>>899
自己と万物は一体同根ですから、平等と差別は表裏一体にして、別者ではありません。
平等でありながら差別があり、差別でありながら平等である。
即ち、平等即差別、差別即平等の世界です。両堂の首座が同時に同音に一喝したのに、
「賓主歴然」と臨済禅師が喝破したのは賓主があって賓主なし、賓主がなくて賓主がある、
平等即差別、差別即平等の当処を示そうとしたのです。

世間を見れば、男女、親子、師弟、老幼、賢愚、美醜、大小、長短、いろいろと差別があります。
その差別だけでは封建的な差別社会になってしまいます。
また、平等だけでは、みそもくそも一緒になって、悪平等です。
平等即差別、差別即平等とは、そういう差別を認めながら平等であり、
平等であるが差別があると云う事です。男は男、女は女、老は老、幼は幼、師は師、
弟は弟とその立場を守って、その上での平等と云う事です。
人間的には男と女、老と幼、師と弟は平等であるが、各々歴然と差別を認める、
賓と主を区別する所に社会の和が保たれるのではないでしょうか。

『枯木再び花を生ず −禅語に学ぶ生き方−』
(細川景一著・2000.11禅文化研究所刊)より
http://www.rinnou.net/cont_04/zengo/110501.html
から抜粋です。