わたしの理解するところでは、智慧は概念ではなく洞察、知識ではなく体験なので、
言葉を解釈して概念化したものではないと思います。
言い方を変えると、わたしの言語運用能力では表現、伝達できません。

ただし、無明に基づく主観的な解釈が入り込む余地がないほど徹底した分別と、
正確な分析ができるのでない限り、という但し書きがつくのでしょうけれども。
それをやっているのがアビダルマ(論蔵)なのだろう、と理解しています。