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『中論』の第18章5偈

業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起る。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起る。しかし戯論は空において滅びる。
(中村元訳)

行為(業)と煩悩が尽きることによって解脱がある。行為と煩悩は分析的思考(分別)による。それら(の分別的思考)は概念化にもとづく。しかしながら概念化は空において抑止される。
(斉藤明訳)

papañcaを中村先生は漢訳に従って戯論と表し斎藤先生はより分かりやすく概念化と訳しています
しかしこの戯論(概念化)に基づいて分別思考が起きるというのは、あくまで大乗仏教の龍樹の説であり、分別思考をする部派仏教のアビダルマ哲学への批判ではないかと思います

一応、部派仏教テーラワーダのスマナサーラも
「非戯論の世界とは、一切の妄想概念から解放された自由の境地、いわゆる涅槃のことです。」
とは言っています
但し勝義諦の他の3つの色、心、心所は非戯論であるとは言ってはいません
ですからテーラワーダにおいて戯論寂滅しているのは勝義諦の中の涅槃に限定されるということです

一方で、戯論(概念化)の対象は施設されたもの、つまり世俗諦であるというのは部派仏教でも大乗仏教でも変わらないようなのがややこしいところです
その世俗諦の施設の内容も部派仏教と大乗仏教では異なります
詳しくは下記のWikipediaを参照してください
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%96%BD%E8%A8%AD_(%E4%BB%8F%E6%95%99%E7%94%A8%E8%AA%9E)

こう考えると
「非戯論の世界とは、一切の妄想概念から解放された自由の境地、いわゆる涅槃のことです。」
というスマナサーラの言も「ん?」と思えてしまうんですねけどね
微妙ですし難しいですね