼ぶらしいです >>159
よくわからない。。
どういう結果を想定しているのですか? >>162
いえいえ、「役にたつ・役に立たない」な人間の解釈
そうではなく、軽やかで健全な働き・異常な執着の働き
それらが実はそのまま一如の等しいもの
妙法、真如の働きであるというのが理屈としての仏法でしょう 元品の無明
無明とは、根本の煩悩の一つで、生命にそなわる根源的な無知。特に自らをはじめ万物が妙法の当体であることがわからない、最も根源的な無知を「元品の無明」という。
これは創価学会の教学のサイトの説明です >>144
そっか!ありがとう
識蘊は受・想・行を総合して判断を下すから、
「そういや最近それを食べてなかったな。今から車でそれを買いに行こう」とか
具体的な行動を生む作用の事かな >>165
その仏法からすると、その仏法を明らめると、迷悟というのも認められないのでは?w
もちろん、明らめることが悟でいいんでしょうが、悟にも実体は無い、迷いにも実体は無い、になりますよね。。w >>156
悟りスレも野良が出てくるだけで雰囲気が変わる(´・ω・`) 宇宙もこの世もあの世も生も死も
全てを手離したときはじめて、一切万法が妙法・真如そのものであったと明らかになると
上で出ていた無情説法はそういうことでしょう
見えるもの聞こえるもの山川草木全てが妙法の顕現であると 仏教は、認識以前に X が存在するという見方をしないで、認識と存在の相依(同時)性を説いていた(唯識説)かと思うんです。 >>168
そうですね、迷いも悟りも
両方ともに妙法・真如のあらわれそのものということになります
曹洞宗の発心寺系の人が、「だれもが法の人である」とよく言われるのはこの意味でしょう >>150
梅の実を見ている自分と梅の実が自分を
見ているが同時に現れたって感じです。
それから見るってのだけになってしまったのです。
梅の実になるってのは分かりませんです。 >>148
石の感触、風の音、雲の移り変わりも説法なの?
人間みたいに言葉をしゃべらないから、
言葉として鵜呑みに出来ないところがいいところだね
全部自分がありのままに感じたことが自然からの教えだと思う >>173
そこらへんがわかってくると、途中であっても、まあ落ち着くというか、安心が得られたような気になる、ということでしょうね。。 「心迷えば法華に転ぜられ 心悟れば法華を転ず」
転ずる(悟)も転ぜられる(迷)も、一如の法華であると >>176
でも、こういうことはあまり語らない方がよいとも言われますね
迷いから出て悟りを求めようとする、修行者の求道心をだめにする恐れがでますので
だから理屈だけ知ったらまあ忘れる
いくら理屈で知っても絵に描いた餅、本当に自分の心身で明らかにしなきゃどうにもならないということでしょう 安定を求めるが、自由を諦め切れなかった者たちが求めるもの。それが宗教。 誰かに褒められたこともついつい自己同一化してしまうよね〜(/ω\) >>175
感じ方、感覚だと思います。。
>>178
しかし、理がわからないと、体験した時に悟ったさん、になってしまうような。。w 修行するのは、お釈迦様一人でええねん(´・ω・`) 潔く社会に魂を売れなかった者達が求めるもの。それが宗教。未練がましい。 >>164
”無我なのに何が救われるの?” に対して、”無我である自分が救われる” じゃ答えになってないという事です。
何故なら、”無我である自分”を仮設していますからね。
また、それ対して後付けで ”無我である事を認知する” 云々というプロセスを云ってしまえばきりがないでしょ?
大山の云いたいことは、我見ゆえに迷うのに救われるような我を設ける(我見を立てる)事の矛盾を指摘してるんです。
つまり、”何が救われるの?”に対して、何かを作れば常見に墜ち、何もないといえば断見になるって指摘です。
答えを求めてるんじゃないんです、矛盾を指摘してるんです。 法華転法華
>>167
色→受→想→行→識の順番だと思う
例えば目の前のスマホを例にとると
スマホ的な(スマホと認める前の)あらわれイメージが「想」で
対象として認めるのが「行」で
「これはスマホだ」と識別してそれを好き嫌いとかどうこうしようとするのが「識」なのかな
しっかり調べてないからおかしいかもしれんけど >>174
梅の実ちゃんに良い思いがあるんだなーって想像しました
分からない時点で、理性が働いてるのかな?
