【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践18
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お釈迦さまの教えとサマタ・ヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、 体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、 更なる成長を求めて語り合いましょう。 前スレ 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践17 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1559901710/ ※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会や そこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。 日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など 多種多様な団体があります、 諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違い もあります。 そこを踏まえてご参加ください。 身体が強靭じゃないと 外に生きるの無理だよ 私でも乞食して 半身不随のおばさんから おにぎりもらったときに 髪の毛入ってたけど 美味しく食べたよ ましてインドだしなあ >>418 アーナンダはじめ側近たちと、在家の優婆夷・優婆塞が結束して、人間として対処できる問題 については、あらかじめ可能な限りの対処して、危険や障害を取り除いておくだろう、とは思う。 神々による守護や、仏陀の神変については知らないし、分からない。 想像が及ばない。 それらについても、あるとかないとかの断定でもって知っていると思うなら、 それは見取でしかないだろう。 如来は完全に無我に達した阿羅漢であり、その色身は衆生の利益のためにある わけなので、無下に粗末に扱うことはしないはず。 書き込みはこんなもんだよ。過疎の判断は人によるけど。 あと言ってることはその通りだから皆敢えて書き込みしないんじゃない。 まあ私の個人的な感想ですが。 某佐藤哲朗氏のYouTube配信をみていて思ったのだが、 慈悲の瞑想を薦めながら、一方で相談者に向かって頭オカシイんじゃないか、 ひとりで死ねなどと言う。 これは如何なものか。 相談者に向かって頭オカシイんじゃないか、ひとりで死ねなどと言いながら、 その一方で慈悲の瞑想を薦めつつ、生きとし生けるものの幸福を願います などと言う。 これは如何なものか。 悪口は、仏教徒として最も基本的な戒律である五戒において戒められている。 非常に違和感を感じた。 不妄語は守るのがとても難しいね 人も言葉も完全ではないのに、話し始めると勢いに乗って話し過ぎてしまう そして失言をごまかすためにさらに失言してしまう >>425 慈悲の瞑想を勧める人ってこういうの多いイメージ 抑圧した分の反動が凄い 全く中庸じゃないの >>427 仏教用語の「慈悲」は、何を意味しているのか分からなくなってしまったね 言ってる人が思いやりはあるか、人の心の痛みが分かる人なのかは、言動や行為によって判断するしかない >>419 はあ? おにぎり? インドにおにぎり無いけど??? >>343 これは大智度論の孫引きですね (是時佛説義品偈各各謂究竟而各自愛著各自) このスレにはヴィパッサナーの実践者が多く、またヴィパッサナーの教本として大念処経を参考経典にされてる方もいるのではないかと思い、質問させて頂きます。 大念処経ではこう説法されています。 比丘たちよ、ここに一つの道がある。(略) それは「四つの念住」である。 この四つとは何か ? 比丘たちよ、比丘は、努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、 「身(残りは受と心と法で四つ)」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住むことである。 さて、(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)と絶え間なく知覚しているのは真の自分という解釈でよろしいのでしょうか? それとも別な主体があるのでしょうか? その知覚は生と滅を有する五蘊に属するのですか? それとも知覚は五蘊の相を持たないのですか? 根境の和合じゃね? で、 根を護り(清浄を保ち)、 境を遠離、或いは取捨選択で善き境の受容を心掛け、 識に於いて頓着執著好悪の起きることない、 静かに整った状態を目指す、と。 そのすべてが鎮まった状態・境地が、涅槃と言われる、と。 今ある五蘊や、日日の根境識によって結ばれる果は避け得ないけれど、 それを、静かなものにすることはできる。 ブッダ45年の説法は、そうしたところでされてきたのだろう、と。 だから、入滅を別して般涅槃と称するようになった、と。 根境の和合の段階で、真の自分や主体という発想は出てこないのではないでしょうか? 根境の和合の段階で、真の自分や主体という発想は出てこないのではないでしょうか? >>436 そうか・・。識との和合まで含めないといけなかったか。 つーか、寧ろ識か。 (主体についての質問と思わず) 質問の「>知覚は」を感受のみと判断してしまって根と境としました。 「認識」も含めて知覚はどこに、となれば、やっぱ「識」か。 そこに「主体」(我あり、我がわれであるという思い)が生じている、と。 >>438 識を含めても「主体」我ありは、まだ遠いと思います。 >>439 じゃあ、更に何が(条件として・縁として)加わって 「我あり」が生じてくると考えてる? >>441 あ、想と行が間に入って、か。 受(根+境)→想・行→識 雑ですまんかったね。 >>435 「 >日日の根境識 」と「 >によって結ばれる 」 の間に「とそこに生じる想い」を挿入しといて。 >>434 ありがとうございます。 五蘊でしたらその知覚は「無常である。無常であるものは苦である。苦であるものは自分でもない、自分のものでもない、自我でもない」と正き智慧を持って観て、観た者はその知覚を厭い離れるということにはならないのでしょうか? >>443 知覚という現象が只そのままにあるだけで、厭うことも離れる必要も特にないのではないでしょうか? 仏教では、概ね 感受と認識を分ける。 今、上の流れの中で使われている「知覚」という言葉が、 その両方を含んでいるならば、話は先へ進まない。 感受があったとき、感受があるとだけ知る。 或は又、感受の後に波を生じさせない。 そのことによって、そこに安楽が知られる(見られる)、苦憂の滅がある。 そういうことでしょう。 古人曰く、二の矢を受けず、と。 (勿論、その為には、様々な場面・機会、様々な段階で、 正しく念が確立されていて、節制が為され続けなければならないでしょうけれど。) 又古人曰く、正念相続と。 世尊は五蘊を摩羅(悪魔)と言っています。 もちろん、受も識も摩羅です。 摩羅 南伝 相応部経典23-1 摩 漢訳 雑阿含経6-10 摩 http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama7052002.html このように、「身、受、心、法」を自己における、(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住み、 あるいは、「身、受、心、法」を他己における身であると絶え間なく知覚して住み、 あるいは、「身、受、心、法」を自他における身であると絶え間なく知覚して住む。 という大念処経の世尊の説法で出てくる知覚は五蘊ですから摩羅で合ってます? いいんじゃない? 凡夫はそれを、天使・甘美と見て、近寄り、享受し、浸り溺れ、 賢者はそれを、悪魔・害毒と見て、離れ、避け斥け、距離を保つ。 きっかけ・初期及び学びの最中はそれしかない。 勿論、聖侍に於いては浄でも不浄でもなく善でも悪でもないのだろうけど、 最初からそれでは、動機づけにならないし、悪しき方向を避けるモチベーションが低くなる。 (人生楽ありゃ苦ありでは、現状に安住し易い。現代日本仏教みたいに。 だから、一切は苦であると言われることになるのでしょう。) あ、GとJ一個飛んでるのに打ち違えてるw 聖侍でなく勝義 >勿論、聖侍に於いては浄でも不浄でも・・・・・ >>447 一般人にとって知覚は自分のものであり自分そのもので、知覚が無常だと観えたときには知覚が自分でないとわかるという意味で自分は知覚と離れているという表現はできるでしょう ただ自分(自分という概念)というとき、その自分というものはある種の知覚対象であって、自分という概念も無常であると観えたときには自分があるとも無いとも言えなくなり、 そもそも厭うとか離れるといった主客関係での空間概念を用いた説明が成り立たないというのはあるでしょう >>449 その「知覚」は、情報の「感受」を含まず「認識」のみを指してるってことのようだね。 それでいい? そうしたら、またその上で作文してみるけど。 いや、>>450 は無し。 普通に筋の通るレスだったね(>>449 ) 脳内削除して放念しといてください。 ごめんなさい。 >>446 五蘊を天使か悪魔か判断決定付ける必要はあるのでしょうか? ちなみに大乗では、五蘊を中立的な空の現象としています。 照見五蘊皆空 比丘たちよ、苦聖諦(苦しみという聖なる真理)とはこれである。 生は苦である、病は苦である、老は苦である、死は苦である、 怨憎するものに会うのは苦である、愛するものと別離するのは苦である、求めて得られないのは苦である、略説するに五取蘊は苦である。 (初転法輪経) 五取蘊は苦であることを五蘊盛苦(ごうんじょうく)と言います 釈昶空(ねこにゃん) @nekonyan_nippon 四諦を「苦集滅道」と訳したことによって、東アジア漢字圏の仏教はかなり歪められたように思います。 苦と訳されたdukkhaは不如意、つまり思い通りにならないこと、それへの感情的反応としては不満足を言います。 滅と訳されたnirodhaは制御であって滅尽の意ととらえると「一生悟れない」と悩むことに。 https://twitter.com/nekonyan_nippon/status/1210747372814290944?s=20 https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>457 >未公認宗派・理宗の僧侶です。 こんなのを参考にしてるの? >>458 内容に誤りがあるのですか? であれば、ご指摘下さい >>459 >dukkhaは不如意 >nirodhaは制御 水野パーリ辞典引け つ Pali Dictionary ttps://palidictionary.appspot.com/ 某佐藤哲朗氏が最近のYouTube動画で教えてくれてたやつ。 なんだかんだいって、スマナサーラ長老とセットの時は良い仕事してると思うし、大変ありがたいとは思っている。 とは思っている・・・。(まる) けど、原義に忠実に遡(かえ)ろうとするとね・・・。 モニエルでは↓だし。 https://www.sanskrit-lexicon.uni-koeln.de/monier/ mfn. uneasy , uncomfortable , unpleasant , difficult n. (ifc. f(A).) uneasiness , pain , sorrow , trouble , difficulty n. impers. it is difficult to or to be n. duHkham - √as , to be sad or uneasy n. - √kR , to cause or feel pain Nom. P. °khati , to pain ind. with difficulty , scarcely , hardly (also At and ena) 無常ではなく「常」でも世界は苦だろうと言う人がいて、常だったら苦の入り込む隙間さえ全然ないというイメージなんだけど、どうだろう 訂正 × 理論上はそうなると思う ○ 論理的にはそうなるはず 自分一人だけ見ても呼吸を含めて動きを止めても体は勝手に絶え間なく細胞分裂して変わって行ってるので常ということはまず有り得ない 時間停止でもしない限りは もしも常なるものがあったならという、あくまで思考実験上の話では。 教学的に言っても、諸行のなかには存在し得ないことは、仏教徒なら 誰もが理解しているだろうこと。 涅槃は常だったと思うけどそこでは細胞レベルで体の機能が止まるんだっけ? えらい遅いレスだが・・w >>452 美人が、自身の容貌肉体に著するのを戒めたり、 異性の体や声や仕草に欲情してしまったり、 美味い物を見れば食べたくなり食べればもっと欲しくなり、 しんどい時は楽をしたくなり、安穏快楽にあればそれを手放したくなくなり、 気の合う者とはもっと話してもっと付き合いたいと思えば、 腹が立てば、論難したくなったり、 およそ私ら日常の様々は、すべて五蘊の上にあるわけで、 上の美人も、男どもの欲望も、 五蘊の内の肉体が(或いは、仕草や性格も同様だろうけど)因や縁となっているわけで、 それを回避しなさい、というのが、戒だったりするのだから、 そうした初級のプラクティスとしては、 五蘊そのものをも、まさに誘惑してくる摩の軍勢、 或いは(梵行、清浄行に対する)不浄と見做すのも 「方便」としてアリでしょ。 勝義、第一義的には、善でも悪でも、天でも魔でも、淨でも不浄でもないだろうけれど。 仏教関係の本などを読んでいて最も的外れ感が強いのは根底にある「無常、苦、無我」の世界観だ。 とりわけ「無常は苦である」。人生は苦かもしれないが別に無常だからではあるまい。常だったとしらやはり苦だろう。 その他の点もすべて間違っているとは思うが、この間違え方が最も馬鹿げて見える。 https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1248446825893265408?s=21 https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 超越論哲学の常識は:違う人だったら違うとわかることもありえない、違うとわかるためにもその違いを把握する何らかの「私」の同一性が前提されざるをえない、世界それ自体もこの同一性を前提にしてはじめて把握可能である、というもの。 (これは「無常」という思想が無意味である理由でもある。) https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1112364256173776896 https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>470-470 永井均 @hitoshinagai1 >哲学をやっています。 >2014年からツイッターを始めました。 >私が何を言っているのか理解したい方は、まずは近年の主著 >である『世界の独在論的存在構造』(春秋社)をお読ください。 >これら拙著における議論の前提としたことを呟きますので、 >読まずにリプライ等をしないようにご注意ください。 はい。 おわり やっぱ、縁起と五蘊十二処って凄い、と感じさせる案件↑ あんまり哲学者知らないんであれだけど、 果を得たら哲学が下らなくなるのは間違いないのでは? ニーチェは世間の評価に対してあまりにも下らないと感じてしまうし、 ショーペンハウナーなんかもすごく下らないし、 ウィトゲンシュタインも下らない。 パスカルは多少面白いんだけど、 頑張ってるんだねという見ててほほえましい感じがして、 出来のいい子供を見守ってるような気持ちになるw 偉そうなこといいたくないんだけど、 初果を得たら、哲学は娯楽みたいなものになる 哲学じゃ問題は解決できませんからね 娯楽だから別の娯楽でいいし、やる意味もないんだけど 個人名だすのは控えるけど 哲学やってたんだけど預流果に達して哲学を卒業した人のブログあるんで よかったら検索してみてください。 >>474 まあそうだろうと思うけど、 パンニャー(般若の智慧)とパンニャッティ(思考概念)の違いということは、 ほぼ最初っから指摘されているのでは。 超絶頭のよい思考概念でさえ、般若の智慧ではないからね。 頭の良し悪しとか、知識とか、学歴とか、そういうのと全く違う尺度なので だから偉い(世間的価値基準で)とかでもないだろうし。 仏教を持ち上げるために哲学を見下すことに意味を感じない 哲学は論理だから、仏教でも重んじるよ。 戯論と智慧は違う、ということ。 言葉を変えると、悟りと主観は違うということ。 じゃないかな。 それは事実だから仕方ないのよ。 前提となってる同一性が幻だというのが仏教の立場と違うの そう。 >>482 最初の一歩が違うから(開けるドアが違うから)見える景色も最初から違う。 けして分かり合えない。 「この法は見難い」と言われる所以。 けど、その一歩さえ重なると、存外その後はスムーズ、と。 涅槃はすべてが静止してるらしいから、身体も生命も時間もないんだよね多分 因果の法則は絶対であるとすれば 今回のコロナ騒動はいろいろ考えさせられる 人為ってこともあるけどね、蓋を開けてみたら拍子抜け 学びの多い時代に修業させて頂いて、大変ありがたい。 (絆と孤独について)仏教は幸福を二重構造で問いている。世間の幸福と真の幸福(出世間)がある。 家族を離れて出家する人も、家族のことを心配している。悩んでいたら、アドバイスしてあげる。愛着ではないが心配する。人類の心配する人が家族の心配しないということない。 日本では最初にスッタニパータを最初に読むからあべこべ。 家族の面倒みたくない、働きたくない、基本道徳すら守らない人が聖なる道を歩む事はあり得ない。 時々、だらしない我の強い人が聖なる道をいいわけに逃げようとする。そういう人は仏教に要りません。 仏教は勝利の道です。世間のゲームを勝ち抜いた人が、他のゲームはないのかと出家する。 将棋一回も勝てない人が竜王戦に出るようなもの。 誰もが解脱を求めるわけではないんです。そういう人も仏道を歩むことで見事に成功する。究極的に解脱に挑戦したい人には門を開いてる。 聖者の心のうちは、何にも束縛がないんです。 サイの角の経典は、ブッダのこころを教えるために説かれた教えです。 ブッダにとっては俗世間は無価値。クソと同じ。 しかしその仏陀が全人類のためにそれだけ働いたか。ブッダは微塵も人類から見返りを求めなかった。 世間から何も期待しない。いくら説法してもなかなか理解してくれない。それは人間が悪いんじゃなくて、生命は凡ゆる束縛に縛られいるんだから。 説法聞きに来る人も、真理を知りたいのではなく、自分の束縛のちっぽけな問題を解決したいだけ。 かといって、説法のレベルを下げることは無い。世間から微塵も見返り期待しないで、しかし自分の仕事はする。 サイの角の経典は出家のガイドブックです。皆さんのガイドブックではないんです。最初に何も学ばずにスッタニパータを読んでしまうと誤解する可能性あるんです。 お釈迦さまの高弟に、社会で失敗したから逃げるために出家したという例は無かったのです。アングマーラ長老さえ成績優秀な学生で、師匠からの最終試験として生贄行をしていた。 どんな世界であれ、成功者です。成功者がさらに真理を求めて出家したのです。 釈尊が、迫害される不可触民のスニータに出家を勧めた時も、スニータが真剣に道を求めている事を知っていた。釈尊はスニータが解脱に達したあと、堂々と社会に宣言した。すべての身分の人々が彼に礼をした。王宮で供養を受けた。 対象は何であれ、執着の強度は同じ。自分の執着に勝つことが「勝利」です。絆と執着は別。出家であっても、自分の母は母です。その関係は変わらないのです。(終わり) スマナサーラ長老の仏教法話 https://twilog.org/jtba_talk/month-1206/2 食事の瞑想あれは効く感じがする めちゃくちゃしんどい 普段原始脳で食べてたんだなって感じた 基本、やっぱさすがに長老なのね・・ >>スマさん (言葉遣いが、そのままか、翻訳者の脚色化はわからんけどw) 同意箇所: (幸福を(→価値観を)>二重構造で問いている。世間の幸福と真の幸福(出世間) >出家する人も、家族のことを心配している。 >出家であっても、自分の母は母です。その関係は変わらない >日本では最初にスッタニパータを最初に読むからあべこべ。 >誰もが解脱を求めるわけではない >サイの角の経典は、 〜〜 見返りを求めなかった。 >サイの角の経典は出家のガイドブック >世間 は >なかなか理解してくれない >それは >生命は凡ゆる束縛に縛られている から >聞きに来る人 >自分の >問題を解決したい >かといって、説法のレベルを下げることは無い >最初に何も学ばずにスッタニパータを読んでしまうと誤解する可能性 耳痛箇所: >時々、だらしない我の強い人が聖なる道をいいわけに >将棋一回も勝てない人が竜王戦に出るような >サイの角の経典は出家のガイドブック >絆と執着は別。出家であっても、自分の母は母 以前スマナサーラ長老の悟りを評価したものです。 アホとかバカとかという言葉を使われることがあるのでそれについて感じるところを書き込みしたのですが、 これは長老のスタイルで方便であると、youtubeの動画で長老が説明されていました。 全ての方にお詫びします。申し訳ありませんでした。 今後はこのようなことは二度としないよう気を付けてまいります。 >>492 スマナサーラ自身がアホとかバカとかの侮蔑語を使うのを自身の方便だと分かっているのなら尚更たちが悪いよ 正しい言葉を使うことは釈尊が繰り返し説いてきたのに それともスマナサーラはそれらの言葉が侮蔑語だと誰からも教えられないまま日本で十年以上布教してきたのだろうか? そうだとすればスマナサーラにとっては不幸なことだ 自分を正しい道に導いてくれる人がいないということがね 上で哲学を軽んじた者です。 申し訳ありませんでした。 あまりに酷くて反応を見れていません。 反応があまりに恐ろしくて見れてもいませんし、今後見れるかどうかも定かではありません。 漫の極みであると言われたことと、その次のレスまで確認しました。 このようなお叱りを受けたことを反省しています。 もう二度とこのような哀れな間違いはおかさないようにします。 今のところ宗教板自体にくる予定がありません。 一人住人が消えたと思って下さいますと幸いです。 私のような間違いをおかす人が今後一人でも少なくなりますように。 皆様が有益にこの板を使っていかれることをねがつて。 >家族の面倒みたくない、働きたくない、基本道徳すら守らない人が聖なる道を歩む事はあり得ない。 >時々、だらしない我の強い人が聖なる道をいいわけに逃げようとする。そういう人は仏教に要りません。 うん。 これに尽きるな。 ゆえに、かつてここの住人が「悟らなければ人を救えない」とか言うのは 間違っているという事だね。 報恩の精神が欠落していてはもはや仏教とは言えない。 それは完全な利己主義と言う事だね。 社会への恩、親への恩、困っている人を助け苦しんでいる人を励ますという「基本道徳心」 人間として当たり前のことが出来ない人間が「解脱する」なんて噴飯ものと言う事だね。 居るよね、一定数。 極端な一ゼロ思考の人。 こういう人は、 虹も七色にきっちり分かれていると思ってんだろうな。 ↑確かにいるよね。 ネット住人の分際で、娑婆で瞑想したぐらいで 一般人よりも悟っていると勘違いしているナンチャッテ覚者。 爆笑もんだな。w まじめに親孝行している人間の足下にも及ばないのに...。 哀れという以外に無い。 お釈迦さまとスッドーダナ大王の例が一番分かりやすい。 出世間を知らない人が、出世間の価値について世間の価値基準で判断した場合、 価値なしという判断に至るのは致し方ないこと。 >出世間を知らない人 出世間もしてないのに「出世間」を語れるわけがない。 バットを握ったこともない人間が野球を語れるわけがないと言うのと同じだ。 ※このスレのほとんどの住人に当てはまるよね。 結局、観念論でしかないんだよ。実践の中で掴む感覚と机上の理屈では天地の開きがあると思う。 サマーディに入ったことがあります。 その体験からの知見です。 半年ぶりにヴィパッサナー瞑想を今日から始めた それと不飲酒戒も今日から始めました スマナサーラ長老ってガチホモなん? 違うんなら戒律なんか存在する意味なくね(´・ω・`)? 宣言いたします この栄進、たった今、悟りを棄てます 仏という観念なんて可燃物としてゴミ箱に棄てます 全人類が悟らないように全力を尽くします まことに残念ながら悟ったバカは、ブン殴ってでも悟りを棄てさせます 悟りなんて絶対に求めない『菩薩』で結構でございます 仏に出会ったら仏をこ○します 全人類が悟れなくなるように命をかけて邁進します 以上 令和2年5月19日 栄進(´・ω・`) 仏も観念だし仏なき世界というのも観念やねえ 観念なしとははたして 大乗仏教は言葉の定義がはっきりしていなかったり、統一されていないから、 誰が何をどう言っても、いちいち言葉の定義と意味を確かめないと、何を言ってるのか分からん。 一方、テーラワーダは三蔵に依拠する限り、言葉の定義が共有されているので 一応、意味は通る。 戒定慧の三学によって開発される智慧(panna)が、観念(概念)ではないことは もともと最初から言われていることで、大乗仏教の専売特許でもない。 小乗経と大乗経の根本的な違いは下記の通り。 ◆小乗経(テラワダ含む) 自身の安穏と救済に一切を投じる人生(現代的に言と究極の自己中心主義) そもそも、この世界の苦悩の一切衆生を救おうという考えは無いに等しい。 俗世間から離れ、ただひたすら、灰身滅智を目指し、再びこの世界への輪廻を断滅する事を願う教え ◆大乗教 自身の安穏のみならず、他者と救済に一切を投じる人生 菩薩として人を救う行いが、そのまま自分を救う事になるという教え 現代的に言うと「縁起」という法理に基づき「自分だけの幸福も他人だけの不幸も無い」という哲学 >>512 大乗にしたってある程度自分が救われてないと他者救済なんて不可能じゃない? 金づちが溺れた人を泳いで助けるなんて出来ない訳だし 自分が確実に安全圏に辿り着いて 其処から救わないと誰も助からない事になる 片や小乗は阿羅漢が本物なら指導する事で救われる人はいるだろうけど確認する方法が内証しかない どちらも言葉を交わしてどれほど自分が開けるかを基準にして推し量るしかないんじゃないかな? >>512 は、私の解釈だけど、たぶん間違いないと思う。 で、小乗とは「小さな乗り物」という意味で 自分だけが救われたいと言う(現代的に言と究極の自己中心主義)で、別に良いんじゃないと思う。 そういう教えなんだから。 それを背伸びして「テラワダも人の幸福を考えている」なんて心のも無い事を言うと偽善でしかないと思う。 ありのままに、「私は人を救うなんて考えたこともないし人々の幸福なんて事も考えない完全自己中経です」と言い張ればいいんだよ。 そうすれば、いっそうテラワダの教えが鮮明になって分かりやすいと思うよ。 >金づちが溺れた人を泳いで助けるなんて出来ない訳だし 小学生程度の智慧があれば出来るよ。 テラワダ修行者にはその程度の智慧も無いのかな? なんでみんな論争したがるのかね? 論争欲なるものがあるとしたらそれも煩悩だから手放すといい >>515 金づちの小学生がどうやって泳ぐの? それに俺はテーラワーダ行者じゃないよ 色々そそっかしいみたいだね? >>516 議論を交わして真実を炙り出したいからじゃない? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる