【仏教】悟りを開いた人のスレ455【天空寺】
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修行もする事。(任意)
>>970が次スレを立てる。無理なら以降の有志にお願いする
※前スレ
【仏教】悟りを開いた人のスレ454【天空寺】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1570700092/ >>556
真言密教自体は空海により完成度が高く、そこに日本土着宗教の思想を取る入れる必要性は無かったけど、神仏習合に連なる宗教の思想の形成において、真言密教や高野山等で行われていた修験道がその形成に役割を果たしたというのなら理解出来る。
ただ、W高野山Wが主流かどうかは俺にはなんともね。 >>568
>知欲も悟りを妨げるんでな。
根拠は?
www >>571
多分既成概念を対立概念で打ち消して第三の言語化出来ない領域を抽出する論法が解らないんじゃないですか? >>564
>書物は死物
お前が死物にしてるだけ。 「相依性に依って仮りに和合して立ち現れている世界」が「現象する世界」だからですよ
不生不滅なる縁起を釈尊が説いたち竜樹は主張しますが
釈尊が説いたのは生じ滅し現象する縁起です。 >>536
いえいえ本当のことなんで。
私は特に何も思いませんのでいいですよ。 >>575
有でも無でもない事を説明するのに空が適してたんだよ
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%A1%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%A9%E3%81%86
非有非無の中道
すべてのものは存在するという有見、存在しないという無見の極端な考え方から離れた修行道。これらは「有無の二見」といわれている。
これらは、初期仏教から言われていた中道である。
これに対して、大乗仏教の中道は、龍樹のまとめた方法論がある。
龍樹の中道
中観派の祖である龍樹は『中論』の第二十四品第十八偈において、縁起と空性を中道とをほぼ同義語として扱っている。これによって、龍樹は釈迦の中道への回帰を宣言している。450偈中ただ一回のみ使われているこの偈に基づいて、『中論』と名付けられている。
後、龍樹の教えをついだ中観派では、いっさいの法(存在)は世俗においては無ではなく有であり、勝義においては有ではなく無であるということが中道であるとも説いている。 >>575
>「相依性に依って仮りに和合して立ち現れている世界」が「現象する世界」だからですよ
だから、八不なんじゃないんですか?
法有を説かれる立場の方ならともかく。 釈迦に於いて
わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。
如来(釈迦)の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。
如来(釈迦)は、この法を自ら覚し、
等正覚(とうしょうがく)を成じ、
諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり
『自説経』では、
此があれば彼があり、此がなければ彼がない。
此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。
竜樹において、
觀作作者品第八
業に因りて作者有り、
作者に因りて業有り、
業を成ずる義は是の如し、
更に余事有ること無し。
作と作者を破したるが如く、
受と受者も亦た爾り、
及び一切の諸法も、
亦た応に是の如く破すべし。
私取っては同じ読める。
>如来(釈迦)の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。
これにいたっては、法華経かって 書物は月を指す指。
それが分っていても、
なお、知識を弄びたくなるのは、
食欲と性欲と並ぶ人間のヒツコイ欲望だなあ。
度し難し (._. )( ・_・)(・_・ )( ・_・)アレ? 荒らしが集まってきて無内容のコピペ合戦やってるなぁ、外道は去れ!? 100`きった!
でも右膝に違和感が…
あと20`捨てる >>585
阿字観を水面に映った月と評した道元さんの至言の安っぽいバクリじゃん?笑
アンタ 他人は皆自分より馬鹿だと思ってるの? >>590 ポンプー さん
> 100`きった! でも右膝に違和感が… あと20`捨てる 』
(*´з`)コソッ・・・・・炭水化物ダイエットが最も効果的だよ。
それに目標が甘い。
身長がどれくらいかが、わからないが、70`は切る。
天才は努力する。
努力する人を天才と呼ぶ。
頑張れ。 >>557狂気の感情たちまわり
いくらでもあるだろ ? 長嶋の役の陥落の時 最後に全裸で脱出した十数名は その後どうなったのだろうか ?
