仏法というのは、単に人間の見解を離れたすべて、というだけ。。
自分も含めてね。。

人間の認識以前だから、もともといい悪い無い。迷悟も無い。。
人間が勝手に、いい悪いして、あるいは、迷ったとか悟ったとか言って、右往左往しているだけ。。

この仏法は、人間の心も含むから、どうあろうが、そうあるってだけで、いい悪いは無いんだよ。。
煩悩あろうが、転倒夢想しようが、混乱してようが、落ち着いていようが、ただそうなっているというだけ。。

で、発心というのは、これではダメだとか、もっと素晴らしいものがある、仏がある、
とどこかから聞いて、それを目指すんだけど、この仏法がわからんうちは、どうしても自分の心を見て、
よくしようとか、他がある、と思ってしまう。。

で、そういう風に自分の心を見て、どうなったこうなった観察している、あるいは、人を見て是非している、
そういうことをやっているうちは、仏法がわからん、言われても理解できない、のかもしれない。。

で、坐禅とか瞑想も、ちゃんとやれば、この仏法を理解して、そのものになる、そのままにある、
という道に役立つのだけれど、師に参じずに、一人でやると、どうしても、自分がよくなった、とか、
また悪くなったとか、結局、自分の見解の中で、見てしまう、これをやるとおかしな方向へ行ってしまうんだろう。。

静かになったり、定力が備わるとか、いろいろ体験するとか、それらがあるために、それらを私しておかしくなってしまう危険性がある。。
だから、そうならように、正しい師に参じる、ということがどうしても必要なんだろう。。