本覚・性起、始覚・性具の問題は、仏教を消化していく中で誰しもが行き着く問題じゃないのかなぁ?
性起・性具の問題はここじゃそのレベルじゃないからさておき、本覚・始覚の問題かな?

安易に”行き着く先は同じ論”は云いたくないんだけど、とどのつまりどちらも修行を否定するものではなく、修行の在り方を思想的に見てるって事でしょ。

大抵の人は、仏教を知ったとき始覚的なものと受け取り、ちょっと学びが進むと本覚的な的なところに行ってそこに腰を据えてしまって、そこから先に進まない

その意味ではバカムイよりもあほロンの方が仏教の理解は進んでるともいえるけど。