真宗は あれ以来 ただの一度もその時の犠牲者を供養していない。
皆成仏するという教義に反するから。 真宗は あれ以来 五百年間ずっと妻帯と世襲を繰り返し続けている。
今では 他の宗派もそれに倣うような形となっている。
女を抱き、酒を飲み、子供に法を継がせ、金銭に触る。
世界中で 戒律をまもらないのは 日本の仏僧だけ。
十戒をまもらないクリスチャンは クリスチャンと言えるか ? その他 権力者の妻と不倫をして 影から政治を操る僧侶とか、宗派同士の水面下での攻防による殺し合いとか、
少し探せばいくらでも出て来る。
最近の僧侶の精神病もある。
チベットの死者の書には 「自分の職業の本来的な義務に失敗すると地獄に落ちる」とある。 我が国は 豊かで何不自由なく 仏教寺院も沢山あるが、本当の仏の教えは無い。 あなたがたは 戒律を破ったまま改めようとしないのだから、このままその議論を続けていけば良いのである。
ちなみに、タルムード形成後のユダヤ教、キリスト教、イスラム教は アブラハムの宗教ではない。
全く質を異にする者である。
自分の教えを最上とするあなた方は せいぜい我々をバカにし続けるがよい。
あなた方の殆どには さまざまな物事の本質を見抜くことは出来ないだろうから これらの事を理解することは 一生できないだろう。
真言密教自体は、空海の天才性故か、完成度が高くそこに日本土着の(宗教)思想が入り込む余地はほとんどなかったけど、天台宗は、最澄においては、空海程の完成度は見られなかったので、後の天台本覚思想に連なる思想も日本土着の(宗教)思想が入り込む余地はあったとされている。
また、日本土着宗教の思想も仏教と比較すれば体系化がされてなかったので、仏教思想が取り込まれている。 ガンジス河の流れを一人の人の手の平で止めることが出来ないように
この宇宙の真理の湧き出る流れも いまだただの一度も尽きたことは無いという。
我々が救われないのは すべて法則の通り順調である。 >>596 名無しは荒らし さん
> 真宗は あれ以来 五百年間ずっと妻帯と世襲を繰り返し続けている。 今では 他の宗派もそれに倣うような形となっている。 女を抱き、酒を飲み、子供に法を継がせ、金銭に触る。
世界中で 戒律をまもらないのは 日本の仏僧だけ。 十戒をまもらないクリスチャンは クリスチャンと言えるか ? 』
親鸞は浄土宗とは別に 分派を作ろうとしたのではない。
彼の死後何代目か知らないが、その人が別の浄土教を立てた。
妻帯が悪いとは言えない。
きちんと妻帯を宣言し、実践しているのだから。
その事は法然にも相談済み。
其れでしか生きられないのなら、そうするしかないよな、と。法然は言う。
また、ヨシュアも厳然としてユダヤ教である。
死後、50年ぐらい後、ローマのための徴税人サウロがヨシュアの声を聞く。
矢田屋の解放、自由、主体を勝ち取れ、と。
「サウロよ、あなたはなぜ、迫害するのか」
キリスト教とは、パウロ教である。
浄土真宗とは、蓮如教である。 >>603
訂正
死後、50年ぐらい後、ローマのための徴税人サウロがヨシュアの声を聞く。矢田屋の解放、自由、主体を勝ち取れ、と。「サウロよ、あなたはなぜ、迫害するのか」
↓
死後、50年ぐらい後、ローマのための徴税人サウロがヨシュアの声を聞く。ユダヤの解放、自由、主体を勝ち取れ、と。「サウロよ、あなたはなぜ、迫害するのか」 >>407
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ教典ではありませんがありのままだと思いますけど?
