【仏教】悟りを開いた人のスレ455【天空寺】
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悟ったと思う者は、体験、技術、見解などを書く事。
否定されても発狂しない。
修行もする事。(任意)
>>970が次スレを立てる。無理なら以降の有志にお願いする
※前スレ
【仏教】悟りを開いた人のスレ454【天空寺】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1570700092/ >>447
∞ノノハ∞
川^〇^ハレお釈迦様だってカースト否定するような事を説いてヤバかったんじゃない?
仏教団体になった時に年功序列などルールをお釈迦様は作ったけど
争いが起きない為なんでしょうけど世俗諦だとルールが必要になるねwww >>449
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ何を枯らすの?? >>442
9年でしょ。最高の説法じゃない。真実を世界に大宣伝。 >>451
なんか、覚者は大変だよ。
道元さんもかなーり嫌がらせされてるし。 >>453
じゃ聞くね。
道元さんはなんで、あんな大層な書物書いたの? >>455
本人じゃないので何ともw
まぁ、当時の日本の現状に嘆いて敢えて檀度となったと言うことでしょうか。
て言うか私は昔、勉強したことはほとんど忘れましたw 覚者は違う形で同じものを示しているんで、こちらが悟りに近づくと実はわかる。 まぁゆっくりいきましょう。
コーヒーでも飲んでほっと一息。
こっちはめっちゃいい天気だよ。日射しがあったかいねー。 共通項以外で話せば分裂するしかないかな
https://budda.exblog.jp/3842321/
ブッダは何を悟ったのか?
これまで、ブッダ研究者の見解を、仏教学者とインド思想研究者に分けて紹介してきたが、それぞれの側でも立場や主張はさまざまなようである。
当然、もっとも先鋭に対立するのが、前者のなかの仏教原理主義者とでもいうべき仏教信者のグループと、彼らから「外道」呼ばわりされてきた怨念に燃えるラジカルな後者のグループである。
ところが、ことごとに対立する両者の見解が、「結論において」見事に一致するケースがただひとつある。それは「ブッダは、成道において、何を悟ったのか」という問題である。
要するに、いずれもが「それは十二支縁起(因縁)である」と強く主張している。というのは、これまでの大勢は「これあるとき、かれあり」にはじまる簡にして要をえた「縁起の法則」だからからである。 思想の話してるからじゃない?
少なくとも私は思想の話はしてないなぁw
思想や仏教学を否定してる訳じゃないですよ。
今の日本の社会にとっては必要とされるんでしょうね。
私には難しすぎて無理だから頭の良い方々にお願いしますw
私は何の話してるかな? そもそも話なんかしてるか?w
こうやって対話不可能だけど通ずるものの話かなぁ。
個人的には伝えたい気持ちはあるけど、言葉にできないなぁ。
昔の人スゲーってなってるw >>462
宗派も背景も違う人間同士が話そうと思えば 共通部分で話すしか無いでしょ?
専門用語並べ立てて自宗の話をすればお互いにちんぷんかんぷんな言い合いにしかならないよ
お互いに戒も依経も宗義も違うんだし
有る宗派の宗教体験が別の有る宗派の捉え方では魔境とされてたりするのが日本仏教のややこしさだから 結局共通部分を定義してその範疇で話すのが一番良いんじゃない? >>458
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ暇人たんは反面教師の役割として生を受けたとかwww
色んな役割がありますねwww
でも暇人たんの畑を見ると几帳面なんですよねwww 世間一般の仏教で娑婆って言うんですか。
普通ならそれでいいと思うよw
でもこれ仏教だからねぇ〜。 玉石混交なのね。
色んな人が色んな思いに基づいて投稿してるよね。
だからこうなったら好きなように書くのが一番だと思うよw
まぁ私は少なくとも専門用語はほぼ使ってないですけど。
修行とさてる方と、思想とされてる方に共通することなんてあるのかな。
いかに精査したとて戯論にしかならないと思うけど。
龍樹菩薩が何と仰ってるか正確には知りませんが、
一切の見を断じようとされてるんじゃない。
私の場合、早々に降伏した口なんでw 目、耳、鼻、舌、体、想いの活動に、気をつけている
ということを、今にいるとか、いまここに生きるという風に言ってるんじゃないん?
