>>865
大山君はまた誤解している

成唯識論に曰く
「初能変の識をば、大・小乗教に阿頼耶と名く。
此の識には具に能蔵と所蔵と執蔵との義有るが故に。
謂く雑染のために互いに縁と為るが故に、
有情に執せられて自の内我と為らるるが故に」

大山君はこれを阿頼耶識の性質が1能蔵2.所蔵3.執蔵の三種の性質があって、
3の執蔵という性質だけを滅すると解釈されているわけですが
三義というのは違った三つの性質がそれぞれ独立して実体的にあるということでは
なくて、一つの蔵に、三つの意味があるということなんです。
で、唯識三十頌では、略されて能蔵だけが説かれているけれども、成唯識論では
三義を詳述しているんだと解説しているんです。

なので多川さんは、阿頼耶識を阿頼耶という執蔵と識(識体)に分けているんです。
なので阿頼耶識は残らないのですが、大山くんは義を性質と誤解したので
阿頼耶識の1能蔵2.所蔵が阿羅漢位で残っていると誤解されているわけです。

大山君は佛教語の意味をまず学ばなきゃね がんばり

余談
>修行道の位において、アーラヤ識を根拠として存在し続けていた、
>迷いの存在の有限性 云々

修行道位で止滅するのは末那識なので、阿頼耶識はまだありますよ。
違う部分を読んでいるから誤読されるのです。