>喫茶喫飯
>空手把鋤頭歩行騎水牛 >>542
あ、そうなんだw てっきり、行くものは行かないの論理化と思ってたw
生じるものは生じない 滅するものは滅しない
面白いですね〜。 入門サイトでも見ようかなw
>>575
分かんないんだけど、
さっきの行く行かないの論理だと現象するものは現象しないんじゃないの?w >>605
>空手把鋤頭歩行騎水牛
これってどういう意味ですか? >>607
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ麦も教えて頂いたんですけど
意味は麦よりお寺さんの説明が良いと思いましたのでw
URLが長すぎでしたのでコピペです
>「空手把鋤頭 歩行騎水牛」 『五燈会元』
「空手というのは「何も持っていない」ということですから、「手を使わずに」ということです。
空手というと、『碧巌録第九十六則』の「空手にして鋤頭を把り、歩行して水牛に騎る」(「素手でありながらすきをにぎり、
歩いていながら水牛にのっている。
有無の自在な操縦ぶり」『禅語辞典』入矢義高監修)という有名な語がありますが、この語もその類語です。
一見すると「手を使わずに鐵牛を牽く」という意味に思いますが、この「空手」は禅語で使われる場合、単に「手を使わずに」という意味ではありません。
「空手にして鋤頭を把り」が、すきと自分とが一つになっている心の様子を表現したものである様に、この場合は徹牛と自分が一つになっていることを意味します。」
つまり「空手にして鋤頭を把り、歩行して水牛に騎る」というのはどちらも
「三昧(さんまい)」ということが言われている訳ですね。
畑を耕す時は畑を耕す三昧、牛に騎乗する時は牛に騎乗三昧です。
かつて天才F1レーサーだった故アイルトン・セナは、レース中に神様を見たとか何とか言ってたように記憶していますが、例えば超一流のレーサーは人馬一体ならぬ、
人車一体の感覚を身に付けているのかも知れません。
自己と他者の間に介在するモノが何も無く、ピターッと一つになった世界。
それを禅では「三昧」とか、「不二(ふに)」と言います。 >>608
あ〜なるほど! それはどうもわざわざありがとうございました。
なるほどうまいこと言いますね。
心の様子ってのが引っかかりますけどねw
仏心ならそうでしょうけど、その後の説明でん? てなりましたw
なんにせよ。上手な説明で分かりやすかったです。 >>609
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ一体になってる時って無意識ですねw >>610
誰が言ったか存じ上げませんが、
おそらく「一」でないときはないとでも言いたかったんじゃないでしょうか。
言葉を借りるとすればいつでも誰でもそうでしょって。
頭の方がおかしいですからね人間ってw あ〜それと、「一」でもないと言わねばならんのですね。
めんどくせーな言葉ってw
ま〜単に畑か田んぼを耕してるってだけのことですね。 零じゃなくて一なの?
空はゼロだとすると一はゼロです
ゼロは一です
なんかなあ
よくわかんないけど一なんね >>613
ゼロは今風に言っただけですよw
前に今風にわかりやすくいってほしいっておっしゃってたので。
あーゼロ距離ゼロ時間の話じゃないのね。
さぁ〜 空って理解しないほうが空の実践になっていいんじゃないw >>614
そうなの?
でも中村先生とかは空とはゼロの事ですとか
大昔の学者もゆーとるよ
空とは一体のことですは、あんまし聞いたことない 何かが抜け落ちた空と
現象そのものになってるのと
チョットちゃうイメージある
空があるから通り抜けてくわけで、空でなければ、一ってのは、単に没頭しちゃってる時ちゃう?
ゲームに夢中で我がないとかwwww
これは我はないけど、理解もないやつ >>615
あ〜かの有名なハジメちゃんですかw
怒られるなこんなこと言ってたら バカボンの弟の名前は中村先生に
ちなんでつけられたそうですよ。
一体だとゼロじゃないですか。切り口の違いですよ。
禅だと一如って言うんですか。 一つになってるからゼロでしょ。
こっから自己は諸仏なりと覚知することをもちいずになるんですけどねw
私が推し進めてるのは対象としないことです。一切を(宣伝) >>617
それは法が空になってなくなるんちゃうん??
現象だけになってる世界だから
一になってるってことで、対象のみの世界
あれ?
対象にしないのか????
ってことは、自分だけの一の世界?
よー、わからんw
ハジメちゃんって、そーなんや
天才バカボンって仏教の話しやったんかwwwww
レレレノレ〜 >>618
そうそうレレレがシュリハンドクでパパがお釈迦さまでねw
あれ?けっこう有名な話だと思ってた。
うんうん対象にしない。しないってこともしない。
しないっていうと主体的なイメージあるよねw まーめんどくさいからしないでいいかw
だから世間一般の見方だと実体があるからね〜。 ありませんよ〜ってのが仏教じゃない。
思い出した。おんりーいっさいてんどー。顛倒してるんじゃない。
仏的な見方をするとw 実体ないし無常だしって。それで空ってことにしといてw
自分ってのも上記のとおり有るとは言えないんでしょ。でもなんにもないわけじゃない。
これなーんだ? >>619
ええええ??
なんのことやら、さっぱりやw
1つになってるとか、そーなってても、あるものはあるやん
ただ、なんちゅーか、透き通ってくわけで
だから、そこに、空っぽい感覚が芽生えてないの?
流れてくわけで
顛倒してるって世界と自分が逆になってることちゃうんかなあ
今の一の話って
自分→世界が
世界→自分になることで自分を世界にしちゃってるから
自分が消えてる
それで世界が、あるだけになるけど
その世界も空、無常なわけで、うーーー
だから、うーーーーー
それも見てないのかなあ、(・~・) >>618
空は無じゃないって説明したじゃん?
説一切有部vs中観派の一切皆空が小乗と大乗の大論争だったのね
前者が法有(法とは実在する)の立場で後者は法空(法は実在しない)の立場ね
大辞林 第三版の解説
ほうくう【法空】
⇒ ほっくう(法空)
ほっくう【法空】
?仏? 〔「ほうくう」とも〕 すべての事物は、因縁によって生じたものであって、実体性をもたないということ。小乗仏教が人空のみを説くのに対し、大乗で強調される。二空の一。法無我。 → 我空 ・人空にんくう >>620
なんで一つになってるって知ってるの?
知ってたら一つじゃないじゃんw
そこに空っぽい感覚があったらその空って「有る」よねw
顛倒ってのは見方じゃないかな。
消えるわけじゃない。有るとも無いとも言えないってだけじゃん。
まーいくら理屈詰めても実感湧かないでしょ。
頭おかしくなるからほどほどにしとかないとw
流れるってのはやっぱり対象化して眺めてるよ。
え?なに?あんたの言うとおりにするなんて言ってない?w
最近目がかすんでのう・・・ >>622
うーーーーーむ
やっぱり眺めてる問題が出てくるのか、、、
頭の認めたことに用はないとして
ひとつになってて眺めてないとして
それじゃあ、悟りみたいなんが、ないやん?
ただやってるだけみたいになるし、、、 >>623
眺めてるねー 眺めようとしてるのか。
自覚ね〜。 それはその人に仏縁があるかどうか次第だからねなんともw
まー眺めちゃうよどうしたって。思考先行で生きてるんだから。私もそうだった。
眺めてもいいのよ。何してたってw いいけどそれを自分で許してると、
元の木阿弥になっちゃうね。 あって、気づいたら本当はもう眺め終わってんのね。
本当の意味で一切なにも気にしない時間作るといいな。
スマホや携帯置いてねw わりとね時間ができるよ。 どうせだからって、
家事やってたらけっこうガンガン家事できるw
まーゆっくり行こう。人生さほど長くないから(キリッ)
箒(ほうき)を捨ててバットを握るレレレのおじさん
でおー!
++++++ | |
| ● ● | | |
◎=| ─── |=◎ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ ─── \ | クリスチャン救援3号ホームランになるかも
| | ̄ ̄□ ̄ ̄| | < 今回は、俺様の修行の成果一本だ笑。
| \□_□/ | \__________________
\_____/ | |
|\| |/| | |
/ ̄ ソ  ̄\ | |
| / | | |
| / __ ̄|=( )
|/  ̄|=( )
|  ̄ ̄| ̄ | |
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  ̄
>>623
それと前も言ったけど、あなたの中でこれはって人いない?実際に。
あなたの書き込み見てて、あ〜懐かしいなって思えたことあったよw
その人に教えてもらった方がいいよ。 私のは遊びみたいなもんだからw
間違うと大変なことになるからね。せっかく仏教に出会えたんだから勿体ないよ。 >>626
マジっすかあ、、、
なんか書いちゃったかな、、、
もしかして会ったことあった人なんかな
チョットビビってきたw
うーーーーーん
誰かに教わりに行った方がいいんかなあ
そういうの超絶苦手なんで、、、 兵庫県教職員組合を滅ぼせ。
これはきっかけとなって他の
ボロがでまくるぞ!!!!
マジでおもしろくなるぞ!!! 私に情報提供した奴は本当に神だな。
兵庫は死んだな。
観る者は観られる者とは
こういう意味でも使い得るのだな。 連中を始末仕様。
だがまだ待ったがかかてる。
これは調整ができとらん。
またくおじゃんるーとか。 >>627
あれ?覚えてないの自分で書いてたのにw
まぁ私と似たようなこと言ってる方いたでしょ。
迷惑になるから実名は出さないけどね。
もちろん自由だけどせっかくそこまで来ててもったいないと思うなー。
そう言う人がいたら道を間違わないように導いてくれるからね。
一番は自分で実践することだよ。実践しなきゃ自覚は決して生まれないから。
論理が好きならそれも勉強すればいいじゃないw 神戸の件については、片付けるしかない。
これが総本部の遺構である。 加害教員自身および親族も
皆殺しにするかもしれないとの
脅迫的投稿が相次いでいることは
正義を実行する者として称賛に値するが、
些か加熱しすぎている。
その小学校を取材したマスコミを直ちに買収しろ。
情報は本部へ。
裏ば取れたら即刻実行する。 週刊誌と影響力の多大なユーチューバーに情報を流せ。
あとは適当に流れる。
私に逆らう者は皆死ぬしかない。 >>627
>老師は胸に指で円相を描いて
>「ここを空にして坐りなさい。そして自分を動かさないのです
>自坊に帰って掃除やなにやら忙しいであろう。何を云われても
>ハイっと言って、シャッシャと終わらせて、そして坐りなさい
>ああ言われた、こう言いやがったと自分を余計なことに疲れさせないようにしなさい
>五感をみんなそのままにして、でも決して(胸を指して)ここまで入れないのです
>そうすると、ものを見ても(目の前に手をかざして)ここから入ってこないのです
>聞いても(耳に手をかざして)こっちに入ってこないのです
>まわりのもので自分をまどわさないのです
>そうして坐るんです
>必ずあなたを動かす根源が自覚されるときが来ます
>やれば必ず出来ます」
この方は故人です。
この方の会下の方ですかね
昔、一ミリも違わないと言った方いました。
よくわからないが、心に残りましたね。
一ミリも違わないのに心に残ったw
この語源がものすごく気になっていたんですね。
觀涅槃品第二十五 二十四偈
25・21
涅槃と実際と、世間と際と、
是の如き二際は、毫釐の差別無し。
これを始めてみた時はびっくりした。
無為をよくここまで言葉にした。
竜樹は天才だねw ポッタン師よ、バカだからここにいるんだw
そう言えば、ハジさんのスレで、
ポッタン師も、わかったとか叫んでいたな。 これから三代目四代目になると どういう面白いことが起きるか 楽しみだな。 墓地の仏さんたちも そろそろコイツラが僧侶だというのは 嘘だというのに 気付いてもいいころだな。
嘘は いつか必ずバレる。
バレた時が 恐い。 >>645
感謝、
本位において大乗にも引き継がれいるということでしょうか?
その視点において、わたしは大乗を眺めています。 / /
/ /
(( ,, - === - ィ / また奥様方に負けたの?