静かに整えられた心で、六根と対象の次々と移り変わる様
つまり自己の全活動を観る
頭で認めたことには用はない、か
この、心を落ち着けて、止めて、が肝心で
それから、現れてきた目線で、己の活動を見る
それに釈迦は、過去現在未来の何れにも、心を留めないみたいなことを言ってたような
過去にあったものを枯渇せしめよ
未来には何もないようにせよ
現在においても取ることのないならば 要するに瞑想してることの話
いまに生きる=瞑想してる
いまにいない=妄想してる
今というとしかし、今に誰でもいるやんとなるから
瞑想するの方が断然、わかりやすい 本来は佛であるけども
修せざるには現れず、証せざるには得ることなし
本来の己の活動は佛が活動してるのに
我という想いがくっついて、頭の中の、というか
脳裏の暗闇の中で
今とは、なんじゃ、かんじゃ
嫌だ好きだ
快感味わいたいなどと
考えすぎてるから、その脳裏の暗闇の世界から
この目の前の世界へ飛びだして来なさいよーと
佛の世界へと 「兵隊やくざ」面白かった
勝新サイコー(´・ω・`) >>464
例え話の種だから
実際の農作業が丁寧かどうかの話じゃないんだよね?
奴さんのは学者が仏教を外側から見ただけの印象で言ってるのとあんまり変わらないよ
データは有ってるけど感想がショボいみたいな 笑 昔、スナックで飲んでた時に
こわいオジサンがいて、まあ、ちょっとヤバめの人だけど
酒が回ってるから、よく話すし、機嫌良い
破天荒人生
この人がハジの暗そうな顔を見て
陰に籠ったらあかんに前を向いて進んでかんとなあ
みたいなことを言っていた >>466
教相事相は二輪の車っていう言葉が有ってね
学問だけでも修行だけでも車が曲がって右往左往するのよ
真ん中の道を進まないとね
一切の見を断じた所で原点からリスタートするというのが主意じゃない? >>467
経典には修行法も含まれるのね
ただ闇雲に瞑想するのは迷走の元
始めにやり方を知ってからじゃないと 何処に行くか判ったもんじゃない
https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/hotoke.html
<見所断の煩悩>は四諦などの真理を理知的に理解することで断ち切ることができるので簡単である。
しかし、<修所断の煩悩>は四諦などの真理を単に理知的に理解することでは断ち切ることができない。
理知的な修行だけでは取り除くことが困難な根深い煩悩とされる。
三昧(禅定)を修行して真理の観知を繰り返し行うことによって、初めて断ち切ることができるとされる。 465
歌を忘れたカナリヤは焼き鳥にもならんから 出てこんでよろし >>467
それだとちと私が言ってるのとは違うなぁw
だから瞑想ってのも違うなぁ。ゼロ距離、ゼロ時間w
>>473
そこがやっぱり違うよね〜w
一切の見を断じてそこから見えるものを見せたかったんじゃないかな〜。
私が出会った人は大抵がお勉強の方ばっかりよ。ここでもそうじゃないかな。
ちなみに私が言ってるのも修行でもなんでもないかな。
じゃあ一体なんの話なんだよ〜!ってw
何でもない話ですのでお気になさらず。 >>419
>坐禅とか続けてると、永遠の空間にポツーンといるように感じるよ。
心療内科に行きなさいw >>421
>頭で思い描いたところでなーんも始まらん
仏教の基本は聞思修だよ。 >>423
>>>422
>頭で思い描いたところでなーんも始まらん
仏教の基本は聞思修だよ。 >>425
>頭使うから今から離れるんだよ
使ってるうちも今だよ。
そうやって分別してるだけだろw >>474
素晴らしい!
正に、根深い想いは、すぐに消えない
でも、このポイントを発見することを一種の悟りと言っても問題ないのではなかろうか
明らかに普通の人間には理解不能なことである
もちろん釈迦とかブッダと同じだとか言い出したら、勘違いも甚だしいが、笑笑
よちよち歩きの赤ちゃんと、大人の男も、同じであるというような感じで
しかし、よちよち歩きの赤ちゃんも、生きて練習するなら、歩けるようになる
そのようにして練習するなら、段々とあやふやだった、何となくのポイントが明確になり
さらに、それを練習することで確かなものになり
自分の苦手なことも判明したりと、いろんな事が
そうして、頻繁に瞑想していくことで、根の深い業に絡め取られることの少なくなり
絡め取られることのなくなれば、あとは、業の尽きるまでの時間の人による、人の抱えたものによる多少のみと
しかし、まず、よちよち歩きの赤ちゃんとして、生まれることには、これは大変な意味があるわけで
(˶⌒ワ⌒˶)〜なんちゃって♪ >>430
>それを、理屈なしに自覚する事が悟りですよ。
wwwwwwwwwwwwwww
心療内科に行きなさいw
外道は他スレ、柿猫スレに行けやw >>442
>達磨さんは中国までわざわざきて、なんで8年坐禅しかしなかったかわかる人いるかな?
