C、漏尽者にとって一見相応しくないように見える言葉であっても、
 そうだとしても、そのような語であったとしても、の意。

D、中村訳は、PTS版yamataMに従い、且つW.L.Geigerの読解に拠ったもの。

 ※ahaMの初出箇所(から)にある註。
  〈この神は密林に住む者である。かれは、森林住の比丘たちが
   「私は食べる」「私は坐る」「私の鉢は」「私の衣は」
   などと語る言葉を聞いて、考えた。
   「私はこの比丘たちを漏尽者であると思うが、はたして漏尽者たちには
   このような自己の妄説(attupaladdhi)生じるのか、
   それとも生じないのか」と。
   このことを知るために、このように問うている。〉

  *(片山版の体裁(記載箇所)を信じれば、「mamaMの註」というより、
   この神の発言全体の総括的註か。(そこは原本見ないとわからない。)
   中村訳は、文庫註の書き方から、この内容「私の鉢は」「私の衣は」から、
   「私のもの」という読みをしたものと思われる。)
  *mAnaganthassaは、mAnaganthA+tassa(assa)の短縮形
   とも言われるが、いずれにしろD.G.で読むことになるので
   それほど重要ではないだろう。もし、短縮形であるなら、
   ここは詩句なので、韻律上、音韻の数の調整からのことかもしれない。

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以上、どう読んでも解釈しても、
「アートマン」(及び「真我」)が出てくる理由が見当たりません。
m(_ _)m

が、mamaM vadanti については、まだまだ要検証といったところ。