まぁ、美術館でタイカレーを食べること自体を作品とするリクリット・ティラバーニャみたいな人が生きる現代では、それ自体を作品にすること自体が時代遅れである、とも言えたりする

我々の日常活動自体が、その道具性を失い、喜びだけになる時、それは芸術であると言える
その喜びの活動の集積を四次元芸術として知覚するなら、農民芸術概論に近しい表層を得られるような気がする

その意味では農民芸術概論で描かれる芸術性は、道具性を失う必要すらない
喜びだけあればいい

その喜びを喚起する行動がどんな社会性を帯びていようと、その行為の後で振り返ると、行為と行為の道具性は分断され得る

つまり、日常にその奥にある永遠性を知覚できる批評家、観察者だけが農民芸術を知覚し得る

その意味で、ジョンケージと同じ結論に行き着く

音楽における聴衆とは、作曲家であり、演奏家である
だから4.33の無音の音楽を作曲した

あとは、その通り我々が生きることができるか否か、という問いだけが残る