法然

経典にはさまざまな教えが説かれているが、詮ずるところ、戒・定・慧の三つの修行法に集約される。
小乗と大乗、顕教と密教、それぞれにこの三つの修行方法がある。

ところが私自身は、戒(不殺、不盗などの仏教の戒め)に関しては一つの戒すら守ることができない。
定(精神集中の修行)についても一つも体得できなかった。
ある高僧が言うには、「戒(インドの言葉でシーラ)が清らかに守られていないと、心の集中状態は現れてこない」とのことだ。

また私たち凡夫の心は、ものごとに引きずられて移ろいやすい。それはまるで、猿が枝から枝へと動いているようなもの。
まことに散乱して落ち着きが無く、一処に静まりがたい。

このような状態で、煩悩に汚れぬ正しい智慧が、どうして起こり得るだろうか。
もし汚れなき智慧の剣がなければ、どうして悪業や煩悩の絆を断つことが叶おうか。
悪業煩悩の絆を断たずして、どうして迷い苦しみの輪廻世界から解脱することができようか。
ああ、まことに悲しき哉、一体どうしたらよいのだろうか。

「私のような者は、もう戒・定・慧の修行を全うできる器ではない。この三種の修行法のほかに、私の心に相応しい教えがあるのだろうか。
私の身体でも行なえる修行がはたしてあるのだろうか…」

かように思い直し、多くの賢者の教えを請い、様々な学者を訪ね歩いた。
だが、それを教えてくれる人はおらず、道を示してくれる仲間もいなかった。

そこで、歎き歎き経藏に入り、悲しみ悲しみ経典に向かい、みずから手に取って開き見た、
善導和尚(7世紀中国の高僧で、法然上人が師と仰いだ)が書かれた『観経疏』という本の中に見出したのが、次の一文である。

「一心に専ら阿弥陀仏のお名前を念じなさい。
行住坐臥、日常生活のどのような状態にあっても、時間の長短を問わず、片時もやめてはならない。
これを正定の業と名づけよう。かの阿弥陀仏の本願にしたがう行であるゆえに。」

その後は、
「私のような無智の身は、ひとえにこの一文を仰ぎ、ここに説かれる道理を頼みとしよう。片時もやめない念仏行を修めて、必ずや極楽往生を得るための備えとしよう」
と心を定めたのである。
https://www.rinkaian.jp/column_archive/c201108.html