,,-´-- ー-y / . 悔しいねー悔しいねー
/ ⊂二___ ィ´ )) もう泣かなくていいからねー
:/ _ , 、_ :::|:
:| o●) 三 (●o ::::|:
:| /// し /// ::::|: ←名無しこと夕
:| -ー―- ::::/:
, ― \ ` ̄´ /ー 、
/  ̄  ̄ :::ヽ
:| :::|:
:| | | ::::|:
:| | | ::::|:>>646 >>646
正法五百年 像法五百年と言われていて仏像礼拝が無かった初期の大乗迄がギリギリじゃないかと… >>649
昔、竜樹までは何とか釈迦も首をかしげながら納得したかもしれないとパーピマンが言っていたんです。
これがきっかけで、大乗を眺めているわけです。
どうもこういう事が好きなもんで。
いや、パーピマンが言っていることはあっているのかもしれない。いや違うのかもしれない。
本位において自分で確かめているわけです。
Wikipedia、縁起より
>わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。
>如来(釈迦)の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。
>如来(釈迦)は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、
>諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり
如来(釈迦)の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。
この文章がすごく気になります。 空手把鋤頭歩行騎水牛
↑
斉の東陽のボケ老人の在家の善慧(497〜569)さんの言葉ですね
出典は『五灯会元』
空手にして鋤頭をとり、歩行して水牛にのる。
人、橋上より過ぎれば、橋は流れて水は流れず。
手には何も持たずに鋤を取って田を耕し、←ボケている
歩きながら水牛に乗る。←ボケている
そんな人が橋の上を過ぎれば、
橋は流れて水は流れない。←狂ってしまった
菩提達磨に出会ってしまったのでボケたそうです。。。 >>651
知識と論理にがんじがらめになっている人間に、
矛盾したことを言って、追い込むんだよ。 >>649
仏像は、ガンダーラのギリシア彫刻風仏像と
それを真似つつも純インド風仏像を作ったマツラーが
紀元1cに成立しているので初期大乗と同時代だし
南伝分別説部も仏像崇拝を普通にしているので
仏滅五百年頃に佛教全体で信仰されていた文化です。
カニシカ王時代に保護されて発展した文化です >>650
>昔、竜樹までは何とか釈迦も首をかしげながら納得したかもしれないとパーピマンが言っていたんです。
私も般若心経の空から龍樹菩薩を辿って原始仏典の重要性に気付いた口ですから言わんとする所はなんとなく判ります
首を傾げたかどうか迄は言えませんが
>わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。
法についてですかね?
>如来(釈迦)の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。
この場合の法界とは空の事で世に出ていようといまいと空で有るという意味でしょうね ただ釈迦は常住も断滅も邪見であるとして質問に答えなかったので 解釈にひねりが要るかも知れませんが
>如来(釈迦)は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、
>諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり
等正覚(無分別智)を達成した釈迦が分別を説くのは衆生の為に‥方便の事でしょうね
>如来(釈迦)の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。
>この文章がすごく気になります。
迷いの生存に戻らない為にあらゆる思いを滅したという解釈で行くと法(空)と一体化したままでその精神活動は停止してるのではないかと考えています 思いが無いから無漏となって死の王に見られない‥次の転生の原因が無くなったという事ではないかと
仏教の説く六つ(五つ)の生死有る世界に戻らなかったとして生前に説かれなかった更に別の世界が無いものと考えれば 死と再生の間でどちらにも行かずに止まるというのが 今考えられる最適の結論です >>653
仏像が造られたのはガンダーラでギリシャ人仏教徒によって
すぐすぐインド国内のインド人が受け入れたのかどうか
正確な大乗成立年代が起源前か紀元後かも微妙
従って証明不十分
https://www.kosaiji.org/Buddhism/maha.htm
〜初期大乗とは、大乗仏教の興起の西暦紀元前後から龍樹(150-250頃)までをいいます。 >>651
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ四料簡に当てはめますと
>手には何も持たずに鋤を取って田を耕し、
>歩きながら水牛に乗る。
一如を比喩しているので
人境両倶奪 主観もなく客観もない
>そんな人が橋の上を過ぎれば、
橋は流れて水は流れない。
奪人不奪境 客観的な対象があるだけで,それ以外の心とか自己などはない。 >>655
https://www.y-history.net/appendix/wh0201-053.html
マウリヤ朝のアショーカ王と並んで仏教に深く帰依し、保護政策をとったことで有名であるが、
カニシカ王が保護した仏教はアショカ王時代と異なり、大乗仏教といわれる新しい仏教であった。
王はインド各地に多くの仏塔や寺院を建て、第四回の仏典結集を行った。
またカニシカ王の時代には、ヘレニズムの影響が北西インドに及び、
ガンダーラ様式にみられる仏像彫刻が盛んに造られた。
2c半ば、つまり150年頃のカニシカ王が仏像崇拝者であつたのは史実です。
実際に2cの金貨には、仏像が刻まれているのもあります。 >>656
善慧さんがボケ老人ではなくて、わたし並だと仮定して私の体験談から読み解きますと
1.私は市民農園を40坪ほど拝借して十年ほど家庭菜園をしています。
最初の数年は土は固く、鍬を通さずスコップで耕しのに丸二日かかりました。
そして堆肥40Lを十数袋 腐葉土20Lを30袋などを春秋に入れ続けようやく
ふかふかな土になり、一時間ほどでさくさく鍬で耕せるようになりました。
さくさくなので鍬がなくても手を鍬にしても耕すのも可能です。
とすると達人にとって「空手にして鋤頭をとり」とは、手で畑を耕すほど
土がふかふかであるという意味となります。
2.私は散歩を趣味としますが最初の1か月は2kmもきつかった。へろへろです。
しかし半年も経てば3kmでも物足りなくなり、5km歩くのに1時間かからず
車で移動するより歩いていく方が好きになったりしました。
すると達人的には「歩行して水牛にのる」とは歩いているけど、水牛に乗っている
ようにすいすい楽に軽やかに進んでいるという意味となります。
3.しかし「橋上より過ぎれば、橋は流れて水は流れず」
酔っぱらって、目が回り橋がゆらゆら流れているに錯誤し
反対に絶えず流れる水はまるで流れてないかのように見えたと言う
酔っ払いのたわごとにしか思えません。あるいは狂ったかです >>657
二世紀半ばなら起源前後成立の初期大乗とは百年以上の空白期間がでて更に差が開く
オウンゴール
初期大乗とは、大乗仏教の興起の西暦紀元前後から龍樹(150-250頃)までをいいます。 >>659
2c半ばって150年頃のことよw
龍樹(150-250頃)の生まれた頃www あほやw
で最初期の仏像は紀元後1C
2c半ばにははっきりと仏像信仰が確認できる。
更に『増一阿含経』には
「釈尊は三十三天に昇り、母摩耶夫人のために説法し滞在していたため、地上の人々は如来
の姿を見ることができなかった。如来を思慕して思い悩んでいた優填王は群臣の勧めから、
国内の巧師匠を集めて牛頭栴檀を用いて、高さ五尺の如来像を造らせた。これを聞いた波斯
匿王も国中の巧匠を使わして、金色で高さ五尺の如来像を造らせた。それによってインドに
は初めて2体の如来像が存在することになった。 」
という伝説が記載されている 史実ではないが。 wwwwwwwwwwwwwwww
例えば、風になれば風は吹かないし、川になれば川は流れないだろ?
自他の区別がなければ一如だし、坐禅すりゃ忘我してそう詠めるわけだ。 『増一阿含経』は大衆部所伝と言われていて4cの僧伽提婆の訳で
パーリ増支部と異なっている点が多く信頼度が欠けるという問題点はあるが
大乗ではない、部派の大衆部が仏像押しだったとは言える >>661
大山ちんは、坐って瞑想し
風になったり川になったりするのかねww
そしてオレって忘我しているぜーと思ったわけね
ある意味幸せだねw
でもそんなの無意味だぞ 「空手にして鋤頭をとり、歩行して水牛にのる。」
は、体感的にわかる。
手を鍬にしたらいいのだし、歩く鍛錬をすればすいすい水牛に乗るかの
ごとく楽ちんに行ける。
しかーし
「人、橋上より過ぎれば、橋は流れて水は流れず。」
は酔っ払いか狂人のたわごとだ。
橋が流れれば大参事で、水死体だ。
水が流れていないかのように見えるのは錯覚にすぎない >>660
こうすれば意味判るか?
紀元前後って事は西暦一年前後にはって事だぞ?
初期大乗の発生起点に於いて仏像が無かったと裏付けてくれて有り難う
オウンゴール
> 初期大乗とは、大乗仏教の興起の西暦紀元前後から
>龍樹(150-250頃)までをいいます。 >>666
1.紀元1C頃に仏像はガンダーラとマツラーで生まれた。(考古学的事実)
2.紀元2c半ばには王朝に保護されて仏像信仰が文化として花咲いていた(文化的事実)
というのが私の論なので、キミの見解は成り立たない。 >>660
もう一つ教えとくと炭素年代測定法は無機物は測定出来ないから一緒に出土した動植物の市外で測定するんだぞ
という事は後から出来たのを古い地層に埋めたら誤差が出るって事だからな
正確に測定してるのは周囲の動植物の死んだ年代だよ >>664
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バカ珍w
意味不明w ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています