>>983
ありがとうございます。

> テーラワーダではしっかりと分析して分別した結果、戯論(妄想、言語的概念化)はなくなり智慧が得られるとする立場をとります。

上記についてはそのとおりだと思います。

> テーラワーダにとって勝義諦は無分別ではないですが、戯論寂滅していると言えるかもしれません。

上記については一考の余地があるのではないかと思います。

「分別」と「戯論」の関係を調べる中で、詳しく論じられた下記の資料を見つけました。

https://otani.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&;item_id=887&file_id=22&file_no=1

上記資料の中で、
『龍樹は「分別は戯論より生ずる」と延べ』たとし、
下図のような「真実の世界」から「戯論」を経て「分別」が生じる機序を説明しています。

https://i.imgur.com/1cGTXJJ.jpg

この機序を正しいとすると、
戯論が寂滅していれば、分別も生じないことになり、
テーラワーダにおける勝義諦は「無分別」ということになります。

もしかすると、「分別」の意味の捉え方で見解が分かれるのではないでしょううか。

「分別」を「区別」の意味で捉えると、
テーラワーダにおける勝義諦には色、心所、心、涅槃という区別が
あるため、「分別」しているということになります。

一方、「分別」を上記資料のように『「戯論」によって作り出されることばの世界』の意味で捉えると、
テーラワーダにおける勝義諦では戯論が寂滅しているため、「分別」は生じないことになります。

瑣末な議論を重ねてしまい申し訳ございませんが、
(これこそ「戯論」ですねw)
見解をご教示いただけますと幸いです。