>>815
〔神霊曰く〕「比丘が阿羅漢へ至った者となり、漏尽者にして最後身の保持者となったならば、
彼は『私は言う』と言い得るのであろうか。また彼は『彼らは私へ言う』と言い得るのであろうか。」
〔世尊曰く〕「比丘が阿羅漢へ至った者となり、漏尽者にして最後身の保持者となったとしても、彼は『私は言う』と言い得る。
また彼は『彼らは私へ言う』と言い得る。
善巧なる者は世間の呼称を知りて、ただ慣用語として、彼は言説することができるのである」
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsgv/sn01/sn01c25.files/sheet001.htm

>善巧なる者は世間の呼称を知りて、ただ慣用語として、彼は言説することができるのである」

龍樹に言わせればそれこそが世俗諦だということになると思います。

八 二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。【その二つの真理とは】世俗の覆われた立場での真理と、究極の立場から見た真理とである。
九 この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解していないのである。
一〇 世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。
(「中論」第二四章 四つのすぐれた真理の考察)
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&;id=9530364

この二つの真理の区別を知っている人々が生存の素因を滅しつくして最終身となった阿羅漢(中村元氏の訳だと真人)で、
区別を知っているからこそ「ただ慣用語として私という呼称を言説することができる」という意味に恐らく龍樹は説くと思います。

まあ、そうではないか、と私(自分)が思っているから上の推論になるわけですが。