>>453
だから、何をやるにもそれそのものになって、そのものになっているということも忘れる、これが修行だと言われる。。

しかし、言語活動というのは、自分が言ったこと、書いたことを自分で見ているわけだから、
自身を認めている、自分を認めている、ということになりかねない。。

本当は、私が書いている、なんてことはない、それを無我と言うんだけど。。w

だから、そういう風に考えれば、言語活動も、無我を知る助けになるかもしれない。。

自分の言葉、という表現は、比喩ととしてしか認められないのであって、言語とはすべて他者の言語だからね。。

しかしながら、自身の言葉でわかりやすく説明できないものは、ほんとの意味でわかっているとは言えないのだろう。。