私には今、目標としたい牧師がいます。その方が凛
とした声で聖書の話を講壇からしだすと、静かな声
なのですが、張りのある声に、体が芯から揺さぶら
れるような、聖霊の響きが、体を駆け巡るような思
いがしたのでした。

こんな状態が更に強くなれば、言葉によって人が癒
やされることもあり得るのでは?と思わされる様な
体験をしました。

その後で、ああ、この牧師は日々戦っているんだな
と思いました。

聖書を読み、罪を悔い改め、自分の体を打ち叩き、
祈り、聖なる霊を内にいただき、恐れ・弱さを委ね、
信仰によって強くされる。

日ごとに、霊の祭壇を築く努力が無ければ、その牧師
のように、聖なる霊の影響を人に与えることはできない
だろうと、思わされました。

そのことを牧師に質問すると、やはり日々朝早くから
祈りの祭壇を築いているとのことでした。

現在の私の目標は、その牧師のように、日ごとの祭壇
を築き、それを日常化させていただき、更に上を目指
して行きたい、ということです。

もちろん自分が強くなったり、力を得たりするという
ことではなくて、全てはイエス様が最善を成して下さ
ることを信じる信仰によるわけなのですが。

しかし、たとえその牧師のようになれたとしても、
そこで安住することなしに、さらに上を目指す姿勢
が、救われたクリスチャンのあるべき姿なのでは?
と思わされました。

さらに良い、先の目標を目指す者にとっては、過去の
目標であった時点に戻ることは、罪とみなされること
もあると思います。

パウロは、自分は勝利を得ようとする競技者のように
日々自分の体を打ち叩いて、後ろを振り向かないで、
前に進む努力している、と言いました。

私もそうならせていただきたいと願っています。