>>857
いえいえ全然、違いますよ!
七は、あの経文の一体どこをどう読んでるの???
鈴木さん、田中さんそんなことは関係ないです。

仮に、言語表現としては、
ウパニシャッドの説く“恒常不滅のアートマン”という意味での「わたし」として語っても良いとブッダはいってるのです。
ただし、それは修行完成者に対しての限定付きですよ、と。註を見ればそのことが明らかでしょう!
もちろん、ここでは「アートマンはある」ということをいっているわけではないけれども、
しかし、完成者はアートマンという意味で「わたしは語る」といってもいいよとブッダは述べられたのです。
これはあなた方のいつもの立場から見たならば、本来ならば
「ある筈もないアートマンについて誤解を生じかねないそのような正しくない発言は止めなさい」というのが、
いつもブッダの説かれる“正しい態度と言葉遣い”というものなのではないのですか?
と、この私はいってるのです。

 【なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、『わたしが語る』と言ってもよ
いでしょう。また『人々が〔これこれは〕〈わがもの〉である、と語っている』と言ってもよいでしょう。真に力量ある人は、世間における
名称を知って、言語表現だけのものとして、〔仮りに〕そのような表現をしてもよいのである。】
 慢心を捨て去った人には、もはや結ぶ束縛は存在しない。かれには慢心の束縛がすべて払いのけられてしまった。聡明な叡智ある人は、死
の領域を超えてしまったので、『わたしが語る』と言ってもよいであろう。また『人々が〔これこれは〕〈わがもの〉であると語っている』と
言ってもよいであろう。真に力量ある人は、世間における名称を知って、言語表現だけのものとして、そのような表現をしてもよいのである。】
(サンユッタ・ニカーヤ T,3-5 )

【註:『わたしが語る』と言ってもよい---これは我(アートマン)が存在すると主張する議論である。『雑阿含経』には「何言説有我」。
   わがもの---mamam = mama patto,mama civaran ti a^di katha^voha^ram su^tva^(Comm.p.51). 「我所」(『雑阿含経』)。】
(中村 元訳『プッダ 神々との対話』岩波文庫p248)