【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践17
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
お釈迦さまの教えとサマタ・ヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践16 [転載禁止]
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1551435418/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会や
そこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など
多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違い
もあります。
そこを踏まえてご参加ください。 >>888で
「自分の場合なら
呼吸を1秒も観ることもできないので」
とここに書いたのが発端ということは
1秒も観ることはできないのですね 呼吸を1秒も観ることもできないと言う割には
観れていないという自己判断を全く疑わないという 挨拶しても挨拶を返してくれない人に対して、どう対応したらいいと思う。
無視されても挨拶し続ける?それとも挨拶をやめる?
仏教的にはどうすればいいんだろう ☆
欲望の対処方法(仏教) - 仏教ウェブ入門講座
…
名誉欲とは、ほめられたい、認められたい、
馬鹿にされたくない、という心です。
『 挨拶をして、挨拶が返ってこないだけでムッとします。』
意図的に無視されたり、相手にされないと、
軽んじられている気がして、その人が嫌いになります。
他人が自分のウワサをしていると、
すごく気になります。
ましてやインターネット上の掲示板に
何か悪いことが書き込まれていたら、
大きなショックを受けます。
少しでも認めて欲しい、理解されたいのに、
話を聞いてくれたり、
認めてくれる人はほとんどいないので、苦しみます。
_ _ _
愛別離苦.怨憎会苦.求不得苦.五蘊盛苦 >>903
なにか事情があるのかも知れない、という可能性は? 他人のしたこととしなかったことを見るな
ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ
(ダンマパダ・50) ヴィパッサナー冥想はあらゆる妄想から離れた科学的な冥想と某仏教教団が宣伝しているけどどうだろうか?
ヴィパッサナーで観察するのは光の速さで生滅する色とその17倍の速さで生滅する名(心)だがそんな速さの生滅を観察するのは不可能と思われる
しかしヴィパッサナーの人は出来るという
これは恐らく刹那滅というのが本当にあると妄想しているから実際には観察できないものも観察できてしまうのだろう
刹那滅は部派仏教が心、心所、色(という法)は実在するという理論構築のために生み出された観念と思われる
その観念こそが妄想でありその妄想を信じて実践するのが某仏教教団のヴィパッサナー冥想
観行を説いた大念処経には刹那滅まで観察せよとは説かれていない
また唯識や禅の一部でも刹那滅を支持するがあくまで観念的なもので例えば五重唯識観で名色の刹那滅を観察せよなどとは説かない
某仏教教団は唯識の阿頼耶識は妄想だと言うが同じく彼らが観察している刹那滅も妄想である 妄想するのは自我。
悟りの智慧は無我。
自我が考えた無我についての概念は、妄想。 無常、苦、無我は悟りの智慧なので、自我が考えた概念を当てはめるのは無理だと思う。 ☆
妄想なのか?どうなのか?わからないけど.とりあえず
自由への旅
〜ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図〜
ウ・ジョーティカ(Sayadaw U Jotika)著
魚川祐司訳
…
…生成消滅しているということ
もし消滅しないならば、それは新しくあり得ないからです!
何かがに新しいということは、
つまり、それが生成消滅するということ。
新しいということは、生成消滅することなのです。
_ _ _
基本的には
「仮設としての」という意味で
生成消滅しているらしい
道元禅師の坐禅(刹那生滅)
もし如来の正法眼蔵涅槃妙心(悟りの心)をあきらむるがごときは、
かならずこの刹那生滅の道理を信ずるなり」と説かれています。
即ち道元禅師は刹那生滅を信ずる立場に立たれているということであります。
という感じであるらしい 宗派の違いは人間側の概念、解釈の在り方や言語表現が違うだけで
名色のありようが宗派ごとに違うわけじゃないはず。
人種や宗教宗派の違いに左右されるようなものは、普遍的真理とは言わないし。
唯識だろうとパーリ仏教だろうと、名色のありようは同じ。
説明の仕方が違うだけ。 >>911
智慧を無我というなら妄想も自我も無我でしょうに
妄想も自我も無常、苦、無我
で、智慧を無我としたら無我というのは無常で苦であるものだから智慧による観察も妄想ということになるけどそれでもいいの? >>912
無常、苦、無我が悟りの智慧なのではなくて、
有為なる現象世界は無常、苦、無我であり、それを正しく完成された智慧で観ると、ひとは苦しみから遠ざかり離れるということ >>913
道元のは刹那滅は観念的なものでしょ
まさか身心脱落で刹那滅を観察するわけではないでしょう
