菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)すというは、己れ未だ度(わた)らざる前(さき)に一切衆生を度さんと発願(ほつがん)し営むなり、
設(たと)い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも、
早く自未得度先度佗(じみとくどせんどた)の心を発すべし。

(大意)
仏の道を歩いていこうとすることは、自分の幸せよりも周囲の人の幸せを考える生き方を志すということでもある。
在家の人であろうと、出家して僧侶となった者であろうと、どのような境遇にあっても、
自分の幸せよりも人の幸せを願うような心をおこして生きていきなさい。


『修証義』第四章「発願利生」冒頭
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日蓮から個人成仏主義と批判された禅宗でさえこう説いています。
もっとも、日蓮は栄西や道元といった禅宗の宗祖のことは批判していません。
栄西を批判しなかった理由は分かりませんが、道元を批判しなかったのは道元が法華経を厚く信仰していており、
その著書正法眼蔵の中でも法華経を敬うことが書いてあったり、法華経からの引用が多かったりしたからではないかとも言われています。
ちなみに鎌倉仏教での浄土教の祖、法然のことは日蓮は手厳しく批判しています。