一回坐禅会に行った程度で生意気な口きくな。 >>476
一切の見が断ぜられた時に見えるのは重力の無い無限の暗黒空間 他者もいなければ自己も無い
肉体も無いから自分が何で有るかすら解らないよ
見える物も聞こえる音も嗅げる匂いも味わいも呼吸も 想えるものも何にもない
だから理解するべき事もない >>459
>覚者は違う形で同じものを示しているんで、こちらが悟りに近づくと実はわかる。
だから、心療内科を受診行きなさい。
それから、そういうのは柿猫スレでやれ。
ここは仏教スレ。 >>485
あ、見てそう言う意味なの?
てっきり見解かと思ってた。
私が言ってるのは一切を対象としなかったらどうなのか、ですね。
一切だから作為的にそのような状態を作り出すのもペケですね。
仏教だとか、経典だとか、修行だとかもそっちのけですw
ま、会話にならんと言われたらそれまでです。
会話にはなりませんねw その引用サイトの話だと
初めて法の流れにはいった人が預流果とある
これもひとつの悟りとハジは思う >>442
それはな達磨の法を聞く準備のできた者をを只管待ってたんだよ だからそういう仏教とか、経典とか、修行を否定してるわけじゃないですよ。
わたしには無理なんで賢い人が大いにやられたら結構かと思います。
対象としないからって何もないわけじゃないんですよね。
私が説明してしまうともう違うものになってしまうので、
興味ある人だけご自分でやってみたらいいんじゃない、くらいのスタンスですw 即今だのいうのは唯識仏教でいう現量だけど、その程度の認識に鼻息荒くしてW俺様悟ったんだぞーWとか、余りにも程度が低すぎてお笑いなんだよ。
もちろんそれは大事な認識だけど。
意識は三世(過去・現在・未来)に亘って思量が及ぶけど、その思量が坐禅等で一時的に休まった時、一刹那でも現量に触れた時、それだけ感覚が研ぎ澄まされているって事になるんだろうけど、そうした体験は誰でもする。
でも、そんなのは単なる通過点で、その程度の体験で鼻息を荒くしてるのは、アホ。
また、そこにとどまるとそうした体験が澱んでしまい魔境と化す。
カムイはそうなってる。
だから、思い切って叩くしかない。 >>488
作為的じゃないよ
問題の原因を遡って行ったらいきなりその場面に行ったというだけ
どうやって戻ったら良いのかはまだ判らないけどね >>490
四向四果と言って預流果の手前に預流向が有るけどね
正規の教師の判断が無いと判らない段階じゃないかなと思う バカムイよ?
木刀背負って原付乗って村を徘徊するキチガイは、柿猫スレでオナニーしてろ。
お前に禅は勿体ない。 >>470
勝新は最高だ。
是非とも彼の演じる影武者を観てみたかったものだ。
残念ながら主役の座を降ろされたがね。
黒澤は一喝した「監督は二人も要らん!!」と。 >>442
>達磨さんは中国までわざわざきて、なんで8年坐禅しかしなかったかわかる人いるかな?
それが日課だからだろ、バカw >>499
>今してることを只する
wwwwwwwwwwwwwwwwwww
吹いたw
それ自体がもう既にアッパラパーでおかしいんだよ。
竜樹尊者の中論でも読め、バカw
W行く者は行かないWんだよw
分かるか?
してるものはしないんだよ、既にしてるかなら。 502.仏教知識で悟れないバカ大山が言う、ことである。
大爆笑である。 >>496
ネットで見たら
有身見と疑と禁戒取が無くなるってあるね
こりゃハジは違うけども
けっこうすごいことやんね さる山流小我宗君とユニークなメンツが増殖してんなあ笑。 有身見(巴: sakkāya-diṭṭhi)とは、sak (存在する) + kāya (身体) + diṭṭhi (ディッティ) であり、五悪見のひとつとされている
一般的には「各個人の信条」や、単純に「自己視点」とされ、「恒久的な存在、魂(attā)が存在するという、蘊の信条」である
仏教では魂(attā)が存在しないという、無我(アナッター)の立場を取るためである
パーリ経典では、釈迦は以下のように有身見を記載している
人々の持つ悪見は、どのように不適切に形成されるのか
...人々はこのように不適切に考える
私は過去に存在したのか?