道元の観念的なものなのか?どうなのか?わからないけど.とりあえず
[PDF]
svabhāvapratibandha 研究の見取り図
片岡啓
…
…(「仮設としての」という意味において)
…ダルマキールティの存在論は,固定的な実在を拒否するものであり
…ダルマキールティにとっては
刹那滅の存在として,一瞬たりとも実体化を許さない… 仏教教理的には名色と涅槃は勝義諦なので妄想ではないのでは。 >>917
悟りの智慧に達していない自我が、頭で考えた思考概念でもって
智慧から出た言葉を解釈するのは無理、ってことね。 智慧と、智慧についての解釈は別物なので。
例えば経済学者にも、経済学をやってる人と、経済学“について”をやってる人とがいて
前者はおそらく少数派。
仏教も同じで、知識と思考の人がほとんどで、瞑想で智慧に達している人、悟りに達して
いる人は稀。 >>917
智慧、妄想、自我は
いずれも有為なる現象なので、
無常、苦、無我です。
「自我は無我」というと言葉として矛盾している様に聞こえますが、
「あらゆる現象は本来無我だが、無明により自我という妄想が生じる」
と言うことができます。
観察(念、気づき)により無明から抜け出すことにより、自我という妄想が無くなり、
現象のあるがままを見る智慧が生じます。
これがテーラワーダで言う「勝義」です。
下記の図が分かりやすいと思います。
https://mindfulbonpu.web.fc2.com/banner.png ☆
カマラシーラの因果論
人見牧生
…
「結果」に関する規定
「結果」は
原因が生滅した後の刹那に生ずる
…
「特定の原因の後に結果は生ずる」
…
カマラシーラの理解とその典拠
因果論の文脈において「原因は特定の結果を生み出す能力をもつこと」
…
およそ無明を縁として諸行が〔生ずる〕
…
縁起とは「無明などの限定された能力によって因果関係が決定していること」
法の必然性とは「結果は個々に限られた特定の原因との依存関係を保持すること」と定義される
…
「特定の原因があるときに結果が生ずる」
…
「無明があるときに(無明に依存している)諸行が生ずる」
「無明がなければ(無明に依存している)諸行は生じない」
_ _ _
「仮設としての」という意味で
空性であるからこそ
刹那生滅しているからこそ
因縁果報という
変化している.動き.働きが.現れる
という対機説法であるらしい >>921
仏教教理的には→×
テーラワーダ仏教教理的→◯
本来は名色は仮であり識滅すれば名色も滅するはず
識を滅するには行を滅し、行を滅するには無明を滅しなければならないというのが仏教教理
>>922
で、結局智慧は無常苦無我なのですかどうなのですか?
>>911であなたは智慧は無我と書いていますが、智慧はあなたではなくあなたのものでもなくあなたの本体でもない、無常で苦で無我なるもの、でいいのですか?
それとも>>911もその他一連のあなたのレスもあなたの自我が思いついた妄想ですか?
>>923
で、瞑想で智慧に達すると刹那滅が観察できるようになるのかね?
>>924
勝義諦を議論寂滅、無分別としておきながら出世間諦と世間諦に分別している時点でその図は間違ってると思う 「智慧は無我」というのは、言葉が不正確でしたね。
「智慧は自我が考えた思考概念ではなく、名色の実相を洞察することから生じる。
それは禅定に入っている時の意識(気づき)が行うことなので、欲界の自我(五蓋)
によるものではなく、無我側の意識によるもの。」
そういう意味で、
妄想するのは自我。
悟りの智慧を洞察するのは、無我側の気づき。
ということが言いたかったのです。
教学的に正確な仏教用語の用法はよく知らないので、ごめんなさいね。 智慧にも三種類あって、哲学的思考による慧、教理教学による慧、修養によって達する慧とがあるようですが
最後の慧は戒律と瞑想によって達する洞察智なので、考えても分からないです。 ☆
w.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳.第一義空經
…
無明滅するが故に行滅し、行滅するが故に識滅す
「苦しい」という想いを手放し滅する
archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
ウダーナヴァルガのギルギット写本
…
(「仮設としての」という意味で.無明に依存している)
縁起したものを離れ
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが
掴もうとしている想いを手放し滅して.「苦しみ」の終わりである
_ _ _
智慧が縁起に依存しているのなら
無余涅槃のときには
(縁起に依存している)智慧も
手放し滅して逝くかもしれない
スッタニパータ 21
…激流を克服して
すでに渡りおわり、彼岸に到着しているのなら
もはや筏の必要はない
(無明に依存している縁起は必要ない) 名色の生滅に関しては、映画と映画を観る人にたとえると、少し近い気がします。
例えば、映画のスクリーンに映し出された登場人物は、映写機を通過するフィルム
のコマのひとつひとつを見ることはできません。
フィルムのコマをひとつひとつ、コマ送りで見ることが出来るのは、映画を観ている
観客や、あるいは映写室の技師の側に立っている場合です。
フィルムが映し出した映像自身に、コマ送りのコマを認識する能力はないというか、
