>>Mewさん
早速一つの疑問を述べておきます
ただ今は先客がいるようなので、話題は彼を優先して時期がいい時にでも再開、と前置きしておきます

神を知る、という作業は意識の肥大化か縮小化が限度なく発達してしまうのではないか、と考えました
実際にぼくも経験があるからです
神の如く善悪を知っているかのような自惚れと、それに秘められた承認を求める自己卑下という仮の謙遜、人間を超越しているという点では「神に似た」状態であったとも今では思います

だけど「似ている」だけで、パウロのいうような神が内で生きている、ということの真似事にすぎなかったとも自覚しています
そしてさいあくなことに、まるで魅せられたように、この誤解を自分で解くのは難しいです

似ている、ということと、神を自己で認識しているため内部で生きている、ということはまったく違うことなのかもしれません
しかし見分けがつかないように似ているため、それは傲慢という罪を背負うことになる、なんて個人的には解釈しています

そういう自己肥大化から救いとなったのが、癒しスレで書いた葛藤という内的な対立感情でした
だから、自我と無意識(願いなど)を対立させていくことが神を認識する方法だと思い、そしてそれが宗教ではないだろうか、と書きました
そして牧師的な経験をされているまちこさんにも尋ねてみたのです
そして向こうで書いたように得られたことがあります
「神の考えと自分の考えは別の道にあることだと」

Mewさんなら、ヨハネの聖句の如くイエスキリストを知る、ということをどう解釈されますか