昔の私は誰だったのか?
私は将来も存在するのか?
将来の私はどうなっているのか?
これは私であるのか?
これは私ではないのか?
私は何なのか?
私はどうなっているのか?
私はどこへ行くのか?
このような間違った方法で考えるものは、これら6つの見(ディッティ)に至る
私は自己を持っている
私は自己を持っていない
私の自己と知覚しているものは、それが自己である
私の自己と知覚しているものは、それは自己ではない
自己がないので、私の自己は分からない
これこそが私であり、私の自己は一貫している
比丘たちよ、これらは見の棘、見の荒野、見の湾曲、見の束縛、見の足枷と呼ばれている。
―パーリ仏典, 中部 2.Sabbāsava Sutta, Sri Lanka Tripitaka Project >>506
Wikipediaの引用ね
書くの忘れちゃってた、、、 ID:hcYUXuLNが
さる山流小我宗君を指摘する。
小我宗ぶりが露わになるか注目! まず、行くものは行かない。行かない者は決して行
かない。行くものとも行かない者とも異なった、ど
んな第三者が、実際、行くのだろうか。
まず、行くものが行くということは、いったい、
どのようにして成立するだろうか。
行くことを欠いたならば、行くものはまさに
成立しないのであるから。
行くものが行くと主張するならば、その主張には、
行くことがなくても行くものがある、という結果
が生じる。行くものにとって行くことがあると主
張しているからである。
さらに、もし、行くものが行くというならば、
二つの行くことがある、という結果が生じる。
それ(行くこと)によって行くものであるといわれる(行くこと)と、
現に行くものであるそれ(行くもの)
が行くという(行くこと)である。
二つの行くことがある、という結果が生じている
ところでは、二つの行くものがある、という結果
が生じる。なぜならば、行くものを除外しては、
行くことは成り立たないからである。
↑
竜樹の詭弁。
行くものが行くのではなくて、
あるものが行く んです。 いまだに竜樹の詭弁を見抜けない人がいるとは
驚き。。。 >>509
>竜樹の詭弁。
>行くものが行くのではなくて、
>あるものが行く んです。
wwwwwwwwwwwwwwww
吹いたw
おい、珍!
命題を変更すれば答えは全て真になるわなwwww まず、行くものは行かない。←現に行っている最中だから行くもの、だ。
行くものにとって
行くことがあると主張しているからである←そう主張しても行くことは一つしかない
さらに、もし、行くものが行くというならば、
二つの行くことがある、という結果が生じる。
←行く主体と行くという行為とは、二つの行くがあるのではなくて
一つの行くの中に「能」(行為者)と「所(行為)」とがあるだけの話
竜樹はそれを分けて「二つの行為」があるかのようにマヤカシを論じている
竜樹を論破するのは簡単 詭弁だから >>511
サル山流小我宗君に関してだが、君は高野山修験の用語に関心があったかもしれんが、
俺は、サル山流小我宗君の高野山真言宗の視点からの歴史認知が議論以前の、暇人並みの「バカなんだ笑」扱いだったんだけどね。
サル山流小我宗君の呆れてしまったレス
30神も仏も名無しさん2019/10/10(木) 20:26:49.76ID:N5cibEQq>>33
>禅定優位タイプなので、読んだ本の内容を忘れて探す気がない、まず。
ま、修験道研究の山岳仏教研究の本でも読んで探してね。
要するに自分で言い出した事の証明責任も果たさず相手に丸投げするだけの卑怯者だって事だな?
議論する資格無いよ
高野山修験なんて高野山真言宗が知らない事を言うから訊いてみたら案の定過ぎて 失笑するわ >>512
wwww
少しは本を読めw
たとえば、「私は(〜を)見る」と言ったとしよう。
では、見る「私」とは、何であろうか。
それは、「私は(〜を)見る」というのだから、その見る前に存在している何ものかということになる。
それは見る以前だけではない、聞くよりも、読むよりも、歩くよりも、走るよりも前に存在している何ものか、つまりあらゆる作用以前に存在している何ものか、ということになってしまう。
すなわち、作用を持たない基体(サブスタンス)としての私だ。だがいったい、そういう現象に関わらない私という存在を、どうやって知ることができようか。
第一、その私って、いったい何なのだろう?
