キリスト教は自然に対して人間中心主義だからね
創造主→被造物(人間→自然)という序列が確固として存在する

ギリシャにおける科学は基本的にテオリア、つまり観察としての知的実践で
アルキメデスなど操作系・実用系の知というのは周縁的なものだったけど
近代になってデカルト的区分では自然(人間の身体を含む)はすべて res extensaとして
機械論的に捉えられ、単なる観察の対象から実験・利用の対象へと変貌する
それが端的に現れているのがフランシス・ベーコンの思想で、まさにこのベーコンの思想において
創世記冒頭の世界観が科学(学問)という形態で具現化する
自然に対する支配の思想はなにもベーコンに限らず、当時の知識人の間ではごく当たり前の考えだった
それも最もよく表すことばがロバート・ボイルの「自然を拷問にかけて自白させる」ということば

人間は神によって自然に対する支配権を与えられ、自然は人間に従属するものであるという世界観が
大きく揺らぐのは19世紀のダーウィンの登場を待たなければならなかった