構造的に無理ですね。
映画はコマが生みだした映像ですから、その映像がコマ自体を観ることはできません。
それと同様に、名色の生滅が生みだした自我という妄想は、名色の生滅を(人間の
知覚を超えるレベルでは)認識することはできません。
自我が頑張っても無理です。
しかし、妄想に流されない状態の気づきは、頑張らなくてもフィルムが見えます。
ということじゃないでしょうか。 刹那滅が見えなくても、無常には変わりないので、あんまり気にしなくていいかも。 精神統一 集中によって時間が非常に遅く流れるようになりますよ 正確に言えば脳が超高速で認識しているということでしょうけど
狙っては無理ですが 例えば手をほんの少し動かすだけでそれぞれの骨 筋肉 腱がバラバラに虫のように蠢いているのを観察できる時期がありましたし くしゃみをするぐらいの時間で数時間分の心の体験をしたこともありました
自分程度でもこんな体験をするのだから昔の本職の出家者なら自分に起こっていることを虫眼鏡でビデオのスロー再生で観ることはいくらでもあっただろうと思います
光の何倍とかいう話は別にしても 刹那滅までいっても生滅が終わらなければ智慧にはならないでしょう。
折角、無為からの観察が出来ているのに、生滅観てることに満足して
「こんなん見た俺スゲー」してたら結局エゴの囚われからは抜けられない。 >>936
じゃあ五蘊とか自我か
五蘊無我(五蘊非我)だからね あ、智慧も常住・恒常なものではないないから無我だね >>939
スマナサーラさんが色即是空は正しいけど空即是色は間違い
リンゴは果物ですは正しいけど果物はリンゴですというのは間違いなのと一緒です
空は色の上位概念ですから
って言ってたやん テーラワーダでは般若心経は理解することが出来ない
だから観察者問題は答えることも出来ない ☆
たとえば
大乗とかの場合なら
仏からの大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 仏からの大悲・大智を受け入れる
真如縁起からの → 頼耶縁起
円成実性からの → 依他起性
般若の智慧によって観照された → 対境としての一切法
観照とか・対境とか言っても
大乗の場合も
基本的には
我所ではない.我でもない
なので
世間一般の.観照・対境とは
意味が違う(世界観が違う?)かもしれない >>941
宗派の違いで理解できる、できないがあるのではなくて
個々の仏教徒の智慧の開発度によって、理解できる範囲が違うだけだと思う。
般若心経が理解できない、というのは、般若の智慧を知識概念として思考に
よって理解しようとしている場合の話。
これについては大乗仏教の仏教徒自身も、本当には分かっていないケースが
多いと思う。 「色即是空 空即是色」の「即是」は漢文。
漢文において「即是」は、論理記号の「=(イコール)」ではないらしい。
そのため、スマナサーラ長老の般若心経批判は、申し訳ないが空振りである可能性はある。 ほとんどの大乗仏教徒の語る「空」は、本を読んで理解された「空」についての概念であって、
本当に空性の悟りに到達しているわけではないと思う。
その証拠に、空を語るその人の言動に、他者を抜苦与楽に導く方便力が見当たらない。 もし「自分は大乗仏教に属しているから、小乗仏教より上なんだ」と思っているのだとしたら
おそらく何か大きな勘違いをしているから、バカにされないよう、思い上がることなく頑張って欲しい。 >>943
そうですね、丁寧に言いなおせば
テーラワーダの理論からは般若心経は導き出されない 「すべては空だ 」と言っても 、寒ければ寒いし 、風邪を引いたら身体がくらくらします 。
「すべては空 」でも 、個々の現象は常に目の前にあります 。悪口を言われたら怒ります 。
「一切皆空 」など言葉とか哲学だけいろいろ言いますけど 、それで現象の問題は何も解決しません 。
そんなものに何の意味もありません 。ただの頭の遊びです 。哲学は 、ものごとをただいじるだけです 。
byスマナサーラ
これは色即是空は分かってても空想是色が理解できない人の書いた文章ではとして大変分かりやすい。
空想是色とは万物(諸法)には実体はないけど(色即是空)、実体がないものが縁起によって色となるという現象を表す。
受想行識もまたかくの如し。
言い換えれば勝義は空であり実体はないので不生不滅、不断不常、不一不異、不来不去であるが、
現象世界の世俗諦としては色はあり受想行識もあり、諸法がある(但しそれはあくまで仮であり概念であり世間的表現のための言葉である)。
それが(色即是空)空即是色。
っていうか、テーラワーダでもスマナサーラが著書の前書きを書いていたと思うアーチャンチャーなどが仮設という言葉を使うので、そのくらいは本当は理解できるはずなんだけどな。 >>945
>その証拠に、空を語るその人の言動に、他者を抜苦与楽に導く方便力が見当たらない。
証拠というからには、「空を語るその人」とは誰のことなのか挙げてみて欲しい。 ☆
>理解できる範囲が違う
それゆえに
kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E6%82%89%E6%AA%80-281469
世界悉檀 - 人々の心に合わせて説く
各々為人悉檀 - 各人の宗教的能力を考えて説く
対治悉檀 - 煩悩ぼんのうを打ち砕く
第一義悉檀 - 真理に直接導こうとする
_ _ _
>誰のことなのか?
私 ID:RvV9OYGWの場合は
僧侶でもなく
どこか宗教団体の信者でもないけど
たとえば
空性とは何か?ということに興味があるけど
今.現状においては
因縁滅を了知する智慧とかはないので
仏教のことが
>分かっていないケース
と言えるかもしれない
因縁滅を了知する智慧
yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858 >>941
テーラワーダは諸法無我に行く感じじゃない マインドフルネスで読み解く般若心経 スダマチャーラ比丘
https://gakugei0925.peatix.com/
こんなのやってますね。
テーラワーダの方で般若心経に釈然としない方は参加してみられては。
山下さんは本やキャスでも話してるけど、涅槃は涅槃を観ていると言ってますね。
観察者=青空(涅槃)であって呼吸観察から既に観察者は涅槃であると。 >>948 自己レス
>これは色即是空は分かってても空想是色が理解できない人の書いた文章ではとして大変分かりやすい。
これは色即是空は分かってても空想是色が理解できない人の書いた文章の例として大変分かりやすい。
>空想是色とは万物(諸法)には実体はないけど(色即是空)、実体がないものが縁起によって色となるという現象を表す。
空想是色とは、色(肉体又は眼に映るもの(=物資))には実体はないけど(色即是空)、実体がないものが縁起によって色となるという現象を表す。 >>952
>山下さんは本やキャスでも話してるけど、涅槃は涅槃を観ていると言ってますね。
>観察者=青空(涅槃)であって呼吸観察から既に観察者は涅槃であると。
それは恐らく空観という観の瞑想法ですね。
中観派の僧侶が行う観行でチベット仏教などでも行しますが日本でも空海は空観を好んで?行していたと言われています。 >>954
なるほど、山下さんはチベットのリンポチェなどとも親交があって
涅槃について意見交換されたそうですけど…
山下さんは瞑想法自体はパオ森林僧院で習ってます
その前は曹洞宗にいました
今はパオのメソッドを抜粋して、大乗の解釈で指導されてます 君らはそういう一見高尚なことを議論していながら、一方で肉や魚の料理を「うまい、うまい」と言って食っていたりしていないかい? それじゃあ、台無しというもんだぜ。 ☆
間違ってる場合もあるらしいけど.それでも.とりあえず
ウィキペディア参照
ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%89%E9%A3%9F
宗教による制限
仏教
肉食(にくじき)
原始仏教では
比丘は糧をその日ごとで乞食することにより食を得
与えられた余り物の食べ物に肉が入っていようがなかろうが差別なく食べることになっていた
古い経典においては
釈迦その人が肉食をしたことが記述されている
生き物を殺す直接殺のみを明確に禁じ
間接殺においてはあくまでも貰い物の肉が
殺す所を見なかった肉
供養のために殺されたと聞かなかった肉
自分の為に殺された疑いの無い肉という「三種浄肉」であれば食しても問題はないとされた
比丘は家庭の余った食事を物乞いすることによって食を得る
肉食=肉の購買による間接殺という矛盾が成り立たない
_ _ _
今この時代の日本においては
見ず知らずの
家庭の余った食事を物乞いするというのは
かなり難しいことかもしれない ☆
今この時代の日本のことは.とりあえず
棚の上に置いといて
www.jtb.co.jp/kaigai_guide/report/MM/2019/09/400_148341_1567686927.html
2019/09/09
毎朝の托鉢風景
_ _ _
ミャンマーとかの場合なら
今この時代においても托鉢とかしてるらしい
比丘は家庭の余った食事を物乞いすることによって食を得る
「三種浄肉」であれば食しても問題はないらしい
_ _ _
ちなみに
自分 ID:NhEuTsiMの場合は
今.現状においては
戒・定・慧の実践もしてないです スマソ m(_ _)m >>957
今も昔も難しいと思います
やってみた方がいい
座禅や瞑想戒律守るとかの方が
ずっと難しいと思います
外に生きて食べ物もらって
外に寝ては頭の良さや解釈とか
なんにも要らない
その意味で身体があれば
誰でもできる 日本では親鸞が肉か魚か食べた時のことがわざわざ戒律を破ったとして文書として残ってるくらいたわから昔の僧侶は肉を食べないのが当たり前だったのだろう
精進料理は肉なしだしな ☆
大乗の場合は
肉食を制限するという傾向が時代の経過とともにつれ強まり
中国では食物を「葷」(くん。肉や臭い野菜)と「素」(そ。精進料理)に分け、
「葷」をはっきり禁制するようになった。
日本や朝鮮半島もこの影響を受けた。
とはいえ、
大乗仏教も上座部仏教と同じく「悟りを得る」というのが最大の目的である。
そのため、
そのような細かい制戒にこだわるのは、
かえって悟りを妨げると考える僧侶も現れた。
たとえば
一休は周囲の仏教界に反発心の表れで肉食や飲酒した風狂な例として有名である。
また、
親鸞は、戒律を守る人間が善人で救われるのであれば、
戒律を守ろうとしても守れない悪人は救われない、悪人こそ救われるべきではないか、
という疑問から自らを非僧非俗と呼んで、
末法に戒律は不必要という立場から、ついに「肉食妻帯(女犯)」を行った。
ということであるらしい 日蓮も親鸞も天台教学を経ているわけだから、色々分かったうえで
学もない、時間も余裕もない、生きるだけで精一杯の一般大衆でも
実践可能な方便を唱導してたんだろうな、とは思う。 ☆
日蓮とか言うと
桃太郎とか言う師匠が.やって来そうだけど
とりあえず
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE
…
五義(五綱)
教・機・時・国・教法流布の先後の五義
機
日蓮は
末法の衆生は
釈尊在世の結縁を持たず
南無妙法蓮華経によって成仏できる機根の衆生であるとした
_ _ _
桃太郎師匠なら
「南無妙法蓮華経だけが〜♪」とか言うかもしれないけど
衆生(人間)に限らず
山川草木や生類すべてに仏性があるとする
一切悉有仏性とかを前提とするのなら
南無妙法蓮華経だけじゃなくても良いんジャマイカ?という気もする 「分別」の意味について教えていただけますでしょうか。
>>926に
「勝義諦を議論寂滅、無分別としておきながら出世間諦と世間諦に分別している時点でその図は間違ってると思う」
とありますが、逆に言えば、
「無分別」の境地においては世間、出世間の区別も生じない、ということですよね?
これは、
「有為と無為は相依相関の関係において成立している」
と述べた、下記の記述に対応していると考えてよいのでしょうか?
------------------
有為法も無自性であり、無為法も無自性であり、両者は相依相関の関係において成立している。 (略)
『何であろうと縁起せざる法は存在しないから、いかなる不空なる法も存在しない。』(二四・一九)
(『未曽有一法 不従因縁生 是故一切法 無不是空者。』) (略)
『いかなる法であろうとも無為なるなのは実にどこにも存在しない。』(二五・五後半)のであって、ニルヴァーナというのも仏というのも皆な「因縁に属し」ているのである。
------------------
引用元
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/1965/71-72/1965_71-72_105/_pdf/-char/ja 阿弥陀様と唱え
一瞬の平安が得られれば、それはそれで
良いことなのでは無いかと思う >>964
>「無分別」の境地においては世間、出世間の区別も生じない、ということですよね?
その通りです
>「有為と無為は相依相関の関係において成立している」
>と述べた、下記の記述に対応していると考えてよいのでしょうか?
下記の記述は大乗仏教の教説であり対応はしていません。
そもそも最初の図でテーラワーダの勝義諦を無分別としているのが正しくないのです
>ご存知のように、パーリ・アビダンマの思想体系では心・心所・色・涅槃という4つの勝義諦(究極の真実)を立てています。
https://samgha.co.jp/blog/%E3%80%8C%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80%E3%81%AE%E5%AE%9F%E8%B7%B5%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6-%E7%89%B9%E5%88%A5%E8%AC%9B%E7%BE%A9%E3%80%8E%E6%B6%85%E6%A7%83%EF%BC%88%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%90%E3%83%BC/
このように勝義諦は4つに分別され涅槃以外の3つが世間諦という勝義諦で涅槃が出世間諦という勝義諦です >>966 追記
4つの勝義諦も涅槃以外の3つはそれぞれ自性のある法に分別されます
下記の「類似概念」を読むと理解しやすいです
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BD%8D ☆
スッタニパータ
872
(仮設としての)
名称と形態とに依って … … が(仮設として)現れる
874
(仮設としての)
有為法の説明も
無為法の説明も
すべて一切法は(仮設として)縁起しているので
… … ひろがりの意識は
(無為法の説明も)想いにもとづいて起るから
>>964のリンク引用元からのコピペ
法界縁起の説においては
有為法・無為法を通じて
一切法が縁起していると説く.『中論』のうちに見出すことができる
_ _ _
ウダーナヴァルガのギルギット写本とかの場合は
縁起したものを離れることがある
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも
留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが苦しみの終わりである
留まることも説かずなので
自性ではない・無自性でもない.みたいな? ☆
blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
十牛図
人牛倶忘
縁起したものを離れることがあるのなら
現れ → 滅して → また現れ → 滅して
刹那滅して
因縁滅を了知する因縁滅智により
無の世界
返本還源
さらに無の世界も超えて
有である・無である・空性である.と掴もうとしている想いでもない
自動生起する思考にとらわれることなく
計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様をありのまま見つめている
大乗とかの場合なら.無住処涅槃? 869.自然現象を見ているバカである。
大爆笑である。 >>966
ありがとうございます。
> 勝義諦は4つに分別され涅槃以外の3つが世間諦という勝義諦で涅槃が出世間諦という勝義諦です
ということは、
『「無分別」は世間と出世間を分別しない大乗仏教の教理における勝義諦でのみ想定され得る境地である。
テーラワーダの教理においては「無分別」は成立し得ない。』
というように思われるのですが、そのような理解で合っていますでしょうか? >>971
大乗仏教でも“世俗諦”として世間と出世間とを分別します
大乗仏教の“勝義諦”は空なので世間と出世間は分別はしません
テーラワーダは部派仏教の分別説部の流れですから分別は積極的にします
但し勝義諦の中でも涅槃は涅槃一つでそれ以上に分別はされず無分別といって良いと思います 第二章は物質の分別 v i b h ā g aです 。
日本語で 「分別する 」と言うとあまり好ましくないですが 、初期仏教 ・テーラワーダ仏教では 、自分たちのことを分別論者 v i b h a j j a v ā d i nと言います 。
大乗は自分のことを大乗仏教と言いますが 、そのように我々も自分たちのことをテーラワーダ・上座部と言うよりも、もし威張って言うならば、分別論者だと言うのです。
我々は、存在という幻が消えるところまできめ細かく分析するのです 。
物事をそのまま、全体的に、大乗が言うように「すべては 」とか「一切は」などとまとめて説明することはしません。
そんな大雑把でいい加減な説明は、始めからどうせ間違っていますから。
ー略ー
真実を知るためには、分析するしか方法がありません 。
総体的に大雑把にまとめてみても、いい加減なだけで 、何も分かりません。
テーラワーダ仏教の特色は、本当に、とことん分析してみるということです。
その特色だけは守りましょうということで、「 V i b h a j j a v ā d ī B h a g a v ā .世尊は分析論者だ 」と言います。
分析しないでまとめて 、「すべては梵我一如 」などと言えば、それは邪見・邪教です、と簡単に捨ててしまいます 。
森羅万象の中で同じ一つのものはないかと探すのも、またちょっとした心の間違いです。
もし真剣に調べて、分析して、同じ・不変の一つのものを探そうとしたら、見つかるのは「無常」ばかりです。
あるいは今説明した、積集、相続、老性、無常性の四つの共通項目しか、最終的には見つかりません 。
物質をどんなに探しても梵・ブラフマンも我・アートマンも、神も見つかりません 。
byスマナサーラ(ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―第1巻 物質の分析) ☆
間違ってる場合もあるかもしれないけど
それでも.とりあえず
ウィキペディア参照
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83
涅槃.ニルヴァーナ
…
説一切有部などでは
涅槃は
存在のあり方であるとして実体的に考えられた
無為法の一つに数えられる
煩悩が断たれて、有情の相続が煩悩の拘束から離繫する(離れる)
「択滅」という無為の法(ダルマ)が
その有情の相続に結びつけられ、涅槃となると考える
((「有情の相続に結びつけられ」というのは真如縁起に似てる気がする))
経量部などでは
涅槃は
煩悩の滅した状態を
仮に名づけたものであって実体のあるものではないとされた
大乗仏教では
常・楽・我・浄の
四徳を具える涅槃を無為涅槃とし、無為涅槃を最上のものとする
_ _ _
大乗も基本的には
我所ではない・我でもない.と言ってた気がするけど… >>972
ありがとうございます。
> 大乗仏教でも“世俗諦”として世間と出世間とを分別します
> 大乗仏教の“勝義諦”は空なので世間と出世間は分別はしません
凡夫のうちは出世間があるように思えるけど、悟ってみたら実は無かった!
ということでしょうか。
興味深いですね!
> テーラワーダは部派仏教の分別説部の流れですから分別は積極的にします
但し勝義諦の中でも涅槃は涅槃一つでそれ以上に分別はされず無分別といって良いと思います
>>924 の図でいうと、
『テーラワーダにおける勝義諦の境地では「戯論」は寂滅しているが「分別」は行われる』
ということでしょうか。
ここがよく分からなくて、「戯論」と「分別」はほぼ同義で用いられることが多いですよね?
もしくは、
『テーラワーダにおける勝義諦の境地では「戯論」は寂滅しておらず、「分別」も行われる』
ということでしょうか?
屁理屈な質問で申し訳ございませんが、ご教示願います。 >>973
途中まで読んで、語り口があまりにもスマ長老っぽかったので、
「やべー、まさかのスマ長老降臨か!?」
と慌てましたが、スマ長老の引用で安心しました。。
まだまだ修行が足りないようです。。 >>974
この大乗仏教の涅槃の説明では涅槃は「無為」としているため、
分別できない「空」なる勝義諦を「有為」と「無為」に分別しているように思えます。
まず「空」は生成消滅するので有為ですよね?
で、「空」がそれ以上分別できない境地なのであれば、大乗仏教における涅槃も「有為」となると思うのですが。。
こちらも屁理屈な質問ですみません。。 >>977
是諸法空相 不生不滅〜 というのが大乗の空観ですよ
空は有と無のどちらにも属さないというか 空が有無の状態を造り出しているのだと考えます >>978
ありがとうございます。
> 空は有と無のどちらにも属さないというか 空が有無の状態を造り出しているのだと考えます
確かに、龍樹ら大乗仏教の教理において、
>>972 にもあるように、「有為と無為」「世間と出世間」の区別は、「空」によって無効化されていましたね。
そもそも大乗仏教においては、「涅槃の覚知」はそれほど重視されませんしね。 ☆
>涅槃の覚知
yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858
パオ・セヤドー
…般涅槃の時に
五蘊(色受想行識)も.余すところなく滅尽します
因縁滅を了知する智慧を、因縁滅智と言います
docs.google.com/document/d/1k2r4v5JOLpytMl5WtlHTLmzSY8lwKoYisbbO0GE9P-I/edit#
ニッバーナについて
マハシ・セヤドーは認識できないという立場
それに対して
パオ・セヤドーは認識できるという立場
www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%92%E3%81%A0%E3%81%A4%E3%81%A1%E3%81%91%E3%82%93
戒から定(三昧)を生じ
定によって智慧を得
智慧によって解脱に到達し
解脱によって解脱智見を知る ☆
たとえば
「想う」という想いも手放して
「想わない」という想いも手放して
非想非非想も手放して(超えて)
tubamedou.egoism.jp/SonotaButten/Chuuron/ChuuRon03.htm?v=20190528#no18
中論觀法品第十八
…
八聖道分を修習しながら
我と我所との因縁を滅すれば
無我や無我所という智慧を得る
スッタニパータ
21
…激流を克服して
すでに渡りおわり、彼岸に到着しているのなら
有為である・無為である・涅槃である
と掴もうとしている想いも手放している(かもしれない?)
872
(仮設としての)
名称と形態とに依って … … が(仮設として)現れる
874
(仮設としての)
有為法の説明も
無為法の説明も
すべて一切法は(仮設として)縁起しているので
… … ひろがりの意識は
(有為法の説明も・無為法の説明も)想いにもとづいて起るから >>979
「区別が無いという事も無く 有るという事も無い」と物事の有る無しを否定した処に見出だされるのが空ですから 有無の二見は邪見という原始仏教の概念を突き詰めた時に どちらにも属さない空という概念が見えて来たのだと考えます
絶対的な無効ならこの会話も有りません しかし私達は生まれ 互いを認識して言葉を交わしています
この状態が「仮」ですね
生じて滅するその過程も「仮に〜」を付ける事で空と有無の状態が明確になります
生死も物事の有無も「空」の働きに依るものだと考えたら 無のパラドックスが解消出来ます
涅槃はそれ以上判断の及ばない領域ですから やはり「空」の状態に止まる事を意味するのではないかと考えています
空に止まる事が出来れば それ以上生まれるという事も死ぬという事も無くなりますから 如来の死後は常住でも断滅でもないとしたブッダの言葉を補完するのではないでしょうか?
「来るが如く 去るが如く」の様に一見相矛盾する表現を矛盾無く理解するのに判別出来ない曖昧な領域の存在を認め それを空と評したとすれば龍樹の説明は府に落ちます >>975
テーラワーダではしっかりと分析して分別した結果、戯論(妄想、言語的概念化)はなくなり智慧が得られるとする立場をとります。
テーラワーダにとって勝義諦は無分別ではないですが、戯論寂滅していると言えるかもしれません。 有無については何かが有であるとか無であるということにこだわる自分がまずなくなる
そうなると現象上の有や無がどちらでもいいし自分にとって同じことになる
そうなると自分の心身上において現象上に現われる有や無ということはこれまでと変らなくてもそれらの概念から自由になっている
有も無も現象上の現われに過ぎなくなっている >>983
ありがとうございます。
> テーラワーダではしっかりと分析して分別した結果、戯論(妄想、言語的概念化)はなくなり智慧が得られるとする立場をとります。
上記についてはそのとおりだと思います。
> テーラワーダにとって勝義諦は無分別ではないですが、戯論寂滅していると言えるかもしれません。
上記については一考の余地があるのではないかと思います。
「分別」と「戯論」の関係を調べる中で、詳しく論じられた下記の資料を見つけました。
https://otani.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=887&file_id=22&file_no=1
上記資料の中で、
『龍樹は「分別は戯論より生ずる」と延べ』たとし、
下図のような「真実の世界」から「戯論」を経て「分別」が生じる機序を説明しています。
https://i.imgur.com/1cGTXJJ.jpg
この機序を正しいとすると、
戯論が寂滅していれば、分別も生じないことになり、
テーラワーダにおける勝義諦は「無分別」ということになります。
もしかすると、「分別」の意味の捉え方で見解が分かれるのではないでしょううか。
「分別」を「区別」の意味で捉えると、
テーラワーダにおける勝義諦には色、心所、心、涅槃という区別が
あるため、「分別」しているということになります。
一方、「分別」を上記資料のように『「戯論」によって作り出されることばの世界』の意味で捉えると、
テーラワーダにおける勝義諦では戯論が寂滅しているため、「分別」は生じないことになります。
瑣末な議論を重ねてしまい申し訳ございませんが、
(これこそ「戯論」ですねw)
見解をご教示いただけますと幸いです。 >>988
『中論』の第18章5偈
業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起る。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起る。しかし戯論は空において滅びる。
(中村元訳)
行為(業)と煩悩が尽きることによって解脱がある。行為と煩悩は分析的思考(分別)による。それら(の分別的思考)は概念化にもとづく。しかしながら概念化は空において抑止される。
(斉藤明訳)
papañcaを中村先生は漢訳に従って戯論と表し斎藤先生はより分かりやすく概念化と訳しています
しかしこの戯論(概念化)に基づいて分別思考が起きるというのは、あくまで大乗仏教の龍樹の説であり、分別思考をする部派仏教のアビダルマ哲学への批判ではないかと思います
一応、部派仏教テーラワーダのスマナサーラも
「非戯論の世界とは、一切の妄想概念から解放された自由の境地、いわゆる涅槃のことです。」
とは言っています
但し勝義諦の他の3つの色、心、心所は非戯論であるとは言ってはいません
ですからテーラワーダにおいて戯論寂滅しているのは勝義諦の中の涅槃に限定されるということです
一方で、戯論(概念化)の対象は施設されたもの、つまり世俗諦であるというのは部派仏教でも大乗仏教でも変わらないようなのがややこしいところです
その世俗諦の施設の内容も部派仏教と大乗仏教では異なります
詳しくは下記のWikipediaを参照してください
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%96%BD%E8%A8%AD_(%E4%BB%8F%E6%95%99%E7%94%A8%E8%AA%9E)
こう考えると
「非戯論の世界とは、一切の妄想概念から解放された自由の境地、いわゆる涅槃のことです。」
というスマナサーラの言も「ん?」と思えてしまうんですねけどね
微妙ですし難しいですね ということは、「経典読んでて悟った」というのは普通にあり得る話なのか。
しかしそれも、徹底的に精密に分析した結果として洞察が生じる(慧に至る)
ということで、それ相応の下地のあることが前提だろうけれども。
アッサジの言葉を聞いて即座に預流果に悟ったサーリプッタなど、そうした
エピソードは龍樹登場以前からあったわけで、龍樹の空観が仏陀と比較して
特別優れているとは思わないけどね。 >>989 の補足
心 、心所 、物質 、涅槃という事実 、真実 「勝義諦 」の立場でここまで分析とまとめ ・統合の解説が進んできました 。
ここからは施設 「世俗諦 」の分析が始まります 。
統合というほど厳密ではなくても世間の常識でまとめた車 、家 、国家などの曖昧なものごとも 、 「それは真理の立場からは戯論だ 」などと捨てるのではなく 、
世間でそのように成り立っている施設が 、どのように成立し 、どのように作用しているかを分析して 、その功罪を知っておくことも 、アビダンマの仕事なのです 。
(藤本晃『アビダンマッタサンガハ』を読む)
https://i.imgur.com/VKR5XUU.jpg
この著書によると、戯論は施設「世俗諦」のことであって、真実である心、心所、物質(色)、涅槃という「勝義諦」は戯論には当たらないようにも読めますね
ですからスマナサーラの
「非戯論の世界とは、一切の妄想概念から解放された自由の境地、いわゆる涅槃のことです。」
には「ん?」と思ってしまうわけですねw >>990
>龍樹の空観が仏陀と比較して特別優れているとは思わないけどね。
龍樹は仏陀を超えることを目標としていたわけではなく、「ブッダに帰れ」というスローガン?の基に空観を提唱?構築?していったので、
仏陀と比較して優れているとかそういう比較は違うと思いますが 中論もアビダルマも、そこまで精密に読む人って仏教徒のなかでも小数じゃなかろうか。
心、心所、物質が無常、苦、無我で、涅槃が(生老病死からの)自由の境地だとすると、
スマ長老の説明は、修道上は必要十分なんじゃなかろうか。 >>992
それは失礼しました。
龍樹はすごいなぁと思うんですが、「小乗仏教」がどうのこうのと言ってくる大乗仏教徒に
対しては、「それってあなたの頭の中の概念ですよね」、と言いたくなってしまうことがよく
あるもので。 わたしは悟ったわけでも解脱したわけでもなく修行中ですから、当然、ふだんは自我が考えてます。
自我の停止を経験したことはあっても、そんなもん一過性のものですから。
ただ思うのは、昔から応病予約と言われているように、仏教に大小があるのではなく、方便が違うだけ
なんだろうなということ。
つまり処方箋が違うだけなのだろうな、と。
患者同士が、おれの処方箋の方が上だとか、デカいとかドヤってるのって、滑稽ですよね。 >>993
スマナサーラはテーラワーダのアビダルマ論に沿って大乗仏教やヒンドゥー教などを批判しているので、
彼の著書を読む人はテーラワーダのアビダルマに直接・間接的に触れてることになると思います それから、百聞は一見にしかずとも言いますね。
例えば日常生活でも、ググるだけの人が街の様子を知るためには、詳細情報が必要です。
しかし実際に歩いて現場に行く人には、簡単なメモで事足ります。
座学も大切だし役立つと思いますが、わたしはテキストを読むだけではなく瞑想実践を
進めていきたいと思っています。
特に、自分はもう若くはないので時間がないからです。 >>991
ありがとうございます。
> 戯論は施設「世俗諦」のことであって、真実である心、心所、物質(色)、涅槃という「勝義諦」は戯論には当たらない
私もテーラワーダの勝義諦においては戯論は寂滅していると思います。
(文献は探せていませんが、『テーラワーダにおける真諦である「勝義諦」でも「戯論」が生ずる』とは言いにくいのではないかと・・・)
これまでご教示いただいたお話で、大分「分別」への理解が深まりました。
ありがとうございました。 大乗だったらより簡単なメモになる
「涅槃の生の現象としての生をいま生きている」
仏陀は相手に合わせてそれを説いただけ
個別具体例が整合性があることが仏法の真理の証ではあるが
その個別具体例を全てつなぎ合わせて理論化しても意味がない
間違ったエリート主義に陥っている
仏陀が説いた相手は古代インドの人々だ
今生で何人分の人生を生きようと思うのか?
古代インド人の人生を レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。