もしそういう私があるとしたら、それが見るとは、どういうことになろうか。
もとより作用を持たないのであるから、どこかにあらかじめある「見る作用」と結びついはじめて見るということもできるということになるほかない。
しかしながら、、いったい、見る作用のみが、どこにあると考えられようか。
これはおかしな話である。
ある意味では、そんなものがあるとすれば、ありもしない幽霊より怖いことだ。
したがって見る作用とは別に私があるということは、どうも成立しそうもない。
竹村牧男.入門哲学としての仏教(講談社現代新書) より引用 >>514
wwww
命題を変更すれば答えは全て真になるって理屈は分かるか?
バカ珍w >>516
命題は「行く」だよ 変更されていない。
一つの行為を「行為者」と「行為」との二つに分けて
二つの行為があると竜樹が詭弁しているということは
わかってないでしょ、ぼくちゃん >>513
高野山修験では、高野山での修験道(活動)なのか、後の高野山真言宗の母体となる集団の活動か分からないからなぁ?
でおーは前者として、その方は後者として解釈してるから揉めてるんだろ、多分。
であれば、W前者の意味で言ってた"ってでおーが言えば、この論争は終結でしょ。 >>518
サル山君は珍さんに似ていて、一度出した空想持論を引っ込めないのです。
屁理屈でゾンビ復活しますので、全部相手する元気がありましぇん笑。 468 名前:学術 2019/10/16(水) 14:49:42.94 0
病気を丸暗記してだれも病気じゃないのに病気の性質が見えるぐらいの偽目で
金を稼いでる詐欺だな。前科者ブラックリストカテゴリー入り決定。 >>517
wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
W行くものは行かないWって命題をWあるものが行くWって勝手に変えてるじゃんw
いつものバカ珍らしねぇw
スタートポイントを勝手に変えりゃやりたい放題だわなwwww >>521
情報量少ない珍さんが、大山に議論走るように、
高野山の仏教史の情報少ないサル山君が議論できるという過信、
両者、発想がとても似ているのです笑。 バカ珍や?
竜樹の見解は、二つ以上の項に分裂している言葉は空の立場では成立し得ないという事だろ?
行くものは行かない、つまり、既に行ってるものは行くという事はない、って事であって、別に詭弁でもなんでもない。
ひいては、バカムイの
>今してることを只する(>>499)
という、してる事をするという、二つ以上の項に分裂している言葉は空の立場では成立し得ないという事を非難してるんだよ。
言ってる意味が分かりますか? >>512
>竜樹を論破するのは簡単 詭弁だから
命題を勝手に変更すれば、そりゃ無双だよなぁwwww >>508
いえいえ。そんなつもりはありませんよ。
私なんかよりはるかに勉強なさってると思いますよ。
むしろ小我宗なのは私の方なんで。仏教のことなんてほとんど忘れましたw
勉強するつもりもありません。
私はこれで充分ですので。 >>510
記憶が確かじゃないので保証はできませんが、途中まで読んでなるほど論理的だなと思いましたよ。
確か最初の方に結論を記されてたかと記憶してます。
長いので私は途中で降参しましたがw
当時最も賢い人の一人なんじゃないかな。 >>526
俺もめんどくせえ笑、
やはり俺は邪流?天台本覚論! >>527
八万四千通りあるらしいですね。
行き着く処は同じかな?と思います。
何でも自己責任だからお好きにされるのが良いかと思いますよ。
私はマダガスカルの原住民の様に朝目が覚めると嬉しいというのが理想ですかねー。
TVでやってましたけど本当に笑顔なんですよねー。
貨幣の無い、社会だそうです。 >>518
高野山に修験の本流が有ったっていう一般の認識に無い事を言って於いて藤原道長と三井寺の僧侶が儀式をやったからっていう貧弱な説明をしたからですよ
主流という程の上級僧が関わっていない事は本人が行人方を引き合いに出して証明してますからね
醍醐派は理源大師を立ててるから 公式の場で言ったら紛糾しかねない程の事なんだけど 幾ら5ちゃんとは言えね…
今回も有効な反論無いし アホらしくてレスする気にもなれません >>529
サル山流小我宗君、おこしだな笑。
もう、
>高野山修験なんて高野山真言宗が知らない事を言うから
のレスの時点で閉口なんですけどね。
高野山に修験の本流といえる材料は、サル山流小我君の知らない歴史的事実をたくさん持っていますが、
ソースを出しても、小我的、暇人的ゾンビレスの繰り返しは目に見えてますし、
大山君ほどのサービスしないので笑。 472学術2019/10/16(水) 15:48:33.890
医者や医師は低級性犯罪者。一斉検挙処刑。 サル山流小我宗君は基本、現在教団上解釈定義至上主義で、
古文書文献における事実の分析、検証否定主義ですからね。
古い時代の現在教団上解釈定義至上主義で、空虚に自信満々笑 サル山流小我宗君はサル山ボス気取り自慢で、シコシコできる面白い人ですね笑。 暇人ゾンビレスって当日俺の倍近いレスしといて半分以上罵倒と煽りに終始してたのは誰だ?って話なんだけど 自分が見えないって恐ろしいな‥と独り言を言ってみる その高野山修験の高野山が、
1.field(場)なのか?