なれるわけないよぉっていう冷静さが…w
野菜苗たちが外に放置プレイだったことに気づいた
落ちます(^^)/~~~ ┏━━━━━━━━━━━━┓ ∧_∧ 5/10 東京11R 芝・左 1600m
┃第25回NHKマイルカップ(GI)┃(´∀` )<3歳(国際)牡・牝(指定)オープン 定量 発走15:40
┣━┯━┯━━━━━━━━┻○━○┯━┯━━━┯━━━━━┯━━━━┓
┃1 │2 │タイセイビジョン ...[牡3]│57│石橋脩│(西)西村真│アーリントン1┃2.0
┃2 │3 │レシステンシア [牝3]│55│cルメール│(西)松下武│桜花賞 2┃4.9
┃7 │14│ルフトシュトローム [牡3]│57│D・レーン│(東)堀宣行│NZT 1┃7.9
┃8 │17│サトノインプレッサ [牡3]│57│武 豊│(西)矢作芳│毎日杯 1┃8.6
┃3 │5 │シャインガーネット [牝3]│55│田 辺│(東)栗田徹│ファルコンS1┃10.8
┃4 │8 │サクセッション ...[牡3]│57│横山典│(東)国枝栄│スプリング3┃17.6
┃3 │6 │ギルデッドミラー ..[牝3]│55│福 永│(西)松永幹│アーリントン2┃26.3
┃2 │4 │プリンスリターン .[牡3]│57│原田和│(西)加用正│アーリントン3┃37.8
┃8 │18│ウイングレイテスト .[牡3]│57│横山武│(東)青木孝│NZT 3┃47.4
┃6 │11│ラウダシオン ..[牡3]│57..|M.デム-ロ|..(西)斉藤崇│ファルコンS2┃56.1
┃8 │16│ストーンリッジ .[牡3]│57│松 田│(西)藤原英│毎日杯 6┃72.6
┃6 │12│ボンオムトゥック .[牝3]│55│田中勝│(西)高橋亮│アーリントン4┃81.3
┗━┷━┷━━━━━━━━━━━━┷━┷━━━┷━━━━━┷━━━━┛ >>156>>169
恐れてる訳じゃなくて私は本当に
苦手で上手く返すことが出来ないの
でも出来ないものは仕方ないと
思ってるんだけど…
雰囲気悪くしてるのかな 大人は無宗教。
大人は安定を得る為に自由を放棄する。
大人に成り切れなかった者達が求めるもの。それが宗教。未練がましい。 >>184
実際の話で言えば、無我とか言いつつ、誰もが自分を無意識に想定しているでしょ?
無我がわかっても同じだと思います。。
しかし、そういう我を認める働き、ある時あったり、なかったり、そういう働きに実体が無い、ということ自体が救いなのだ、
というのであれば、同意します。。
しかし、われを認めるのが、即、仏教的に断罪されるべきことなんでしょうか?w
あるときは、われを認める話し方、説明、をしなければ、何も伝えられないんじゃないですか? 理屈なんか、どーでもええねん
スマホの仕組みを理解する為に工学部を卒業せんと操作できんのんか(´・ω・`)? ”無我なのに何が救われるの?”
何か救われるものが有るというのならそれは常見に墜ちて、そんなもの無いというのならそれは断見に墜ちる、っていう ”指摘” です。 無我と言う法で言えば、救われる救われないもないのだけれど、個々の人を見れば、救われている人といない人がいる、ということだろう。。
古則でもあったんじゃないかな?
肉眼、仏眼、法眼の三つの眼で見るとか。。w
どれかが間違っているとかじゃないと思うが。。 怒りとか不満とか否定性を常に抱えている人はいるよね。。
そういう人こそ、それを他に向けるのではなく、自心を明らめて救われて欲しいとは思うが。。 >>188
昔のように野良とかのに癒されてえー
本スレを放置して糞野郎どもが沸いてきてやがる
チョー雰囲気ワルー(`・ω・´)プンスカ >>186
>分からない時点で、理性が働いてるのかな?
なれるわけないよぉっていう冷静さが…w
分からないって言うのは理性なのですか?
なれるわけないよって先入観もなかったですよw
瞑想をしたあとでもいいし、
周りの景色や家の中でもいいです、
ゆっくりと呼吸しながら
見回すと面白いですよ。
何かを見ている自分と見られているモノに
二分して観ていることに気づきます。
自分がいて自分以外があるってね。 大山!くろ!
ええ加減にせえ!
本スレでやれや
わしゃ野良とかのを独り占めしたいんや(`・ω・´)💢 >>197
浮気してるって、ワイフに言いつけたる。。w >>190
>しかし、そういう我を認める働き、ある時あったり、なかったり、そういう働きに実体が無い、ということ自体が救いなのだ、
仰りたいことは分かりますけど、私はそこは否定しますね。
ロンさんが良く仰る ”決着が着く” というのは、私は ”どこまでも未決のままに探究することが決着” と思ってます。
>あるときは、われを認める話し方、説明、をしなければ、何も伝えられないんじゃないですか?
形容詞として用いる事は否定していませんけどね。 >>200
では、お釈迦様の悟りを否定する、ということですか?w ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています