第二章は物質の分別 v i b h ā g aです 。
日本語で 「分別する 」と言うとあまり好ましくないですが 、初期仏教 ・テーラワーダ仏教では 、自分たちのことを分別論者 v i b h a j j a v ā d i nと言います 。

大乗は自分のことを大乗仏教と言いますが 、そのように我々も自分たちのことをテーラワーダ・上座部と言うよりも、もし威張って言うならば、分別論者だと言うのです。

我々は、存在という幻が消えるところまできめ細かく分析するのです 。
物事をそのまま、全体的に、大乗が言うように「すべては 」とか「一切は」などとまとめて説明することはしません。
そんな大雑把でいい加減な説明は、始めからどうせ間違っていますから。

ー略ー

真実を知るためには、分析するしか方法がありません 。
総体的に大雑把にまとめてみても、いい加減なだけで 、何も分かりません。
テーラワーダ仏教の特色は、本当に、とことん分析してみるということです。
その特色だけは守りましょうということで、「 V i b h a j j a v ā d ī B h a g a v ā .世尊は分析論者だ 」と言います。
分析しないでまとめて 、「すべては梵我一如 」などと言えば、それは邪見・邪教です、と簡単に捨ててしまいます 。

森羅万象の中で同じ一つのものはないかと探すのも、またちょっとした心の間違いです。
もし真剣に調べて、分析して、同じ・不変の一つのものを探そうとしたら、見つかるのは「無常」ばかりです。
あるいは今説明した、積集、相続、老性、無常性の四つの共通項目しか、最終的には見つかりません 。
物質をどんなに探しても梵・ブラフマンも我・アートマンも、神も見つかりません 。

byスマナサーラ(ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―第1巻 物質の分析)