2.system(システム)なのか?
3.organization(組織)なのか?
って事が明示されないとねぇ。 >>525
フォローありがとうございます
粘着されるとアレなんで ほっといて良いですよ >>523
八不がそもそもの詭弁ですよ。ぼくちゃん。
釈尊は、すべてのものは生じ滅すると主張
詭弁家の竜樹は、生ぜず、滅せずと八不で主張。
そんなことも見抜けないとは。。。 >>534
負けず嫌いのわんわん。
>>535
サル山流小我宗君のいう、醍醐派は理源大師が本流はありえないのです、古文書研究の修験道学者によると、江戸期以降なのです、教学による管理は、
三井寺系修験ですら、熊野信仰ですら、上皇参りで三井寺の修験教義で権威づけただけなので、
上皇の時代の子供が、仁和寺のトップ座り、高野山奥の院に関与、ここが重要。
そこから、高野山から生まれてくる神仏習合教義があります。 >>535
要するに、サル山君は、常に、こうなのです。
532神も仏も名無しさん2019/10/16(水) 15:52:06.06ID:i88YQ8HS
サル山流小我宗君は基本、現在教団上解釈定義至上主義で、
古文書文献における事実の分析、検証否定主義ですからね。
古い時代の現在教団上解釈定義至上主義で、空虚に自信満々笑 >>535
古文書検証の歴史ブームですしね、
古文書検証で、歴史の常識ひっくり返るのは常ですし。
基本サル山君は暇人程度の知識で議論しているつもりなのです。 >>537
>釈尊は、すべてのものは生じ滅すると主張
>詭弁家の竜樹は、生ぜず、滅せずと八不で主張。
wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
相依性や言語に依って仮構された世界を空性によって否定(八不)してるのであって、現象そのものまでは否定はしてないだろ?
…なんで入門書レベルの話からしなきゃならないの? >>535
要するに、白河に始まる上皇の子供が仁和寺トップに入り、その時代、仁和寺は真言宗の事実上の権威化します。
のちに衰退しますが。
当然、現在の仁和寺は、高野山で生み出された神仏習合の教義があります。
片や醍醐寺は権威を持ち出すのは、室町時代、足利将軍をくじ引きで決めたあたりの僧侶と、
秀吉の醍醐の花見ぐらいの時期でしょうね、。 当然、現在の仁和寺は、高野山で生み出された神仏習合の教義の遺産の社が残っています。
に修正。 >>541
高野山修験が主流かどうかは、俺も勉強不足だから分からないけど、3.は無いというのはでおーも認めてるよね。
で、3が消去されたとなると、高野山での修験が主流かどうかって争点になるのかな? 仁和寺は図象図形が碁盤の目の山城によく、素晴らしい境内でした。 訂正
×
相依性や言語に依って仮構された世界を空性によって否定(八不)してるのであって、現象そのものまでは否定はしてないだろ?
◯
相依性や言語に依って仮構された世界の説明、つまり空性によって否定(八不)してるのであって、現象そのものまでは否定はしてないだろ? 宗教は宗教の対兵ではありません。個師団まかされてない宗教家は散るだろう。 >>545
3は仁和寺、真言宗の上皇による権威中心の奥の院における空海と神仏習合の御流神道。鎌倉期に教義完成、両部神道、これが後の時代の修験道教義の土台とみている、
高野山の行人方の葛城の修験修行と、大峰の修験修行の活発化したので。
大山だから、マジレスしたんだぞ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています