信仰対象も観測によって確認された時点で確信に変わる、あるいは体験としての知識に変わるので、
仏法僧に対して信を抱くのは問題ないよ。
それが善知識との出会いの始まりでもある。
信が確立された段階で、依存的な信仰心は脱ぎ捨てられる。

そもそも迷信を信じることと、人間より正しいものを信仰することとは明確に違う。
子どもたちが、誘拐犯と親族や教師とを見分ける必要があるのと同様、信仰と迷信は区別される必要がある。

人智を超えた領域については概念として捉えている段階では、普通は迷信と区別がつかない。
そのため、形式的にも伝統的な仏法僧が残っている必要があるのだと思う。

仏道は素直に進んでいけば、洗脳もマインドコントロールも自然と解けていく。
そういう風になってる。