--佛教論議の伽藍スレ-- 第五巻
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仏教に関するKeyword 「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、 原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、 激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。 尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。 基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、 もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。 -------------------当スレの戒律(マナーとルール) ------------------- 条項 1.アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可) 2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない (チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。内容を一つに纏めてから投稿しよう) 3.コピー転載やリンク貼りのみの投稿は慎んでください。 4.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。 5.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主の判断で即刻、退場してもらいます。 6.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。 (1950年の世界仏教会議にて決議した) 7.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう) 8.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。 9.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(及びレス番2/資料リンク)を変えないこと。厳守!! 10.円滑な議論のために、当スレでは「コテハン」(固定ハンドルネーム)の使用を推奨します(ただし、強制ではありません)。 以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。 一方仏教は、 真面目な人間からすれば、途方もなく困難な無理ゲーなわけでw だから、大乗的ムーブメントが必要だったし、 日本でなら、念仏唱名系の存在意義ってのはでかいわけでね・・。 そもそもがハイレベルなのだから敷居が高くて当然なわけだが、 じゃあ、敷居に足が届かない人間は敷居の前で苦悶してろ! というわけにもいかないわけで。 敷居を低くするか、踏み台を用意するか、手段は色々としても、 いずれにしても、誰もが越え得る敷居である必要が要請され続けたというのも、 仏教史の一側面かもしれない・・。 >>608 補 だからこそ、大拙は西洋的価値観(→個の尊厳・霊性)に対抗すべく、 従前の仏教的世界観に西洋色を被せねばならなったし、 彼の、東洋思想(→日本仏教→禅)の宣伝は、 (漱石が身を以て感じ、克服しようとした)西洋化と伝統との葛藤と相似する。 また、はるかに進んだ西洋に追いつかんとする、無意識裡の近代化欲求が、 仏教や禅の解釈し直しにも繋がっていることは否めない。(それはおそらく釈宗演にしても同じだろう)。 大拙が、そうした想いに包まれている中、神智学系の思想は、 実に魅力的なツールに見えたことだろう・・。 良くも悪くも日本は、西洋的価値観の過剰投与によって後遺症を負っている。 まぁ、禅宗がどう擁護しようが、 相手を見ずにベラベラと垂れ流したのには違いないし、(笑) チベットが政治目的に仏教を利用したのも史実だよ。(笑) インドでヒンドゥに追い出されたのも史実だし、初期の中観派が論で勝っても物理で負けたのも多分史実だろう。 (^。^)俺は数十年考えたが、どう考えてもキリスト教系統に呑まれる未来しかないと思うよ。(笑) >>612 それは、 或る一面―「個の尊厳、権利、自由(反束縛)、夢(希望の実現(恣意性・欲望の肯定))」―を、 人間社会の必然と、人類の未来像への必須要件とするなら、 避け得ないかも。 勿論、上記のスキームそのものが西洋的であり (―今話題wのブータン的価値観と比較して優劣を問うことは野暮としてもw―)、 目指すべき唯一の理想形と設定するのもまた、洗脳&習い性かもしれんけど。 >>610 輪廻を前提とすればそのような焦りは必要ないんだけどね 波羅蜜次第 必ずしも今生での結果にこだわる必要はない(修行を怠る言い訳にしてはいけないが) ある段階で輪廻が「前提」ではなく「信じる対象」となった 大乗が発生した 輪廻を前提としない潜在意識を持った人間が 「在家主義」などとほざいて上座・僧籍を目の敵にするわけですなw 犬には仏性がない。 人間にも仏性がない。 なんでか。 無字の公案である。 16日/菩提寺での盂蘭盆施餓鬼法要は参拝者が少なかった。 日照りが強くて暑いのに加え、この後に台風の接近で大荒れとの予報があったからだと思う。 ともあれ無事に、寺院法要と送り火と精霊棚の片付けが済み。 そして、帰宅後の自宅で再び御霊膳と三宝の野菜盛りを捧げての御法楽を以て、 なんとかこの夏のお盆の行事をすべて終了しましたm(__)m >>574 承狂 >宝珠愚者だった頃は、 せっかく総本山から頂いた有難い名前なので使わせてもらっている。 「愚者」だった頃よりはその分、少しくらいは進化したかと? ダメか? 名前だけじゃ〜変わってないかw >>599 >チベット仏教かぶれなのかスリランカ仏教かぶれなのか、どっちなんよ? >地面師的には実際のところ中身はどーでもいいから、一貫性なくて平気なわけだなw >>604 >仏教諸派間でもかなり両極に位置するチベット派と上座派の間で神智学はどう整合つけるのかね?(毛頭ないんでしょ?)とw 教義的上における神智学との親和性と類似性の高さという意味において、そして実際上、この日の僧侶たちの意識レベルの進化 度合いからみて高評価しているのがチベット仏教。そして、一般的に見て現存する仏教諸派の中で尊敬するブッダの教えに最も近 い状態を維持してきたという意味でのテーラワーダです。別に何も、それはスリランカ仏教でなければならないということではない。 そして、その後にスリランカ仏教の消滅の危機を救うためにブラヴァツキー夫人と共に授戒を受けたもう一人の神智学協会創立 者だったオルコット大佐がここへと一人残って、残りすべての生涯を捧げてスリランカ仏教復興のために尽くしたのです。 オルコット大佐は、今日でもスリランカでは英雄であり、彼の銅像が建立されてスリランカ仏教復興の父として讃えられている。 ブラヴァツキーもここで一緒に残りたいという想いがあったのだけれど、神智学を世に広めるという一大使命があったのでそのこ とをオルコットにいわれてヨーロッパへと戻ったのです。 ちなみにあなた方がいつも拝する日本の各寺院での法要イベントで必ず掲げられている「仏旗」というのは、オルコット大佐が キリスト教の十字架に匹敵する全世界的な仏教シンボルの創設を願って、仏典の中から発案して国際会議で採用されたものであり、 日本には実際、オルコット大佐が京都仏教協会からの招聘で来日した際(二度、来日した)に持ち込まれて今日、広まったものです。 >>619 訂正: ×「教義的上における--中略--この日の僧侶たちの」 〇「教義上における--中略--今日の僧侶たちの」 >>615 その台詞は両刃。 今は、どうしようもないんだから、我慢して苦しんでおけ、ってことでしょ。 そりゃ、「来て、見よ」と言われているのだから、 「来れない」者は論外なわけだけどw、 その「来れない者」達に、どう安心(あんじん)を与え得るか を模索した祖師方が居たことには敬意を表したい・・。 >>621 んー、外道のエキノコックスコンコンチキが何か言ってるのかなあ? 輪廻を信仰ではなく前提として、その上で波羅蜜、己の積んだ業次第と捉えれば、極めて平等な、自分の(過去世からの)業がストレートに報われるシステムってだけ まあ外道には当然、そもそも輪廻にしろ何にせよ元から歪んでるし、「歪めてる」から、外道自身にとっては、両刃なわだろうなw 歪めた前提で評価して「だからしゃーない」ということにして、それを前提として別のベクトルを作るのも勝手だし、それはまたそういう歪めた業にふさわしいように宿命も形成されていく というのが業論てもんだでw >>622 その点(仏教は実は冷徹っての)には同意だがw、 それで済まないのが、人の世(娑婆)であり、 安居が始まったのも、僧伽へ入るのに条件が増えていったのも、律が煩瑣になっていったのも、 全部、人の世(娑婆)との兼合いなわけで。 個人的には、〔仏教は、本質的に「門前払いをする」宗教である〕、と思っているけれども、 四弘誓願の素晴らしさを考えれば、 〔門戸は常に(―既に!―)開かれていて、入る者拒まず去る者追わず、歩みの遅きも責めず〕 でもあるべきだろうな・・と。w >>623 補足 >〔仏教は、本質的に「門前払いをする」 ・・・ たとえば宝珠・在家・隠居・カラス・桃・紐・・・etc.とか?w >門前払い >>621 補足 >今は、どうしようもないんだから、我慢して苦しんでおけ こういう言い方の内容ではないけれど、 以前からずっと指摘しているのは、 「見返り、平等、苦労に対する報い・評価・報奨」を切望しているのが、 新興宗教系であり神智学だ、ということなんだけどね。 輪廻や、肉体無き衆生を認めることに、それほどの躊躇はない。 が、 現状の不公平不平等苦悩をトレードの如く相殺させるために、輪廻を設定する姿勢には、 断じて賛同できない。 ただそれだけ。 現成の不満の解消ツールとして、トータルで利益を得ようとする姿勢は、株のトレーダーと何が違うのか?とw >>591 はたして、それらの事故が関係があったのかどうは私には確認することができませんけれども、 しかし、私もそのような異変が起きても何も不思議はないと思いますよ。 巨木の場合は魂が宿るといいますが、やはりマズイかと思いますね。 こちら北海道でも、木を切った者が次々の不慮の事故で変死を遂げる有名な恐ろしい切株があります。地元では知らない者はいません。 この切株は今も残っていますけれど、あまりにも祟りが酷過ぎて遂に根こそぎは断念、国道はこの木を避けて不自然に曲げられています。 仏典にも樹は霊樹としてとても多く登場してきますね。 特に、「仏教三霊樹」や「仏教五木」とされるものがよく知られています。 ブッダが悟りを開かれた時に瞑想で座られていた場所(金剛座)の巨木がブッダガヤの菩提樹 (ピッパラ樹、いわゆるインド菩提樹)で、なんとこれは今でも巨木して元気に茂っている。 悟りを楽しまれるための瞑想はまた別の霊樹で、亡くなる時にもまた異なる霊樹の傍でした。 仏陀説話にまつわる聖樹の数々 http://www.ts-kaneko.net/?p=914 丸井 浩解説「ブッダ最後の旅」に学ぶB入滅への決意 http://h-kishi.sa kura.ne.jp/kokoro-727.htm (投稿規制強く「sa kura」のスペース入れました。リンクはスペース削除で) 満久崇 鷲著『仏典の中の樹木--その性質と意義--(1)』 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/51293/1/KJ00000704278.pdf ああ、>>625 補 逆の位相で、 「怨敵は、その悪行の報いを受けるべき!」 という【報復願望】も同様。 実際、樹木には霊妙なパワーが宿っていて、これを人の霊的な成長の援けとして利用することができるのです。 その中でもこの私が以前に強く推奨したものが、「ルドラクシャ・ビーズ」(金剛菩提樹の実で造られており、ブッダ悟りの菩提樹とは異なる種)です。 これを首に掛けて使うのですが、大変素晴らしい波動があって身体を浄化して不浄なものから守ってくれるのです。 これらのヒンドゥー数珠は総じて「マーラー」といわれているもので、普段は首にかけて使います(できれば肌に直接触れるようにする)。 そして、サンスクリット語で「ジャパ」といって“神の御名やマントラを繰り返し唱える”際には、 このマーラーを手に取ってこの玉を一つずつ括りながら数を数えて使います。なのでこれを「ジャパマーラー」といいます。 これは仏教数珠と同様、その数も108個の輪であり、要するにこれが仏教念珠(数珠)の“原型”なのです。 仏教以前から古代バラモンが使用していたものが密教を通じて、その後しだいにすべての仏教諸派にも導入されていったのです。 ルドラクシャ・ビーズ https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/643 http://wsc-nehan.com/?pid=121674676# 高野山真言宗の末端(事例:引用の「東光寺」)が“伐採供養”をうたっているのですから、 その総本山のある聖地高野山の霊木を伐採するのに供養無しなどとは考えられませんね。それは当然なされている筈です。 私も高野山には一度だけ行ってきて宿坊にも泊まってきましたが、その素晴らしさで大変有難くて、その感謝の想いでいっぱいになりました。 この霊山は最高の聖地ですね! まだの方には是非お勧めいたします。 『枯木・樹木伐採供養 樹木や枯木には多くの生き物が生活しており、老木などの精霊が宿る樹木を不用意に伐採すると、 思わぬ障りを受けるといわれます。生き物に対して感謝と安らぎを与えるご供養です。ある程度猶予期間が必要となるため、 伐採予定日よりも1〜2カ月ほど早めにお申し込みください。』 (高野山真言宗七寶山東光寺 https://www.s-toukouji.or.jp/memorial/ ) それから、割とごく普通に庭木の伐採においても供養してからといわれているようです。 https://curama.jp/magazine/119/ >>591 さんは山仕事関係なんですか? 私は僅か1年足らずの経験でしたが、でもすぐに辞めて本当に良かったです。 間伐というのは人口樹林で針葉樹(松系)の細いのが中心ですけれど、 “大木”を伐採することになるのは決まって“広葉樹林”なんですよ。 広葉樹の広がる山々というのは生き物でいっぱいなんです。 そこは微生物〜甲虫〜野鳥〜小動物〜と溢れていて皆、楽しそうに生きているのです。 その地での主であり、生き物たちの拠り所となっているのが広葉樹の巨木たちなんですが、 これを根元からチェンソーでやる際には本当にいい気はしません。 凄い罪悪感が湧きますし、これが倒れていく時に上の枝にいた小鳥たちが羽ばたくのだけれど...。 それと野鳥の巣があって、それがまた卵と孵りたてのヒナのいる巣なのですが、 それを命懸けで守ろうとする親鳥が羽ばたきながら私の顔の傍で口を開いてズ〜と威嚇しているんです。 もちろん気にはなるけれども、でもとても作業中にその巣を援けてあげることができなくて...。 だから、凄く可哀想で惨くて自分が嫌でしたね。数日間、その親鳥の抵抗する姿が目に焼き付いてダメでしたね 広葉樹の木々すべてを切り倒した後は、 今度はブルドーザーで根こそぎ谷の下まで押し込み除去するのです。最後は黒土もなくなって死の山肌が顔を出す。 山の黒土が売り物となる場合には重機で振るいに掛けて、山の下まで持っていきダンプに積まれます。 「植林」とは聞こえは良くても、商業的に便利な樹木で同じものばかりを植え込むものであり、大抵は製材となる針葉樹です。 これら松系統というのは松脂の影響で殆どの生き物たちはこれを嫌いますね。 なので針葉樹林の山は生き物のいない死の森みたいな感じになります。 それで、私の見てきた経験上では、これらの普通の森林作業では伐採供養などは何もしませんね。 そのような話も聞きませんでした。 各個人が、自分の家庭のお仏壇なり神棚なりに手を合わせる際に、人によっては感謝や謝罪のお祈りをしてるのでしょう。 ということで漁師さんなんもそうですが、自分は殺生をする仕事に就かなくて良かったなと思います。 私たちもそのお陰で頂くことのできる漁師さんには感謝する以外にはありませんが...。 そして、馬頭観音さまかもしれませんが、またどんな形式でもいいので 感謝と供養の儀式というのはして頂きたいものだと切に思います。 ああ、たまたま見つけた過去レス http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1305381089/448 448 神も仏も名無しさん sage ▼ 2011/05/20(金) 08:52:29.65 ID:z92NOjIw [5回目] >>442 一代が、丁寧に縷々説明していたことが全く理解できてないんだな・・。 (私の意見への評定はともかくw)、貴方の考えは、仏教では明確に排斥されるものなんですよ。 伝承した弟子達の誤解なんかじゃない。 【根本的に】仏教の視線、スタンスに反するものなんだよ。 「三世に跨る」業報にしても、貴方の言うような跨り方ではない筈です。 継続(して存在)する基体(→真我でも魂でも名前は何でもいいが)なぞ設定してしまっては終わりです。 ※(>>413 への御感想は何かありますか?w) また、>>414 にURLを貼ったように、 「なぜ私だったのか」(≒〔「なぜ、《この私》は《この私》なのか?」「なぜ、《この肉体》に《この私》なのか?」) というのは、実に西洋的(或いはデカルト的と言うべきか?)視線であり、 「縁起」「五蘊仮和合」「根境識の和合」という仏教の一歩手前なのです。 「自を世界の基点・中心とし、世界はそこから拡がらねばならない」という前提から出発する、 「俺が俺が」的価値観なのです。「まず私がいなければ始まらない」という基準取りから外れられないのです。 *(だから貴方は【「一切」の外に“それ”を持ってきた】。 “それ”無くしては成立しないので、【どこかに“それ”を存在せしめねばならなかった】。 実に単純な思考手順です。) *(華厳の法界縁起と対極にある、とも言えるかもしれません。) 哲学界では、こういう考え方にも何かしら名前があるのかも知れませんが、 いずれにしろ、仏教は、そこよりもう一つ先を見据えるわけです。 >>629 瞋痴としては、鳥には「個別の魂はない」んだから、(笑) 個別の魂を持った人間様の、しかも瞋痴の真理を知るところの大先生が、(笑) 一体何を感じるというんだ?(笑) (^。^)バカカルト並みに「ポアシテヤッタ」とか思うべきだろ?(笑) 何で個別に供養なんて思ってんだよ。(笑) >>622 >>623 この二人の論点には、色々と言いたい事もあるが、書き出すと止まらないのでノーコメントとします。(笑) (^。^)てか、いい加減お前らコテつけろよ。(笑) タマに七が発狂したかと思う時があるんだよ。(笑) >>633 確かに動物界の生き物は個別化した魂ではないけれども、もちろん、皆それぞれに自分の魂を内包します。 そして、個体による個性がないなどとはこの私はいっていませんからね>>588 。 この私は動物大好き者でワンちゃんも何度も飼いましたから、彼らは個性がとても強いということをよく知っています。 (子供の頃から生き物好きで何でも飼ってきた。今も20年ほど熱帯魚のアクアリウムを続けています) 逆に、科学のほうこそ動物はすべて本能で行動しているに過ぎないなどというアホなことをいっているのです。 それから、人間が進化の頂点に君臨しているからといって、それ以外の生き物を虐待してもいいことにはならないですからね。 (子供〜少年期に強くはまったフィッシングもブッダの教えと出逢ってからは止めました。それは魚の虐待娯楽だったからです) そんなことはこの私は一度も述べたことがないし、もちろん動物愛護の精神を尊重しています (この私は、オ・モ・テ・ナ・シ☆新次郎妻の動物愛護を応援しています)。 チベット仏教のポアの正しい意味は殺すことなどではないですからね。 それは、死後の行き先を少しでも高い境地に至らしめるという秘法です。 >>596 >仏教ではないのに、神智学のなろう小説的輪廻転生観を持ち出す。 >仏教スレに仏教の純正な輪廻観を突き付けて、セブンらに僧職としての瑕疵を問うのならまだわかる。 はいはい。 この私からは“仏教の純粋な輪廻観”などとっくの昔にすべて突きつけきり、その議論は終えていますよ! その結果として、彼(七セブン)は自分は輪廻というものを信じないけれども、 仏典上においては確かに説かれているという事実は認めると明言したのです。 それにも相当に時間を費やしましたけれどね...。w では彼は、 仏典には説かれているのに何故、それを信じないのでしょうか? @ブッダが間違ったことを説いているから。 Aブッダは説かなかったのだが、後代になって弟子たちによって経典上へと勝手に加えられたから。 Bブッダが輪廻を説いたのはそれが事実だからではなくて、バラモン教の思想を方便利用するためだったから。 Cブッダの教えを信じられないから。 輪廻を信じないタイプの自称仏教徒らはBが圧倒的に多い印象を受けていますが、 しかし、彼はその理由を明言していなかったように記憶します(ニュアンス的にはCか)。 私もその理由についてはあまり追及しませんでした。何故ならば、“信じないのは御自由”だからですよ。 なので、信じない者は別に“信奉しなければそれでイイ”ということなのです。 だから私は、「信じていないのだから僧侶の衣を早く脱げ! これ以上、僧侶の振りをして人々を欺くな!!」 と、怒っているわけです。 ちなみに承狂の場合は、 輪廻とは個人が別の人格として来世に生まれ変わって来ることではないと断固として言い放つので、 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1541436305/21 ならば、これは何だと問い詰めたところ、 途端にそんなこと自分には分からないといってトボケ始め、これには無言を通してきた...。 七は取りあえず、自分の信じるままにまっすぐ一生懸命のレスをしてくるが、 しかし、承狂の場合はかなりズルくてボケているフリを始め出すのです。 また、Bのタイプに、この私からはブッダは「バラモンの受け売りで輪廻を説いてるわけではなく、 すべて自分自身で確認した事実であるからだ」とハッキリ明言している経文を提示しても、 彼らはズルくて、それに対しては無回答を通して無視をします。 以上が、輪廻転生についての実際上の議論の実態ですよ >>609 失礼しました。訂正しておきます。 その「不確定」という言い方は私はどうなのかと微妙な印象も受けますが、 この私としては、“一般的に理解(定義)できる表現を超えたものであるから” が、この場合は正解なのではないでしょうかね。 所詮、これは私の理解ですけれど。 >>593 ではいいでしょう。 仮にもし、“無色界の住人”をも含めるとしましょうか? ならば、あなたは心霊存在すらも信じてないというのに、 天部の肉体無き意識体のことは空想の産物ではないとして認めるということなのかな? (確かに、天部もいずれは下位の境地へと堕ちてくるというからね) そこ.どうなんだい!! で、ハッキリいっておくから。 その聖句がアートマンを説くとか、アートマンがあることに繋がる経文だなどとはこの私は一言もいったことがないからね。 そしてもちろん、私はそのように見なしてはいないからね。 どこかの何でもアートマンのことになるといってくるような人たちとこの私を一緒にしないでくれるか! ただ、心霊存在すらも認められないようなレベルの者にそれ以上の話がわかる筈がないといったまでのことだ!! 何が読解力のなさだ。あなたこそ一流大学で高い金を掛けて何を勉強したんだ??? >何度でも何度でも何度でも言う。 ウダーナ8を読めていないのは貴方だ、宝珠。 誰もこれがウダーナと関係するなどとはいってない。 ブッダは『ウダーナ』において、 縁起しているのが有為で、有為とはまったく異なる縁起しない無為である涅槃があるとして説き、 “この両者は異なるからこそ”有為からの解脱を、有為から解脱したものとしてそのことを覚知できるのだといった。 その有為の縁起の状態を空ともいう。なので、縁起しない無為が空であるということは理論的に在り得ない。 仏教における「一切」とはすべて有為についてのこと。その一切に勝手に涅槃をぶち込んだのが「部派仏教」であり、 これを今日までテーラワーダが“伝承” (口伝とアビダンマ)と称して受け継いできた。 そして、その伝承の流れを他の仏教諸派のすべてが信用した。 しかし、間違っていた!!! 〜以上だ.七セブンよw 昔、〇○大王だとかいろんな変なのが大量に湧いた頃があったよね。 彼らは、この私から輪廻転生を示す明確な経文としてそれを提示しても、 「そういう意味ではない」「そうは書かれてない」と断固拒否するまるで精神障害のような人たちでしたね。 それでは、あなたは「何と書かれていると見ているのか」と尋ねてみると、 もう殆どカタツムリを見てクワガタと返答するくらいのブッ飛び内容だった。 そんな憂さ芝居を打ってでも何とかしてブッダが輪廻を説いたことを間違った情報にしようとするのです。彼らは...。 まさかかセブンまでそうなってはいないだろうね? もし、お望みならば、『ウダーナ』の経文をまたここに提示しますか? それとも、またいつものように“訳が悪い”とか言い出すのですか? (もし訳が悪いというならば、その理由を明確に説明しなさい!) >>631 実にクダラン!!! 輪廻の主体(基体)は仏教では「識」(これが魂)として明確に説かれている。 別に三世に跨ったって、それらもすべて縁起の範疇ですから。 それが縁起の唯一、科学サイエンスの物理や自然科学などとは明確に異なるところですよ。 ただし、これを「アートマンと見なすなかれ!」というのがブッダの注意事項なのです。 だから何度も何度も何度もいってきたように、「魂」と「アートマン」とを混同するな。 味噌も糞も一緒にするな! と、あれほど口酸っぱくいっているわけです。 しかし、あなたのような唯物論のアホが、どうせ「魂」も「アートマン」も同じようなものだろう。 その違いなんか俺らには分からないし、最初からそんなものは別にどうでもいいや〜〜。 どうせ肉体生命の他には何も無くて、死んでから存続する意識などは皆無なのだから〜 が、あなた方の無知で愚かな言い分だからだ。 まずは、自己のレベル四段階を知りなさい。 そして今話している「自己」とはどのレベルの自己のことかが分からないならば意味がない。 それからいつもいつもいつもいってきたように、「アートマンは輪廻しない」からね。 いいかげんに憶えておきなさい! >>626 細い木やマツクイムシの被害木だと割りと問題無く伐れるけど それでも伐った後に山の斜面から引き摺り下ろす時にクレーンのワイヤーが他の枝に引っ掛かって切れたりとかのトラブルは有りましたからね 事前に何らかの供養をして置けば 事故は避けられたのかも知れません >>628 真言宗は念珠の首掛け厳禁ですよ… 高野山は大門の内と外でも雰囲気が全く違うし 奥の院は畏怖を感じますね 富士山の陽の気と反対に強い陰の気だけど 彼処はまた行きたくなります ---再掲載--- >人間の意識レベルというものは大きく四階層となっていて、 >その第一は普通に生存中の通常意識のこと。第二は死後にも一定期間残存を続ける意識。 >そして、第三に輪廻主体(基体)である「魂」(jIvAtman/ジーヴァ)があり、 >更には第四として、究極である縁起しない恒常にして永遠の「真我/パラマートマン」(paramatman)、 >通常、ウパニシャッドでいうところの「アートマン」。 >神智学分類とヒンドゥーでの呼称はこの通りです。 > 【神智学】 > 「1.エゴ(自我)」-「2.マナス/アストラル体(情緒想念形体)」 > -「3.アートマ/ソウル(魂)」-「4.モナド/スピリット(霊)」 > 【ヒンドゥー】 > 「1.アハンカーラ」-「2.プラーナマーヤコシヤ(カーマローカ)」-「3.ジーヴァ」-「4.アートマン」 *教えのポイントは二つだ!! その一 ・業報を継承する時空を超えたものを仏教では認めている (輪廻の主体を認めずに業報を主張するやり方は間違いであり、仏教ではこの主体は説かれている)。 ・しかし、それすらも永久不滅ではなく「我」とはしない(よって「無我」とは抵触しない)。 その二 *仏教に登場する四つの我(自己)とは、 ・日常生活で普通に認識している我 (自己) →死後には消滅 ・死後の生存であり、生前の状況に応じた姿で接触することがある →死後の餓鬼(幽霊)、夜叉、神々的存在、等々 ・前世や来世に跨って継承する我(自己) →原始仏典の説く「魂神」「識神」、大乗の説く「阿頼耶識」等々、いわゆる「魂」存在 (餓鬼存在も含めて「五蘊」の「識」は死後で消滅するわけではないことに要注意!!) ・永久不滅の我(バラモンの説くアートマンであり、真実の自己/真我=唯一なる自己) →「一切」(現象界)においては確認できない存在であるが、ただし「無い」といっているのではなく、 仏陀はその存在の有無については説かない姿勢の「無記」の態度を採った。 尚、仏教においても、“真実の自己を目指そう”とか、“本来の自己は清浄である”といういい方がされることがある。 >>629 以前マツクイムシの被害木処理からパルプの伐採に移って計三年程やってました 今は庭木の伐採すら怖くて出来ませんが 仕事中に毒蛇とか見つけると殺したりしてました… 今では殺虫スプレーでも気が咎めながらです 虫一匹でも気分はよくないですね >>630 林業だけじゃなく狩猟も土木も漁業も生き物の命を奪う仕事は従事者も死の影がついて回りますからね だからといってジャイナ教みたいに極度の不殺生を貫く訳にも行かないし やはり何らかの祈りは必要でしょうね >>640 私も、ミニブルで伐採木を引っ張っていく作業やりましたね。 運転手もやって何度、崖から転落の危機に襲われたことか...w >>641 >真言宗は念珠の首掛け厳禁ですよ… はい、私は真言信者ですから知っています。 もちろん、その意味についてもよーく分かっています。 ルドラクシャ・ビーズというのは確かに首に掛けるものなのですが、 当然、これはまったく仏教数珠ではないので仏教作法には縛られる必要もないのですけれど、 しかし、それでも仏教寺院内では余計な誤解を招くだけなので、見えるような首掛けは当然ダメですよね! なので使用する場合には外からは絶対に見えないようにすることが注意事項となります(元々、これは肌身に付けるべきもの)。 まっ、私の場合には首に何か掛けていると“首が凝る”ので(笑)、普段は自宅での勤行と瞑想持のみに使用していますが。 >>624 いやいや. 「断滅論」で「邪見」のあなたこそが真っ先に門前払いでしょ! “鏡”はあるのか? >>646 ブルもユンボも入れない険しい地形が殆どの地域なので索道を造って集材機で運搬が殆どでした 半径500mぐらいの山谷が丸裸になってくのは圧巻でしたけど どれだけの命を奪ったかと考えるといたたまれなくなります >>644 そうでしたかぁ〜了解! 私もなるべく殺生はしないようにはしています。 家に入り込んだ虫もすべてそのまま外に逃がしています。 でも生き物(魚や小エビ)を飼っているので、たまに自分の失敗で死んだのかな? ということも起こりますしm(__)m あと、蚊に喰われたときとかは「アーー!!」と叫んで“パチン”とやりますし、コバエホイホイも常時置いていますよw 私は絶対に虫も殺さない聖者にはとてもなれないですよぉ。 >>645 はい、ですよね... ジャイナの極端はブッダも否定されたので、 人間として生きる上での止む得ぬ業だとして受け止め、とにかく祈ったり供養しながらしかないでしょう。 林業や殺生の仕事の人には感謝しつつも自分自身は絶対に就きたくはないです (ミンク毛皮の惨たらしい工場内を見学したこともある)。 あと自分は、“完全菜食の実践”にもいずれ再び入りたいとは思っています(若い頃に4-5年実践済です)。 >>634 >>583 に、「個別化しない」、「進化のドアは閉ざされ」てる旨あるから、単なるシステム、 つまり、スタンドアローンのパソコンに繋がれた無数の端末に過ぎない訳だろ? 「進化のドアは閉ざされ」てるのに「個性はある」ってのは、単に端末の性能差だろ? で瞋痴呆的な目的は「輪廻からの脱却」なんだから、 そんな単なる現象としての個性に対応するなんてのは、感傷でしかないぞ? 科学が「アホ」としてるが、おまえの話より、進化する分だけ可能性を認めてるぞ? 相変わらず、お前の話は全く判らん。(笑) >>636 全く、とんでもないゲス野郎だな、承狂って奴は。(笑) そんな奴とは係わらずに、釈尊をも越えるという瞋痴呆の真理を広めなきゃあダメだよ。(笑) (^。^)俺も、話が判らないような奴とは係わらないようにしてるぜ!(笑) まぁ、嘘ですが。(笑) >>647 それは自分などはとても比較にならない険しさですね。 何県? 長野とか? >どれだけの命を奪ったかと考えるといたたまれなくなります はい。とてもよく分かります。 私、若い頃に動物を虐待で殺してしまったことがあり、今はとても後悔しています。 今でも何度も思い出してしまう。若かったとはいえ本当に酷いことをしました。 その分の報いは避けられないものと覚悟はしています。トホホ その分じゃないけれど動物を可愛がりたい想いです。 私は不動尊信者で自宅にてお祀りしてるのですが、 今度、そのうち馬頭観音(馬頭明王)にも参拝にいってみたいと思います。 ネットで見つけた情報によれば、 ---伐採作業の前に樹木の木霊を抜くための伐木撥遣(木霊抜き)の作法を行い、木霊を撥遣供養するとのこと--- なるほど... >>648 完全菜食は歯をやられるから気をつけて 私はまだどうやって貪りと怒りを解消するかで躓く日々です 酒量も大分減ったけど まだ時々飲んでしまうし 十善戒処か五戒すら難しいです >>650 九州です 長野や山梨も険しいですね 此方は斜面だらけの上に曲がりくねった木が多いので倒れる方向を間違えると直ぐにチェーンソーが挟まれます 笑 >>651 歯が? ホントですか? それはカルシウム摂取の問題なのかな... そういわれれば確かに不足はするのかなぁ... お酒は親睦付合いのために職場の飲み会では飲みます(ビールを2-3杯)。 そして普段は、妻との晩酌で週に1回程度をビールやワインやカクテル缶を1-2杯を頂いています。 もちろん、大いに飲めということではありませんけれど... 元々の、仏教の不飲酒戒の起源は、莎伽陀(しゃがた/サーガタ)という出家僧が 信者から酒を振舞われて泥酔して大醜態を晒したためにブッダが激怒されたことに始まりました。 なので、飲酒の禁止は出家僧に対してのものであり、 在家については元々、禁止ではなくて「飲まないほうが良い」程度のものと私は理解します。 以前、僧侶もかなりの割合で飲んでいることを知り、ショックを受けたことがありますw >>652 了解しました^^ >>653 私も過去に七年ぐらい肉魚を一切採らずに過ごしてて歯がすっかり悪くなりましたから… 密教に歯痛呪が無いのは効かないからかも知れませんね 蝋燭の溶けた蝋が神仏の形になったりする事は有っても溶けた歯が再生する様な話は無いから その辺が真言の限界なのかも >>633 すまんねえw 宝珠・紐の言いように対してはどうしてもセブンの肩持ちたくなったりするから 「七狂」とでも名乗るべきか(羽柴秀吉みたいなw >>639 だから、仏教的な輪廻をどーの言うのなら、 畜生界や地獄界とも行き来があること前提にしろって 仏教的には、神智学が「個別の魂はない」と見下しているその辺の虫ケラだって、あんたの先祖である可能性があると見る 先祖供養どころの騒ぎじゃないね セブンに罪障ガーって霊感商法よろしく脅しかけてるどころじゃないね 俺は別に「仏教の修辞に従って」輪廻を語ることに禁忌はないんで、議論をもちこむなら仏教純正品の輪廻を持ってきな 偽物・紛い物・捏造品は地面師詐欺 増支部経典八集>第四 布施品 「 第十 悪行の異熟 40.比丘たちよ、生き物を殺すことを習い修習し多く為せば、地獄に転じ、畜生胎に転じ、餓鬼境に転じる。一切が軽いものであるならば生き物を殺すことの報いは、人としては寿命を少なくすることに転じる。 比丘たちよ、与えられていないものを取ることを習い修習し多く為せば、地獄に転じ、畜生胎に転じ、餓鬼境に転じる。一切が軽いものであるならば与えられていないものを取ることの報いは、人としては財産を損失することに転じる。 比丘たちよ、欲における邪行を習い修習し多く為せば、地獄に転じ、畜生胎に転じ、餓鬼境に転じる。一切が軽いものであるならば欲における邪行の報いは、人としては相手の怨みに転じる。 比丘たちよ、嘘を言うことを習い修習し多く為せば、地獄に転じ、畜生胎に転じ、餓鬼境に転じる。一切が軽いものであるならば嘘を言うことの報いは、人としては事実でないことを言われることに転じる。 比丘たちよ、分裂させることを言うことを習い修習し多く為せば、地獄に転じ、畜生胎に転じ、餓鬼境に転じる。一切が軽いものであるならば分裂させることを言うことの報いは、人としては友人を破られることに転じる。 比丘たちよ、不快なことを言うことを習い修習し多く為せば、地獄に転じ、畜生胎に転じ、餓鬼境に転じる。一切が軽いものであるならば不快なことを言うことの報いは、人としては意にかなわない声を聞くことに転じる。 比丘たちよ、気に触る駄弁を習い修習し多く為せば、地獄に転じ、畜生胎に転じ、餓鬼境に転じる。一切が軽いものであるならば気に触る駄弁は、人としては取るべきでないことを言われることに転じる。 比丘たちよ、穀酒・果実酒(木酒・花酒)を飲むことを習い修習し多く為せば、地獄に転じ、畜生胎に転じ、餓鬼境に転じる。一切が軽いものであるならば穀酒・果実酒を飲むことの報いは、人としては酔うこと(あるいは癡狂)に転じる。(了)」 『南伝大蔵経21 増支部経典5』大蔵出版 P139-140 に相当 ちなみに先祖供養は元々のブッダの説法では餓鬼界に転じた先祖の供養 >>653 >飲酒の禁止は出家僧に対してのものであり、 > 在家については元々、禁止ではなくて「飲まないほうが良い」程度のものと私は理解します。 五戒と律の違いすら弁えていないエキノコックス持ちの尻尾が丸見えw スッタニパータ ダンミカ 393 次に在家の者の行うつとめを汝らに語ろう。このように実行する人し善い<教えを聞く人>(仏弟子)である。純然たる出家修行者に関する規定は、所有のわずらいある人(在家者)がこれを達成するのは実に容易ではない。 394 生きものを(みずから)殺してはならぬ。また(他人をして)殺さしめてはならぬ。また他の人々が殺害するのを容認してはならぬ。世の中の強剛な者どもでも、また怯えている者どもでも、すべての生きものに対する暴力を抑えて──。 (略) 398 また飲酒を行ってはならぬ。 この(不飲酒の)教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてもならぬ。他人が酒を飲むのを容認してもならぬ。── これは終に人を狂酔せしめるものであると知って──。 399 けだし諸々の愚者は酔いのために悪事を行い、 また他人の人々をして怠惰ならしめ、(悪事を)なさせる。 この禍いの起るもとを回避せよ。 それは愚人の愛好するところであるが、しかしひちを狂酔せしめ迷わせるものである。 400 (1)生きものを害してはならぬ。(2)与えられないものを取ってはならぬ。(3)嘘をついてはならぬ。(4)酒を飲んではならぬ。(5)婬事たる不浄の行いをやめよ。(6)夜に時ならぬ食事をしてはならぬ。 401 (7)花かざりを着けてはならぬ。芳香を用いてはならぬ。(8)地上に床を敷いて伏すべし。これこそ実に八っの項目より成るウポーサタ(斎戒)であるという。 苦しみを修滅せしめるブッダが宣示したもうたものである。 (略) 404 正しい法(に従って得た)財を以て母と父とを養え。正しい商売を行え。つとめ励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は、(死後に)<みずから光を放つ>という名の神々のもとに赴く。」 >>660 八斎戒で色界第2天に行けちゃうんだね 神智学のサナンクマーラでも梵天(色界第1天)なのに もちろん神智学のは弥勒同様、偽者の嫌疑アリアリだけどねw >>654 エエッ...そうなんですか? 私は、4-5年玄米菜食を敢行して肉魚鳥卵を絶ったのですが、 確かに、今は歯がボロボロでして、現実に上なんかは総入れ歯になりました(笑) 仏教と出逢う前の十代青年期にはシンナーも吸ったりと少し不良化していたので、 自分ではその影響ではないかと思い込んでいましたけど...。 今、ネットで少し見てみましたら、 最新研究では玄米菜食の落とし穴としてカルシウムとミネラルを排出してしまい、血管と筋肉の老化を招くとありました。 まーよくTVなんかの話では、長寿で健康な御老人たちは皆、肉を凄くよく食べてるようですが。 食べ物の事は本当によく分からない...。 >>656 すでに述べたように、 仏典における輪廻転生の話については七セブンとはとっくに議論を終えています。 尚、いっておきますが、 私は現存する伝統仏教各派すべてにおいて、ブッダの説いた純粋で正しい教えは“消滅して存在していない”ものと見ています。 それが、私が仏教を最高のものとする見方を辞めた決定的理由です。つまり、現存する“仏教はブッダの教えそのものではない”ということ。 その理由により、私個人の学びの中心は「仏教」→「ヒンドゥー」→「神智学」へと移行していったのです。 要するに、私個人の評価としては一位が神智学で、二位がヒンドゥー、 そして、仏教はその次の第三位となります(総じて聖職者と信者のレベルは更に低い)。 何故ならば、現存する伝統仏教は仏典に忠実でないことに加えて、更に言えば、その仏典そのもの自体がすでに変色している。 私個人は仏典の記述のすべてをブッダの正しい教えとしてはみていないし、真理ともみていません。 輪廻の内容についても然りです。ただし、仏教徒たちが伝統仏教の説く内容の輪廻を信じることについては別に構いません。 そのことでは特に害悪もないでしょうから、だから、どうぞ好きにすればそれでいいのです。重要なことは業報と転生を認めるかどうかです。 しかし、すみませんがこの私は“迷信は嫌い”なものでして、自分は“より真実を求めている”のでそれについては失礼させてもらう。 何故ならば、それが“ブッダの精神”だと思いますのでね。 >>659-660 >エキノコックス はいはい、 だいたい議論の中身ではとても構わないと察した者が始めるのが、 これらの相手を罵倒する呼称の連呼なんだな! 昔、「アリンコノウミソ」...とかの連呼を始めた基地外もいた。 所詮は、あなたも同レベルなのだなっと理解する。 だから、 不飲酒戒の起源を説明した通り、それは元々は「酒」そのものが悪いのではなくて、 酒に飲まれて醜態を晒す者が出たから叱られたというのが始まりだ。 だから、節度ある飲み方であれば本来的には何も問題とはならなかったものだ。 出家者と僧侶は禁止事項として守るべきかと思うけれども、在家についいてはそうは思わない。 まっ、在家もダメだとするのが仏教なんだというならば、どうぞお好きに断酒をして下さいな! この私は仏教徒ではないし、断酒よりももっと重視すべき事柄はいくらでもあるから。 >>661 >神智学のサナンクマーラでも梵天(色界第1天)なのに おい.勝手に決めるな!(怒) まず、「梵天」を下位に見なすのが後代の仏教徒らによる策略だ!! 意図的に、バラモン教を仏教の下位にしようとする作戦そのもの。 「梵天勧請」の逸話そのものが神格化であり、その策略だからね。 >>588 承狂 はい。 もちろん私もダライ・ラマが“観世音菩薩の化身”として崇められていることはよく知っています。 けれども、私は法王猊下を最高レベルの方として尊敬はしていますが、 だからといって言われる通りに観世音菩薩の化身とは見ていません。 ここでいう観世音菩薩とは、単に菩薩道の修行者などといった意味合いではなくて、 密教的に見るならば、これは大日如来が衆生を救済する変化身の一つなのだということになる。 チベットにおける大衆の尊敬を一心に集めた想いが、 この衆生を教え導くために様々な姿をとる観世音菩薩の化身なんだというものとなった。 つまりは、これも神格化だということになる。私は、神格化(迷信)というものは信じません。 あくまでも猊下も普通の人間であって、そして、幾段階かのイニシエートとして見ているのです。 神智学では、3.0段階を超えた高位のイニシエートの場合には、 自分である程度の転生先を選択できるようになると言われています。 また、チベットの密教にはそのような秘法もあるのでしょう(ポアの秘法もあるのだから)。 なので、特定の高位のラマならば本当にそれができるのではないかと思います。 >>250 一応、ザッと確認してみると、 この経文のタイトルそのものが『araham. (アラハン) / 敬わるべき人』であり、 「真人」というのは、中村氏によるarahamの意訳だということ。 そして、中村氏はこの「真人」という訳をとても気に入っているとみえて、 パーリ涅槃経『大パリニッバーナ』の翻訳においても随所で多用していることがわかります。 では、この「真人」が中村氏による独創的な意訳なのかというとそうではなくて、 これは元々、『arhat(アルハット)』の漢訳として使われてきた用語なのであり、 それは中国道教における“悟りを開いた不老不死の仙人”という意味合いの言葉だということ。 ブッダは弟子たちに対して、“真実の自己を求めよ”と説いたのであるから、 最初期の教団ではブッダと同義の言葉としての「araham」(真人)が、その真実の自己の実現者であって間違いがないものと思います。 『ブッダ神々との対話』(岩波文庫)の訳注p248では、ズバリこう記されています。 『『わたしが語る』と言っても良い---これは我(アートマン)が存在すると主張する議論である。『雑阿含経』には「何言説有我」。 わがもの---中略---「我所」(『雑阿含経』)・・・表現をしてもよいのである---』 (『ブッダ神々との対話』) >ブッダ御自身が「真人」と呼んで構わないといっているのだから、あなたがこれに異を挟む何ものもないでしょうが! >「真人」とは文字通り“真実の人”であり、“真実の自己”を実現して、自分の「真我」へと到達した者のことです。 >それは“修行完成者”のことだというのだから、つまりは“涅槃に到達した者”、すなわち「如来」と同義だということになる。>>243 参考: 『阿羅漢 梵語アルハット(arhat)の男性・単数・主格、アルハン(arhan)の音写。阿羅訶[呵]あらか・阿盧漢あるかん・羅漢ともいう。 応供おうぐ・応おう・殺賊せつぞく・不生ふしょう・無生むしょう・応真おうしん・真人しんにんなどと漢訳する。』 (WikiArc) 『しん‐じん【真人】 〘名〙 真理を悟った人。神妙の域に達した人。また、世俗を超越した人。中国の老荘思想で道を体得した人。 道教で仙人のこと、また道士の尊称。』 (精選版 日本国語大辞典の解説) 『老荘の伝統では,「聖人」よりむしろ「仙人」を理想の姿とする。仙とは長生ないし不老不死の意であり,「真人」とも呼ばれる仏教の文脈で それはアルハトarhat すなわち阿羅漢(羅漢とも)を指す古訳である。阿羅漢を意味する真人は格義〈的〉であると言える。』 (船山 徹著『文化接触としての仏典漢訳―「格義」と「聖」の序論的考察』) https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177242/1/ctz_4_010.pdf >>266 これは無我についての理解のことですが、 2-5chで投稿してくる仏教徒が殆ど皆そうだったものだから、何故、そんなにも偏っているのかと驚かされたということ (この人たちは一体、何を読んできたのだろう?)。それで、ついそのことを評して発露した言葉です。 それと別意で、2-5ch投稿者は輪廻転生信じてない者ばかり、たぶん、仏教徒全体からはごく一部の少数派なのだろうけれど...。 >>267 > 【「本筋から外れて」「神智学のスキームで仏典を読んでいる」】 >という ≪【『事実』】≫ を、 > 「彼は、神智学の文脈で仏典を読んでいる」 と評しただけでしかない いやいや.冗談じゃないね!!! この私はあくまでも、(仏教学的理解を以て)仏典の記述に従ってそのまま素直に沿っているだけ。 極々、一部だけを除いて仏典の記述は殆どそのまま文字通りに受け止めてその通りに理解してる。 もしも、もっと異なった神智学的視点の場合には必ずそのことを述べている。 あなた方のこそ、いやテーラワーダを始め伝統仏教の信奉者たちこそが、仏典の記述を無視して従っていないからね。 また、追々そのことを繰り返し、何度でも指摘させて頂くから!! >>268 >どれだけ探しても(瞑想で深層に潜ったとしても)見つからないから、 > 「我(アートマン)」はある、と言わなかった。 >これに尽きるはずなんだがね・・。 涅槃においてすべての自己が消滅しているわけではないことは『ウダーナ』にも明白なこと。 そこには涅槃を涅槃であるとして自覚している自己があり、それが煩悩の無い本来の自己であり、真実の自己の状態なのだ。 それは当然、“アートマンということになる”のだけれども、 ただブッダは、間違いだらけのバラモンたちと自分の教えが同一視されてしまって、 いずれ自分の教えがその中へと埋もれて時と共に消滅することを避けるべく、 敢えてアートマンがあることについては明らかにしなかっただけだ。 それが“無記”の態度というものです。 何故なら、もしも、本当に何も無かったのならば、 そんなもの無いものはどうしようもないわけだから、そのまま素直に「無い」という以外にはないからだ。 しかし、「無い」などとはブッダは一言も発しなかった。ただ、「在る」とは言いたくなかっただけのことだから。 「そのブッダの御心をちゃんと感じ取れっ!」てことをこの私はいってるわけ。 >それが、様々な五蘊仮和合自己の行動を制御し抑制し、善なる方向へ誘導するものなれば、 その本質が「善」そのものだからですよ。 そして、真我とのコンタクトによってその性質が露わになってくるのは当然のこと。 通常は、こちら側(五蘊仮和合自己)からの意識的な刺激が必要であり、そうして真我とのバンプが太くなっていく。 が、瞑想と善行の実践によって、今度は真我の方からこちら側を刺激してくるようになってくる。 神が物質を創造したといわれるが如く、真我が五蘊仮和合自己に作用するようになることに何も矛盾はない。 >宝珠の言う「真我」は、実は梵我一如のブラフマンアートマンですらない。 >個個人それぞれの「自己」なれば、それは全体ではない。梵になりきれていない。 個々の自己であり、そして尚且つ、それは全体の部分として同一なる性質でもある。 というのがヒンドゥーの説くところですよ。私は何も間違ってなどいないから。 ちゃんと自分で勉強することです。 >>271 >つか、それも遥か昔に指摘済みだったかもw >>神智学は西洋的(≒人間頂点の階級的世界観)と。 では、ショウガナイ。 まだ分からないようだから単純明確に教えておきます。 生物学的にみて人類が生命進化の頂点にあるという科学的事実は、別に神智学の説くところと何ら変わらない。 唯一の違いは、科学というのは未熟かつ、アプローチの視点が異なるが故に霊的視点がないということ。 では、仏教ではこのことをどういっているのかというと、 成仏できるのは人間だけであってその他の生命にはできないこと(これは仏性があるのは人間だけという意味ではない)。 であるから、自分が人間として生れてきた今の生が如何に奇跡的で有難いことであるかということをよくよく理解し、 この希なる機会を決して無駄にすることのないように、しっかりとこの仏縁を深めて教えを学びましょう! といっているわけです。それが欠かさず日々の勤行の始まりで御唱えする『開経偈』というものでしょう。 その教えの趣旨というのは、大乗だろうとテーラワーダだろうとまったく同じことだ。 人間でなければ、書物を読んだリ、仏教の話を聞いて理解することができない。 唯一、それは人間だけに可能なことであり、生物界の最高位にあるからこそできることです。 そんなのは当り前の話だ!! ただ中には、 生命の尊さはすべて(どの生き物でも)等しいのだといって、 「野菜を釜茹でにするのも生きた人間をそのまま釜茹でして惨殺するのも同じことだ。 だから、どちらか一方だけを助けられる際にもまったく選びようがない」 などとホザク呆れた基地外がいるからいったまでのことだ!! 生命の尊さと平等とやらをただ上っ面だけで述べている奴のことをこの私はいってる。 『無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇 我今見聞得受持 願解如来真実義 最高にして深遠な(仏陀が悟られ、説かれた)真理には、 どれほど生まれ変わり死に変わりしても巡り合うことは難しい。 しかし私はいま(仏教に)出会ってその教えに触れることが出来た。 願わくは仏陀の説かれた真理を体得せん』 http://www.horakuji.com/BuddhaSasana/Vajrayana/zaike/kaikyoge.htm >>461 「永遠の「生」」などという表現は誤解を生じる恐れがあるから、この私は使ってないと思うが??? 「生」ではなくて、「意識」ね。つまり、「永遠の「意識」」ということ。そして当然、それは自己意識のことだ。「生」というのと、 肉体的生存と受け取られかねないから。勘違いして欲しくないのは、目指すところの完成者というものは肉体上の不老不死という ことではないからね。 そして、仏教でいう所謂、消滅する自己というのは煩悩のこと。それは煩悩を生じている自己のことであり、これを自我と読ん だリ、個我といったりといろいろな呼び方をしている。神智学ではもっと明確な言い方を選んでおり、これを「低我(低級我)」と 呼んでいる。それはまた、単純に煩悩の消滅のことだとも一般的には表現する。無くなるのはコレ(低級我=煩悩)のことだ! >その説かれなかった部分を、西洋的人間至上主義で構築してるのが、宝珠神智学、とw 確かに、神智学は近代西洋の世界へともたらされたものです。それは事実。そして、神智学の顕著な特徴でもあることですが、 神智学は密教(一般には理解されにくい内容や知る必要のない事柄が多い)でもあるということ。仏教のヴァジュラヤーナ(金剛大乗) と混同してはいけないので、「秘教」というのが適した言い方ですけれど。また、神智学はヒマラヤの覚者から提供されたものなの で、トランス・ヒマラヤ秘教(または単に「秘教」)というのです。 つまり、ゴータマ仏とは異なる覚者によってこの近代において与えられた新しい教えであるから、当然、仏教では説かれていな かった“新しい教え”の部分がある。なので、別に当時のゴータマが握り拳として隠したということとは意味合いは違います。 ゴータマ仏だって、もしも今日、再び現れたのならば、当時は教えていなかった新しい事柄だって語る筈ですよ。仏典は、“2500年 も古い時代の内容”であり、更にはその後に編纂されたものです。 >「師の握り拳はあった」、そしてそれは「永遠の【生】である」という ≪反縁起≫ としか思えないわけで・・・。 いや、そうではない。 縁起に拠らない世界である涅槃(無為)の境地にある自己も当然、同じく縁起しない。 縁起する有為の自己が、無為で縁起しない涅槃で住するわけがないからね。 それ(この自己)は、「有為」じゃないから! 突然、話題を変更しますが、最近、たまたま再放送で番組に登場した片岡鶴太郎のヨガ・マスターの話をみた。それはイ ンド政府公認の難関、「プロフェッショナルヨガ検定・インストラクター」に合格というもので、そもそものヨーガを始めた キッカケは、世界中の歴史的偉人たちの多くが実は瞑想を実践していたという話を知り、それで自分も瞑想をしたいと思っ たからだという。 そのストイックなまでの溢れる熱意と努力の成果には私も素直に拍手を送りたいが、しかし、非常に残念なのは多くの者 がついやってしまう落とし穴にこの鶴ちゃんもズッポリだということ。 鶴ちゃんの何がダメなのかというと、パタンジャリのヨーガ聖典『ヨーガ・スートラ』をそのまま受け取って、ヨーガ・ スートラの説く解脱への段階としての“八支則”に縛られてしまっていること。 1. ヤマ・禁戒 2.ニヤマ・勧戒 3. アーサナ・体位法 4. プラーナヤーマ・調息 5. プラティヤハーラ・制感 6. ダラーナ・凝念 7. ディヤーナ・静慮 8. サマディー・三昧 八支則においては、瞑想(ダラーナ・ディヤーナ・サマディー)は最終段階とされているために、その前段階の特にハタ・ ヨーガ(アーサナ・プラーナヤーマ)をすべて修得すべく没頭してしまっているのです。 しかし、実際には、ハタ・ヨーガは長時間の瞑想にも耐え得る肉体を創るのがそもそもの目的であって、ハタ・ヨーガを すべてマスターしなければ瞑想はできないという意味ではないにも関わらず、これを誤解している者が殆どなのが実情。つ まり、彼らはハタ・ヨーガ体系すべてを完全マスターしようなどとするから、そのことだけに無駄に全生涯が費やされ、そ れで瞑想の実践が疎かになっているわけです。 ヨガナンダやラーマ・クリシュナといった本物の覚者は、ハタ・ヨーガの徹底指導などはしない。入門後は、すぐに瞑想 の実践と取り組みについて指導する。 このことと同じような理由によって、私個人は好きで真言密教を信仰しているけれども、しかし元々、真言密教の奥義の すべてを修得したいなどとは思ったことがない。 確かに密教というのは色々と役には立つが、しかし、これも単なる利用道具の一つであり、その部分でしかない。密教で なければ解脱できないというものではなく、そのすべての修得が不可避なわけでもない。 その視点から見ると、無用な知識があまりにも膨大なのが密教の世界だ。ただし、プロの僧侶というのは一定基準の内容 を修得する必要があるし、そして、真言僧としての勤めと日課に追われる日々を過ごすこととなる。特に縛りを嫌うこの私 には、まったく僧侶に成りたいという考えはない。 もしも、特定の伝統宗派の僧侶となってしまうと、もう好き勝手なことは許されなくなるからだ。 *次に、お盆だったからというわけでもないのだけれども、 「供養」(ここでは先祖供養/死者供養の意)については、 ブッダも明確に“ (行うよう)説かれた”ということについて投稿しようかと思います。 確かに、このことが七の指摘したように、原始経典についての情報が普及してきたことによる誤解として、 その弊害の大きな部分だとしてこの私も思っているので...。 >>655 一応言っとくが、俺と七氏とは立場も仏教観も結構違うからな。 宝珠が、天文学的レベルで明後日の方に居るから相対的に近く見えるだけで。(笑) ついでに言うと、密教の立場でもない。 単に知ってるから明らかな間違いを指摘してるだけで。 だから質問とかすんなよ。(笑) (^。^)あと、今まで、ハゲ相手にも結構な暴言書いてるんだがね。(笑) 何故かバカには見えないらしい。(笑) >>665 「観音の化身ではない」➡「だから転生」 これが瞋痴の迷信を信じるということだよ。(笑) 絶対に個人主体は転生するという迷信を知らなければ、オカルティストとしては 「観音と詐称してる何かが毎回取り憑いてる」 となる。 論理的根拠もなく、「そう言われてるから間違いない」と信じるのを「迷信」と言うんだよ。(笑) 因みに、「論理的」とは、「余計な設定をつけて検証出来てないのに出来たと言い張る」事ではありませんので。(笑) (^。^)あと、科学よりも生命の尊厳を踏みにじるお前が「生命の尊さ」とか、何の冗談だよ。(笑) >>675 承狂 観音による化身の話はチベットの民たちの信仰であり、ただ私は認めていないということ。 しかし、“「転生」現象”というのは、ブッダが説いたものであり、尚且つ、“実際上の事実”です。 これは科学者による検証データによっても明らかなものであって、まったく迷信などではない。 業報理論と転生は論理的に整合性が取れている話であって、逆にこれを否定することが非論理的な話だ。 何故、物質(生命)に意識が生じるのか? 今生のみに限った生存というみことの方が実に不自然。 縁起の理解から見ても、今生が生じた因果というのは前世があったからであって、 そして、また来世があるものと見なすことこそ自然の理です。 迷信ではない事実に対して、勝手に迷信のレッテルを貼る姿勢こそが無知による決め付けの妄想だ! ヴァージニア大学のイアン・スティーヴンソン教授による研究というものがある。 当然、情報データからはノイズとして処理できる疑わしいものについてはすべて排除していくのだけれど、 それでも転生を認める以外にはどうしても説明のつかない事例が残る...。 こうして転生の事実として確認された本物の事例は、すでに2300件を超えている。 もちろん、ダライ・ラマの件についても素晴らしい検証事実です。 尚、前世では動物や虫ケラだったといいう記憶が出てきたなどという検証事実はまったく皆無であり、 その事例は一つも報告がありません。あしからず...。 *私は、以下に上げるサイトページには、すべて目を通されることをお薦めします。 ブッダの教えを舐めない方がいいよ!!(凡人と一緒にしないことだ) http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/reincarnation/ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%B3 http://umarekawari.org/gakusha/index05.html http://www.kisc.meiji.ac.jp/ ~metapsi/psi/7-3.htm http://karapaia.com/archives/52183980.html >(^。^)あと、科学よりも生命の尊厳を踏みにじるお前が「生命の尊さ」とか、何の冗談だよ。(笑) 意味不明。 動物たちにも「魂」はある。別に命の尊さを軽視してわけではない。 ただし、人間ほど進化したものではないという歴然たる事実があるだけのことだ。 あなたの反応をみて明らかなように... だから、“まだ心の準備のできてない者”が知る必要はないんだ、ということになる。 それ故に、これは「秘教」なのだということだ。 なので〜安心して欲しい/認める必要は全然ないからね! 尚、科学サイエンスでは、動物はすべて本能で反応しているだけであり、 その体はDNAの乗り物でしかないというのが主流ですねw 人間もそうだけど精神活動があってもすべてはニューロン電気信号の反応でしかない。 もちろん、魂のようなものは認めていない。 676.輪廻転生は科学の問題である。 それは宗教の問題ではない。 バカには理解できない。 大爆笑である。 >>678 だから、 「科学者」が研究して事実と認定しているといってる。 あなたは何処を読んでる? ただし、 誰が何処から何処へと転生していくのかを予測したり、 前世の状態そのものを見ることはブッダのような完成者にしかできない。科学の力では不可能だ!! そのブッダのような存在になる方法を具体的に知っているのは「宗教」だけだ! ただの煽りなら要らないから、どっか行きな! >>664 架空のヒランヤの大使とか何とかいう妄想のコンコンチキの化けたもの信じて余すところのない人がよく言うねw >>663 > しかし、すみませんがこの私は“迷信は嫌い”なものでして、 迷信の権化のように他の人たちの目には映っていると思うんだけどw まずヒランヤの大使ってどうなんよ? 電波以外に誰が会ったことあるわけ? 手品おばさんの取り出した手紙の主だろwww >>675 了解 まあ、儒教に対する姿勢の違いなど、 承狂さんが東洋思想軸なのは何となく把握 いやいや、何の縁かタイミングが知らないけど 八斎戒と第2禅定地が関連するとは 尋伺を無くしたいというニーズが個人的に生じてきたタイミングなんだよね そうしないと試験の解答時間が足らない気がする >>681 あのね.「ヒマラヤ」ね! ハイアラキーの覚者方には、こちらからは会おうとして逢えるものではない。 覚者方の側からそのような意図が生じない限りは無理なことです。 尚、すでに降臨されているハイアラキーの首長Maitreyaは大勢の人々とも対面しており、 この私も一度だけお会いしています。会話をして、そのお体にも触れています。 また、もちろん創立当時の神智学協会の主要メンバーの何人かはMaitreyaの弟子である覚者方と直接対面してます。 それから一般的に歴史上においてもその存在の公的な記録が確認されているのは 唯一、サンジェルマン伯爵(現在のラコーシ覚者)です。 それから、本物のマハトマ・レター(覚者からテレポーテーションで届いた直筆の手紙)は、 今でも大英博物館に保管されています。 Maitreya & Miracle water(94年頃放映/日本テレビ『スーパーテレビ』) http://www.youtube.com/watch?v=ajp5p0b0-6E シリア騒乱の中で“白い天使”の出現としてメディアに現地報道された傷ついた人を助け出すMaitreyaの姿 https://www.youtube.com/watch?v=sSGVtJOeXAo Maitreya出現の徴(光の十字架、光のサークル) https://www.youtube.com/watch?v=xwX-K9iCIew (東京都ひばりが丘/西友ストア) https://uni.5ch.net/test/read.cgi/psy/1387571518/791 (札幌/東急百貨店、大阪/阪急電鉄本社ビル) 神智学協会初期当時のモリヤ覚者の目撃談(『神智学の五年間』より) http://mimizun.com/log/2ch/psy/1239017285/662-663 サンジェルマン伯爵について https://www.youtube.com/watch?v=Sc8ZYRBPvs0 時空を超えた超人サン・ジェルマン伯爵の謎 http://inri.client.jp/hexagon/floorB1F_hsg/_st_germain.html クートフーミ覚者肖像画 http://lh5.ggpht.com/_MkRWi4hHTPg/TOaJ-aNZOmI/AAAAAAAAAsc/qQrtfwmJ2ik/kuthumi02.jpg モリヤ覚者肖像画 http://iihatobu.com/work/contents/morya1.jpg >>662 完全菜食 野菜と魚だけ 肉食も含めた雑食で比較すると野菜と魚が一番長生き出来る様です 肉を食べる場合は煮沸して油抜きを徹底した方が身体には良いみたいですよ ここは・・・・・ >>684 小学生が多数目撃した口裂け女、人面犬と同類じゃんw その判断能力で仏典の真偽を判断されてもねえ…… UFO妄想と同次元で宗教存在の有無を主張しちゃってるんだしw >>684 > Maitreyaは大勢の人々とも対面しており、 > この私も一度だけお会いしています。会話をして、そのお体にも触れています。 あかんわ 完全にマーラの幻術にやられてるわwww とりあえず、「もし」だけど俺が初禅地に入ったら、サナンクマーラに、 俺の宝珠さんに対する神智学詐欺説を含めた態度に問題があって、 正す必要があるなら、コンタクトとってくるだろうし、こちらとしてもコンタクトとってきてもらって構わないし、 そうじゃないってことは、そうじゃないってことなんだろう むしろサナンクマーラの名を騙る詐欺をやめさせるようにってコンタクト取ってくる可能性だってあるしね 同じ事は弥勒菩薩についても言えるんだけど、どうやったら兜率天禅定に入れるのか、よくわかんないんだけどw あ、弥勒菩薩に関しては、神智学と同じこと、無着がやらかしてたっけ? ただ、トゥシタ天の名を冠したエスニックレストランには毎週のように行ってたわw ということはそこで潜在意識では弥勒菩薩からのメッセージを受け取っているのかもしれないが、俺の如きに分かろうはずもないのだろう ただ、神智学詐欺に対する強い反感は確実にある 「アーナンダよ、過去の時において、清浄であって最高にして無上な空性に達して住していた沙門やバラモンたちは、みなすべて、まさしく、清浄であって最高にして無上な空性に達して住していたのである。 アーナンダよ、未来の時において、清浄であって最高にして無上な空性に達して住しているだろう沙門やバラモンたちは、みなすべて、まさしく、清浄であって最高にして無上な空性に達して住しているだろう。 アーナンダよ、今現在、清浄であって最高にして無上な空性に達して住している沙門やバラモンたちは、みなすべて、まさしく、清浄であって最高にして無上な空性に達して住しているのである。 それ故に、アーナンダよ、ここにおいて<清浄であって最高にして無上な空性に達して、わたしは住しようと、このように、アーナンダよ、学習すべきである。」 (『マッジマ・ニカーヤ』第121経 空小経) さて、 ちょっと角度を変えて煽ってみよう。 もし、仏陀が、 従前の狭いアートマン(我、真我)との混同を怖れ、『在世中』は、明言しなかった という言い方を受用し、また、「師の握り拳はない」という台詞も受容するなら、 【仏陀の到達点が、そのレベルだった】という発想を、なぜ、考慮できないのか? >>宝珠 ヒンドゥでも神智学でもどっちでもいいがw そこで言われる「階層」や「悟り(覚醒・成長)の段階」或いは「真のゴール」という視点で見た時、 『ゴータマシッダッタは、途中までだった』 と、なぜ言わないのか? 憲法9条と自衛隊等と同じく、【読み方、解釈の上で、ゴータマ仏陀は神智学的ゴールを説いていた】 と見做しているだけで、実際の文言はそうではない。 読み解き方の相違であることは、お互い様。(上の阿羅漢=真人とかw 心性本浄とかウダーナとかw) 宝珠自身、「違う」ということ、そして「在世時は積極的に説かなかった」というスタンスなわけで、 だったら、神智学の階層の中で、仏陀を、途中の、途上にある者と位置付ければ済むのに、 なぜ、そうではなく、(当時ははっきり言わなかったけど説いていたなどとw)ややこしいことを言わねばならんのか? 現に、ヒンドゥ世界では、仏陀はその他大勢の神や化身と同レベルなわけでね・・。 なぜ、 『わざわざ、「ゴールまでたどり着いていた」ということにしなきゃならんのか』と。 仏教(仏陀の教え)と神智学は違う、仏陀は、いいところまで来てたけど、あと一歩だった で、なぜいけないのか? という話。 だから、 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も 言ってるけど、 違うものは違う、で済む話なのに、なぜ、「同じ」であるとしなければならないかが、 やっぱり理解できない・・。 改めてまとめ。 「ブッダは、神智学の悟りの階層の中では、ゴールまで達していない」 この文章で、これまで十数年の議論は一瞬にして片が付くwww 仏教と神智学が同じである必要は全く無く、 仏教は仏教の世界観と価値観の中で、 ちゃんと、安心(あんじん)と平穏を提供「してきた」し、また、この先も提供し続けうるのさ。 *(上記「してきた」は重要。 神智学が知られてなくとも、仏教は、信じ行じられてきたのだから。) (^。^)なんか、ほんとにコテ付けてくれてて、ありがとさんでござんした。(笑) >>676 その偉大な科学者先生の名前でググれば、 前世が動物のケースも検証してる と書いてる記事が出てくるし、 そもそもデータの検証をしただけで、 「私の解釈は重要ではない」としてるらしいが? 宝珠の書き方は、正に「余計な設定をつけて検証できないのに検証出来ました」とミスリードしてるだけなんだが、 きっと理解出来ないんだろうなぁ。 >>677 も>>649 で何を指摘されたか全く理解出来てないし。 真面目な話、一度マトモなカウンセラーとよく話し合った方がいいよ。 反応が、まるで洗脳されたカルト信者みたいだ。 なぜ、694のような謂いを思いつくかと言えば、 漱石さんのことがあるからで、 漱石は、(「即天去私」という語があったり、20代の参禅経験があるように) 「ファンの間では、相当な境地にあったと思いたい」ベクトルがあるわけで、 かといって、禅者からすれば、 「(TPOもあるので、悪し様には言わないがw)、所詮処世訓レベル、良くて熱心な信者レベル」という評価なわけでさ。 >>696 今調べてみたけど、 仏陀はつい最近、1956年にブッダレベル(レベル8)から梵天サナンクマーラと同じ神レベル(レベル9)にレベルアップしたらしいw そして…… レベル数百〜数千クラスがこの銀河にいるらしいよwww マーラの幻術にやられとるw なんというドラゴンボールw ああ、ジャンプの世界観って世界共通かも。 自分らを虐げる(排しようとする)敵がいて、 けど、方向性の類似に気付いて意気投合して仲間になって、 互いに高め合うけど、最後の最後は、 宿命とか生まれ持った才能とかetc.で、北斗宗家だったりサイヤ人のエリートだったり、 定められた者が定められた役割で定められた方法で定められた(≒望まれる)解決策を実行する、と。 ナルトはどうだったっけか・・・。 いずれにしても、 (実は大乗仏教もその色合いはあるが)「ロープレ化」こそが宗教の劣化であり、 また、リトマス試験紙かもな・・と。 Khattiyo settho jane tasmim ye gottapatisārino Vijjācaranasampanno so settho devamānuse. これぞ大梵天サナンクマーラの真言 神智学徒、彼らはあまりにも大梵天を誹謗し、妄語し、多くの不徳を生んでいるのです >>702 これが大梵天さんの俺に対する返答ということだね ものすごいパワー溢れる真言 >>685 情報をありがとうございました. ご親切に感謝しますm(__)m >>690 それは“如来”「tathāgata」(ターターギャター)の別称でしょ。尚且つ、それは十語にて限定されてる。 第一、十号にはそもそも「阿羅漢」だって直接は入ってないのだからね。あくまでも阿羅漢は「応供」の“別称”の扱いでしょう。 「真人」は、そのまた更に“阿羅漢”「arhat」(アルハット)の別称なのだから止む得ないのでは? >>688 >UFO妄想 エッ! まだ見てなかったの? いや.ザンネンだね.. ホントあなた方は...。 で、あなたは生きている間に心霊存在とUFOのどっちかくらいは見れますかね(笑) 宇宙に地球人だけという方が不自然で不条理です。 科学的にも確率的に宇宙人の存在は当然と考えられている。あとは彼らとの遭遇の問題...。 しかし実際上、UFOくらいすでに多くの人が目撃してるよ!! これが私の目撃情報です--あいよぉ!! https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1548698413/986-987 >>691 サナット・クマラから直接、何処かの誰かにコンタクトをつけるなどということは在り得ない。 サナット・クマラは世界主にしてワンイニシエーター。サナット・クマラに遭えるのは、 第三段階イニシエーションとそれ以降の高位のイニシエーションのときのみです。 そして尚且つ、通常はその時の記憶は保持することができない。 たかが通常の瞑想レベル程度でこちらから望んでMaitreyaや世界主に会って来るなどできる筈がない。 あなたが第三段階以上、いや第四段階のアルハット位階以上の進化を遂げていなければ、 とても望むような接触などはできない。 >あ、弥勒菩薩に関しては、神智学と同じこと、無着がやらかしてたっけ? それはハイアラキーの首長であるMaitreyaとは別存在であり、普通に実在した僧侶です。 『インドの僧。大乗仏教の学派のひとつ瑜伽行唯識学派の開祖とされる人物[2]。未来仏として信仰される弥勒菩薩と同じ存在 として扱われてきたが、仏教学者の宇井伯寿が1929年に『Maitreya as an Historical Personage』において歴史的人物として扱 う見方を提示した[3]。』(Wiki) >>700 それらはすべてデタラメです。 あなたは、それを何処のサイトで見ました? いっておきますが、 ネット上に溢れているホワイト・ブラザーフットとハイアラキーの覚者方についての情報は その殆どが間違っており、まったく使えませんから。 >>701 冗談じゃない!! “デタラメ”見て反応するのはやめてくれよw >>698 >その偉大な科学者先生の名前でググれば、 >前世が動物のケースも検証してる 了解しました...。 ご指摘ありがとうございました! そのことについてはココに謝罪をしますm(__)m 『「前世」は,非業の死を遂げた人物であることが多く,殺人被害者の場合は,加害者に対して敵意を見せる。 「前世」が,自殺者であることは少ないし,動物であることはほとんどない(少なくとも報告されてない)。』 (生まれ変わり事例の研究) http://www.kisc.meiji.ac.jp/ ~metapsi/psi/7-3.htm ということで、 私は人間⇔動物間(人間以外)での転生についてはかなり懐疑的でしたが、 しかし、そのようなごく稀なレアケースもあるらしいことについては認めることにします。 私は、仏教における六道(本来は修羅のない五道)の“畜生道・畜生界”とは、 まるで人間ではない動物のような扱いを受ける酷い境涯のことなのだと受け止めていました。 つまり、分かり易く極端な事例でいえば、マルタ人体実験とか人身売買や奴隷虐待、人質拷問...等々が上げられますが、 それらが畜生道(畜生界)への転生のことであると。 なので仏典の説く、動物に生まれるという意味での「畜生胎」>>657 の話はすべて、 人を悪事に入らせないための脅し的な方便だととらえていました。そのまま受け取るのは迷信かと...。 しかし、まさか本当に動物の肉体に転生する事例があるとは...かなり驚きました。 でもたぶん、本当にそれは極々稀なレアケースだろうとは思いますが。 >>694-696 いや、意味不明...。 私はブッダが低いなどとはいったことはないし、そして、誰もそう見てない。 低いのは現状の“仏教界の実態”のことですよ。 仏教徒自身が“本来の真実のブッダの教えを見失ってしまった”のです。 だから、仏教徒たちというのはその実際上の歴史において常に、 大衆部及び大乗vs上座部、説一切有部vs諸派、密教vs諸派、中観派vs唯識派、 浄土信仰vs諸派、輪廻否定/断滅論支持派vs伝統諸派...etcと、限りなく果てしなく論争し続けてきたのです。 つまり、何が正しいのかが分からないのです。 まずは、その事実を認めなさいな! 神智学の教えでは、 地球人類から出てきた中での最高度の進化を達成した方がブッダであり、その進化段階は8段階だとされる。 そして、ブッダと一緒に一番最初に地球上でのイニシエーションを受けたのが、ブッダの兄弟であり後継者のMaitreya(7段階)。 そのMaitreyaを頂点とするハイアラキーの覚者方、Maitreyaの直弟子たちがチョハンの6段階。 我々が目指すべきゴールであるニルヴァーナ境地に達した覚者が5段階です。 そして、その手前のアルハット位階の4段階(神智学ではアルハットは覚者ではない)、 サナット・クマラ(この惑星ロゴスの反映であり、人類の魂を吹き込まれた父)から最初に受ける本格的イニシエーションが3段階、 Maitreyaから受ける幼子のイニシエーションが1-2段階です。 そして大体、世界平和を志向したり、瞑想などの実践に取り組みだすような人々というのは殆ど皆、 1段階の前後にいるとされています。 尚、一般大衆が何もそこまで知る必要はまったくない。 ニルヴァーナ涅槃(5段階イニシエート=覚者)を目指すことには何も変わりがない。 >>704 アルハットはもともと「尊敬されるべき人」の意味でその意訳が応供、音写が阿羅漢。 真人という意味ではありません。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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