自我が無くなる体験 (小悟) は

思考が一時の間だけ不可能になると「今まで自分だと思ってたもの」が無くなるのぢゃ
何故ならば、自我の正体は「思考の連続性」でしかなく、それが一時不可能になると

あれが無我というものだったのか。と、思考が可能になった後で、それが分かるのぢゃ
その無我の状態は、大悟に比べれば簡単ぢゃから、一度でも体験すれば何度でもなれる

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認識が無くなる体験 (大悟) は

認識が一時の間だけ不可能になると「今まで凡ゆる物を分別してた視野が解かれて
例えば、物と空間とか、肌と衣服とか、テーブルとコップとか、〜と〜、という
分別によって生じていた隔たりのすべてが消滅して、世界の全てが一つに見えよる」

もちろんこれも、あれが無認識というものだったのか。と、認識が可能になった後で
それが分かるのぢゃが、↑で書いた無我もそれなりに心地よいものぢゃが、無認識は
もっと心地よく壮大で、宇宙になったような、神秘性など無いのに、神秘な心地ぢゃ

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で、智慧というものが、それぞれに合わせて開くようになりよる。この智慧というのは
特殊能力でも何でもなく、誰ぞにも初めから備わっとる、本来の精神のポテンシャルぢゃ

(-人-)