>>602
これは創造と最終的に求められているものを
理解することによって考えることができます。

まず生きることは欲望なので
それが創造と調和している場合、基本的に問題はありません。
言い換えれば世界と社会、個人にとっての善なる欲望は問題になりません。

しかし信仰にとって心は重要なので
それが心を曇らせる欲望である場合は問題になります。

次に私達は行為のみすることができます。
私達の行為は必ずしも特定の結果とセットではありません。
私達が自分の支配下にない物事を望むと好き嫌いが生まれます。
これは執着に繋がるので心を曇らせます。

最後に神が与える救いの一つは神と一つであるという状態です。
教えは神を完全な存在としているので、これは私達が悩まされている
不完全さ、制限されているという感覚などを終わらせます。

問題はこの解放は心がオブジェクトとして感じるものではないということです。
神を知り得た上でもしそのような感覚があるなら
私達は神を離れた存在として認識していることになります。

エゴが持つ不完全さは、私達の心に対象を得ることで
幸福や安全を求める傾向を植え付けています。
従って、最終的にですが世界がエゴのこの問題を解決するという
信念は放棄される必要があるというわけです。

欲望の追求は欲望を生むだけなので
この種の欲望はその限界を理解する必要があります。