無我 というのも、一つの「認識論」なわけ・・・仏教と言う一宗教における。

つまり、どこに焦点を当てるか? という視点の差異だと思いますよ。
その視点の当て方は、仏教では勝義オンリーではなく、世俗にも向けられていて
そこはきちんと釈迦も押さえているw

たとえとして適切かどうか?わからんけどw

「風が吹く」・・・・という言い回しは、何か「風」というものがあって
それが「吹く」という動作をするような表現だけど、実際は違うよね?

それは、「気圧差による大気の流動」という「現象」を指して言ってること。
この中に「基体」を探すとしたら「大気」なんだろうけど、普通はそんなこと意識
しないw

日常的には「風が吹く」で何の問題もないわけで、人は「風」という、ものに
「基体性」を投射して、「何となくそういうもの」があるみたいにして、やりすごしてるわけw
それはそれで全く問題ないんだが、そこに無理やり突っ込み入れてw
「いや、そんなもんはない。それは現象に過ぎない」  とやるのが「無我」なわけでww