【仏教】悟りを開いた人のスレ431【天空寺】
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お気軽に質問等をどうぞ。
罵倒、批判だけのレスはスルー。
悟ったと思う者は、体験、技術、見解などを書く事。
否定されても発狂しない。
修行もする事。(任意)
>>970が次スレを立てる。無理なら以降の有志にお願いする事。
※前スレ
https://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1565407590/ 長野には山があるのじゃwww
雪もあるのじゃwww
だから夏でも水があるのじゃwww
水がないと大半の生き物は生きていけんのじゃwww
綺麗な水は銭より尊いのじゃwww
南無ビッグアミターバのみが偉大なりwww
笑っちゃ魚www 前スレで栄進が長野に原爆落とすと宣言したけど
日本って核シェルター殆どねえんだよな
スイスは核シェルター義務付けられて普及率100パーセント
イスラエルも100パーセント
ノルウェー98パーセント
アメリカ82パーセント
ロシア78パーセント
日本0.02パーセント
核を持たない国、被曝国が核シェルターが無いとか
核シェルターは防空壕、自然災害対応にも使えるわけで
日本の防衛意識低すぎ
アショワより核シェルターだろ 核シェルターでも税金取るんだろwww
死ね死ね民族なのじゃwww
天皇は死ね、役人は死ね、それでハッピーなのじゃwww
おらの所には山や雪や水があるのじゃwww
役人は死ねwww
南無ビッグアミターバのみが偉大なりwww
笑っちゃ魚www こじは会社では人事だな。
人を見抜く力があり、
洞察力も群を抜いている。 ベイシックインカムは消費税値上げの口実に過ぎないwww
この国は口実だらけなのじゃwww
要するに嘘ばかりの国家に成りましたwww
NHKをぶっ壊すwww
GHQをぶっ壊すwww
天皇をぶっ壊すwww
南無ビッグアミターバのみが偉大なりwww
笑っちゃ魚www >>7
天皇陛下がおられる御所には立派な核シェルターが完備されとんやろ
陛下さえ無事なら日本は存続するんや
お前らは別に核の炎に包まれてあぼーんしても問題なし
(´・ω・`)笑 >>1乙〜♪
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ長野は美ヶ原高原美術館を上の方に
歩いて行ってw
考える人なんかがある展望台の360度のパノラマも良かったけど
安曇野当たりから穂高槍ヶ岳の景色が最高♪
テカテカ美ヶ原高原美術館にいく途中で
搾りたて牛乳の看板があって立ち寄ってヤカンから注がれた搾りたて牛乳飲んで下痢したwww
元オームたん富山だから新潟の酒造会社近いでしょう
良いお酒の酒粕手に入るんじゃない?
麦は暮れになると八海山の吟醸酒の酒粕をスパーで売り始めるから甘酒作るけど最高だお♪
お米の粒々が結構入ってる
八海山の清酒の酒粕も美味しいお
これもお米の粒々入ってる www
そもそもコジなんて会社じゃ採用しないよ。
採用したところで配属先でトラブルを起こして辞めるのは目に見えてるからねw 数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。
例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。 >>17
数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず、
「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
連想や記憶は雑念なのじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。
やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。 >>18
更にコピペじゃ。
未だ自我のある者は、更に感覚、感情、思考、分別知、認識などに観察を広げていくのじゃ。
前にも書いたが、感覚から先の観察は鐘の音などを利用すると、簡単なのじゃ。
感覚を観察するには鐘の音が鳴ったら、
「今、鐘の音が鳴った、聞こえている、だんだん音が小さくなるのが判る、今消えた」などと、
今、感じている感覚を観察するのじゃ。
その鐘の音によって生じる感情も、「耳が痛くてうざいと思っている・・・」などと観察する。
思考も「あの鐘は仏壇屋で買ったもっといいのが欲しかったと、考えている・・」などと
巻き込まれないように注意しながら観察するのじゃ。
物事を認識し、分別する心の働きは殆ど一つの動きになっている故に、鐘の音を聞いて、
「これは鐘の音・・・今、鐘の音と分別し認識した」などと、観察するのじゃ。
このように直接、心と体を認識する方法が、観の行の基本であり、
最もシンプルでスタンダードなものであると言えよう。
しかし、この方法はかなりの集中力と観察力が必要となる。
これをシステム化してやり易くした方法が、縁起の法や、空の法なのじゃ。 >>17>>18>>19
突っ込みどころ満載の糞ネタだけど、肝心の馬鹿鬼が逃げて来ないからなぁw
ほんと、こいつは仏教を舐めてるわw >>20
最初は縁起から始めると思うんだけどね。
鬼和尚の観察は無意味。 >>20
似非和尚の座禅は解らないけど、縁起を知りたかったら、雑念は露だよ。
これは確認しないと解らないけど。 縁起は最後だろ。確かにこじの人を見抜く力は本物だ。 >>23
最初で最後だね。
雑念を雑念として否定したら、座ってるなら、ただ座ってるだけ。 まあ、偽和尚の花を見る件は仏教として無意味だね。
人的成長の欠片も手に入らない。 【岩手】[一関市]大原だるま祭り[2019/08/15]
ああああああ
また自分のキャラグッツの即売会にばっかり力入れてるううううううい
最近全然拳法やらないやんんんnダルマ和尚ううううう いずれあなたは敗れる。
言い訳は無用だ。
何故ならその言い訳が無明だからだ。
そして敗れるのは本当のあなたではない。
無明が破れるのだ!!
そこに敗北者は居ない。
あなたが一番大事にしている自我を置いて行きなさい。
徳永英明「最後の言い訳」
ミュ〜ジックスタ〜ト!パチン☆!!
see-you⌒☆ いちばん大事なものが
いちばん遠くへ行くよ
こんなに覚えた君の
すべてが思い出になる
今生でそんな日を迎えられるのでしょうかね
あ〜あ、寝たふり♪、するかっ >>27
他人の自己愛を否定することが
あなたのこの上ない自己愛のようですね。 自己をもっと愛しなさい。
そして幸せになりなさい。 自分を愛せない人間が幸福になれるだろうか?
最高の解脱の境地にいたとして、
その人が幸福でないなら何になろう。
自分を愛せなければ他人も愛せない。 「こじ」が自己愛だというのは
完全なる「こじ」つけだ。笑 >>31
自己愛に捕らわれたなら、死する事は出来ませんね? 悟りを開きたいのか?
幸福になりたいのか?
修行者のすべても実は後者を求めている。 >>35
逆だ。自己愛は死そのものだ。
自己愛が達成されている者はすでに死んでいるのだ。
これは自己愛の捉え方も絡んできて複雑だ。
「自己愛とは何か?」という定義すら要求される。 こじを見たまえ。
彼は幸福か?
どう見ても不幸だ。
政治的要求ばかり主張して不満ばかり。
こういう自己愛は「わがまま」「我欲」「自己中」とされる。
私の主張する自己愛は「完全な満足」だ。
どうやらタイムリミットのようだ。 精神分析で言うと、自己愛とナルシシズムって違うんだよね。。
健全な自己愛と言うのは、誰にでもあって、問題ではない。。
しかし、ナルシシズムと言うのは、自己像への捉われ、ということで、
自己完結せずに、他者による承認あるいは否定と言う、泥沼を媒介せざるを得ない。。
どうあっても自分は自分だから、他は関係ない、ならいいんだけど、他に認められなければならない、
と言う人は、認めてくれない人を否定したり憎んだり、愛憎の中を生きなければならない。。
だれでも、そういう時節、を経て大人になるのだろうけど、大人になりきれないものも多い、
と言うのが問題なわけだ。。
フロイトの場合は、リビドーが内向すると、ナルシシズムになる、と言うようなことを言う。。
で、ラカンの場合は、想像界の理論、他者との闘争の世界を説明するのに、他者が自己の鏡像になっている、
と言うような説明をするわけだ。。
仏教でも、一人で生きられない人たちを衆生と言うわけだ。。
他人に認められないと、生きられない人たち。。
独りで、OKになるのが、ま、成熟だよな。。
でも、成熟と言うのはなかなか難しいのかもしれない。。 自己愛、自体愛と言うのか、フロイトの性欲論で言うと、口唇期のもので、自他未分の愛、なわけだよね。。
だから、だから、花を見ても月を見ても、自分と離れていない。。
眼にするもの、耳にするもの、全部自分、と言うような感覚。。
これって、悟りの一側面と一致するかもしれないという気がする。。
それに対して、他から分かれた自己像に執着するというのは、自我が形成されて以降の話。。
これは、まさしく迷いの世界かと言えるかもしれない。。
要は我執なわけだから。。w で、こういうところに書く、というのは、他に対して、自己を示しているわけだから、
自己愛じゃなくて、ナルシシズム的な行為、と言えるわけだ。。w
悟ってる人はちがうかもしれないけれど、そういう側面がある、俗なことやってる、
というのは、どっかで、意識している必要があるのではないかと思う。。
鏡ってのは、他なんであって、他を媒介してしか自分を知りえない、という自我の宿命みたいなものがある。。w
だから、自我を取り落す、放ち忘れる、ということができないと、これは解決しないのかもしれない。。 >>44
涅槃やん。
>だから、自我を取り落す、放ち忘れる、ということができないと、これは解決しないのかもしれない。。 >>45
そう。。
だから、完全にはそうならないよね。。
自我あってもいいんだし、ナルシシズムもあっていい。
ただ、どっかでそれを意識しましょうというのはあるかな。。
他を媒介とするということで言えば、仏教とか仏法とか悟りもそうでしょ?
だから、それを習いごとのように身に付ける、習得するというのはおかしいんであって、
逆に、だんだん全体に溶けていくというか、忘れていく、方向じゃなきゃおかしいわけだ。。
いったんわかったら、忘れる、ということだね。。
完全に、スタンドアローン、一個、真個になる、と言うのが目標だろうけど、
ま、大乗だから、こういうところで、おしゃべりガヤガヤもいいかもしれんね。。w
ただ、ちゃんと坐ったことない人ってのは、自我が成熟していればいいけど、
そうじゃないと、自分が仮のものだってことがわからないんだろうと思う。。
坐れば、40分くらいで、自分を忘れて、また元に戻る、ということなわけだけれど。。 >>46
知らないのに高望みし過ぎなんだよね。大抵は。
自分を観察出来ない。
縁起も解らない。
自灯明出来ない。
だけど空とか無我を語りたがる。
大事なところがすっぽぬけてドーナツみたいな感じ。 俺最高!
最高の俺が居る日本は最高なのじゃ。
それが真の愛国者の正体だー おはよう!
飛騨の牛乳うまいよ下痢しない 岐阜方面の温泉とか道の駅とかに売ってる
甘酒は月桂冠の甘酒が好物
缶入りのやつだけど。 休みは外出しないよ。トラックは視点が高いし危険予知しやすいし、乗用車に煽られてもそんなに怖くない
しかしマイカーの軽で遠出するのはかなりキツイと思う。 >>53
休みか。
仕事でもらい事故は泣けるからなぁw イオンに売ってたよ。6缶いりであずき色の缶で売ってる。
森永のよく見る甘酒よりは甘酒っぽい。 貰い事故は1回もないよ。
車間距離かなりとってるし、この車ヤバいなと思ったらブレーキ構えてる。
みんなヤバいと思って運転してる。半分以上老人だったりするから。 お休みー
子供の頃甘酒母親に作って貰ってたときは
千歳鶴という酒粕で作った甘酒が美味かったのう。
月桂冠もまろやかな芳醇な甘みとさっぱりしたキレがある飲みやすい酒だから甘酒でも美味いと思う。
千歳鶴も多分美味い酒だと思う。 >>47
う〜ん、高み、があると思うのが幻想じゃないかな?
仏教と言う宗教があるが故の幻想かもしれない。。
自己を忘ずる、もともとに戻っていく、というのは、落ちていく、と言う方向かもよ。。
転がり落ちていく、あるいは、落としていく。。
平凡以下、になるみたいな。。w 高みがあると思うと、修行中なのに、中腹ぐらいにいる、とか妄想して、
下のやつを見下してしまうとか・・・おかしなことになってしまう。。
もともと、であることに気づかない、ということが修行中、ということだから、
そういう風になってしまうのかもしれない。。 誰でも、もともと、と言うのが勝義であり、法。。
だけど、人間の考え、煩悩で見るとわからない。。
すべては人間の考えを超えて、法の通りにある。。
それに気づくというか、了解する、というだけ。。
それに気づくためには、人間の考え、自我のフィルターを外さなければ見えない。。
仏教の悟りはこれだから、何かの体験をしてとか、意識が変化して悟ったというのはおかしい。。
変化しようがしまいがそれ、もともとそれ、と言うのが仏法であり、悟り。。
ただ、自分で気づかないとしょうがないというのはあるかもしれけど、提唱でまず、
そう教えられるわけだ。まず、答えを教えられて、ホンマかいな?と参禅が始まる。。w
本当だった、と納得するまでの修行、ということだろう。。 >>61
圧倒的にオカシイのが柿猫。
途中経過なんも無くて「悟った」だからね。
柿猫が悟ってるなら大山くんも元オウムも悟ってるよ。柿猫より。
大山くんに関しては自灯明の期間が短いから悟ってないとしてるし、本人も自覚してる。
柿猫には「悟る」要素がない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています