【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践17
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お釈迦さまの教えとサマタ・ヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践16 [転載禁止]
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1551435418/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会や
そこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など
多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違い
もあります。
そこを踏まえてご参加ください。 色々言いたいことはあるけど黙っとこ。
涅槃経に預流果が菩薩であると書いてあるからそれでいいじゃん。
涅槃経も法華経には劣るけどめちゃ重要な経典なんでしょ。
それで、桃太郎は自分のこと菩薩の境遇にあると判断してるの?
そう判断してるなら大変結構なことだけど、そうじゃないなら、
阿羅漢を仏と比較してコケにするなんて言語道断の不敬行為なんじゃない。
法華経にも書いてあることのようだけど、仏印みたいなのを、釈迦はまず阿羅漢達に最初に授けたんでしょ? 菩薩でないのなら、菩薩である預流果に対してすら既に敬意を持つのが自然な心であって、
まして阿羅漢には余計そうだろう。
菩薩なんだから大乗の教議でも仏になることは確定しているわけだ。 >>685
破戒僧スマナサーラが他宗教批判に興じるのは母国の破壊的カルトのやり方通りだが スマナサーラはスリランカ仏教の実態について延々嘘をついてきた
仏教では嘘を禁じている
スマナサーラを擁護するようなチンピラは縁なき度しがたき衆生 >>760
信の揺らぎだよ
このままのやり方で悟れるのだろうか?っていうね
そうなると解釈に間違いは無いかとあれこれ議論する様になって 次第に「私はこの様に聞いた」が「私にはこの様に思える」に変わるのは必至だからね NHKで植木さんの話していた法華経と桃太郎の態度は相容れない気がするんだけど ☆
今この現代において
「法華経だけが.もっとも重要な教えである」
と我執している人(たとえば桃太郎師匠)と
それ以外の人では
相容れない
折り合いが悪いかも
唯識
真言宗
天台宗
法華系・日蓮宗
浄土系
禅系
テラワダ
チベット
その他諸々
無宗教
色々あるので
「法華経だけが〜ぁ♪」とか逝ってると
「頭が.おかしい人か?」と勘違いされるかも
>NHKで植木さんの話していた法華経
ご教示ありがとうおじゃります m(_ _)m
植木雅俊 法華経
https://www.youtube.com/watch?v=KjUBvw7JPJw
この動画では
対立することなく
批判をすることもなく
という説明をしてるようでおじゃります
− これに対して −
桃太郎師匠とか
「法華経だけが」という崇拝信者とかは
他のものと対立してないのか?
他のものを批判してないのか?
ちなみに
自分(ID:VlUctomn)の場合は
無明に依存して
妄想分別して
対立も批判もしちょります スマソ m(_ _)m >>768
他が皆間違いで自分達だけが唯一の正当な教えだと信じる様に洗脳されてるから仕方ないよ
正宗系は辞めてからも引きずるらしくて発作起こすからね
可哀想なのは子供の精神疾患だよね
信者の子供が思春期に発症して入院する例が多いって専門職から聞いてる 参考
サンスクリット語からの法華経の新訳をされた植木さんによる概説
https://youtu.be/RGPgKzNoHVY
>>770
ご教示ありがとうおじゃります m(_ _)m
自分の知り合いには
創価信者の方々が多いので
「自分達だけが唯一の正当な教えだ」
と取り憑かれているようでおじゃります
− これに対して −
こんどは
自分(ID:VlUctomn)の方が
それに対立する
という感じでおじゃります >>769
かぶりました失礼
説一切有部派などいわゆる「小乗」と大乗の違いを乗り越えるための経典と説明されてますね
それぞれの腹に収まるように寓話を用いて融和の道を示しているわけで
なかなか良い番組でした、法華経読んでみたくなります
>>771
ご教示ありがとうおじゃります m(_ _)m
対立することなく
批判をすることもなく
という説明に続いて
その次の説明では
すべてに仏性があるとする
一切悉有仏性
という感じでおじゃります
_ _ _
今は.もう持ってないけど
https://www.iwanami.co.jp/book/b270312.html
法華経(上) ワイド版岩波文庫
たぶん創価とは関係ない書籍だと思う(たぶん?) スマナサーラと信者達のようなイッセンダイでも数京那由多刧に餓鬼道に輪廻できる
そんな可能性を信じて、生きてる ほぼ無限の歳月を経て破和合僧のスマナサーラ信者ですら地獄から一瞬帰る
そんな優しい教えを信じてしまいそうになる >>768
「法華経だけが.「もっとも重要な教え」である」と我執している人
>>769
「法華経だけが(もっとも重要な教え)」という崇拝信者
>>770
自分達だけが唯一の正当な教えだと信じる
>>772
>「自分達だけが唯一の正当な教えだ」
まったく同じような事ばかりを言っちゃてるけど、
私の意見は >>747 で書いた通りだよ。
なに、ブーメラン的な事言ってるんでしょうかね?(笑
皆、自分の信奉する教えを「最も重要な教え、唯一正当な教え」と思って修行してんじゃないの?
だからこそ、>>770 の人間のように
>信者の子供が思春期に発症して入院する例が多いって専門職から聞いてる (※どんな専門職が言ってんだよ!)
などと、平気で仏教者にあるまじき下劣な事を平気で言ってのけるんじゃないか。
桃太郎個人に対してならともかく、何の関係もない子どもを論争の具にするとは、普通の人間ですらしない愚行だと思うが如何?
※それに同調して>ご教示ありがとうおじゃります m(_ _)m とか言ってる人間も同じだ!
これで、「慈悲の瞑想」とか「預流向」とか言ってんだから、何の説得力も無いよね。
よく植木雅俊先生の「法華経」本を読んで「菩薩」とは何かを、よくよく勉強した方が良い。 ☆
皆、自分の信奉する教えを「最も重要な教え、唯一正当な教え」と思って
いるはずだ
と我執している
桃太郎ID:eYDnVho9師匠.乙でおじゃります
たとえば
植木雅俊という人が
創価と関係ないのなら
https://www.youtube.com/watch?v=RGPgKzNoHVY&feature=youtu.be
創価と関係ない法華経なら
勉強させていただきます ヨロ m(_ _)m >>774
>今は.もう持ってないけど法華経(上) ワイド版岩波文庫
それは持って無くて正解!やめとけ!
解釈の誤りが多すぎる!
やはり鳩摩羅什訳が最高だな!
...と植木雅俊先生が仰っておじゃります m(_ _)m
絶妙だった鳩摩羅什訳(植木雅俊)
https://www.soka.ac.jp/files/ja/20170519_150208.pdf
の講演で不軽菩薩を解説して曰く
これは、釈尊滅後、教団が保守・権威主義化し、男性・出家者中心主義や、隠遁的てきな僧院仏教という傾向に陥り、
煩瑣な教理の研究と修行に明け暮れ、遂には民衆と遊離して、民衆をさげすむまでに至って、小乗仏教と貶称された当時の状況を反映した表現でありましょう。
この菩薩の振る舞いは、「宗教のための宗教」に陥ることが、本来の仏教の精神とはかけ離れたものであることを警告し、
「人間のため」の仏教であり、宗教であるべきだと訴えているのではないでしょうか。
この菩薩は、いわゆる仏道修行の“形式”としての経典読誦は一切やっていません。けれども、人間を尊重するという振る舞いを徹底して貫いています。
経典を活字として読んだり、諳んじたりしていても、人間を軽視する人がいるのに対して、経典は読んでいないかもしれないが、人間を尊重しています。
そのどちらが『法華経』の精神、思想にかなっているのかということを対照させて、痛烈な批判の意味を込めて、この菩薩の行状が語られているように思えます。
これは桃太郎が以前から言ってきた通りであり、水野博士の研究とも一致しているね。 >創価と関係ないのなら
あっ!うえの講演、創価大学での講演らしいよ。
〜〜〜ざ〜んねーん。で、おじゃります m(_ _)m
まぁ、創価学会じゃないからね。どっちかというと、ちょい小乗寄りかな? ☆
創価じゃないのなら
小乗寄りでも
唯識寄りでも
密教寄りでも
チベット寄りでもOKでおじゃります >>781
それは良かったで、おじゃります m(_ _)m
是非、法華経の研鑽を深めて頂きたい。 >皆、自分の信奉する教えを「最も重要な教え、唯一正当な教え」と思って修行してんじゃないの?
普通の仏教徒なら自分の信奉する教えは仏教の一端に過ぎず 自分はその末端に過ぎないと考える
等しく悟った仏の教えに優劣を付けるなんて不遜な事をするのは非仏教
>だからこそ、>>770 の人間のように
>>信者の子供が思春期に発症して入院する例が多いって専門職から聞いてる (※どんな専門職が言ってんだよ!)
50年前に精神医学の権威小田晋が警鐘を鳴らして 今では現場の看護師でも言っている
>などと、平気で仏教者にあるまじき下劣な事を平気で言ってのけるんじゃないか。
仏教徒に有るまじき下劣な事とは他経批判 他師非難 自宗信仰の強要等の最も卑しく下劣な行為の実践に有ると仏教徒なら部派宗派を問わずに認識を共有するよ
正宗系なんて仏教じゃない
仏教の教えを盗用して争いの道具に悪用する邪教に過ぎん
互いに争い合って滅びるといい 信者に仏壇買わせるとか、そこらへんはどうなんですか? >>783
>50年前に精神医学の権威小田晋が警鐘を鳴らして 今では現場の看護師でも言っている
はぁ?どこの現場だよ。(笑
で、「日蓮系の信者の子どもが思春期に発症して入院する例が多いって」って根拠は?
どれだけのサンプルと統計でそれが確認されているの?
そんなこと普通に言ってたら、その職場は潰れるだろうね。※常識で分かりそうなものだが。
どんな瞑想そんなどす黒い性格になるのかしれんが、ほんとうに悪質だな。君は仏教学ぶ資格がないよ。
>等しく悟った仏の教えに優劣を付けるなんて不遜な事をするのは非仏教
>正宗系なんて仏教じゃない、仏教の教えを盗用して争いの道具に悪用する邪教に過ぎん。互いに争い合って滅びるといい
こういうのを自語相違と言うんだよ。(笑
狂ったような吠えてる君は、ただの宗教オタクだよな。確実に間違いない。(笑
実につまらんな。君は >>785
創価精神病でググれば?
外部だけじゃなく学会員の精神科医からも内部告発されてるのにお前が知らないだけだろ?
人の口に戸は立てられないから何処からでもそうした話は漏れるんだよ
実際にお前の行動は関係ない処に乗り込んで自分勝手な主張をする基地害そのものじゃないか? 融和的な精神から書かれた法華経からは排他的な論理は生まれてこない
声聞乗(小乗)、菩薩乗(大乗)、独覚乗
いずれも同じ一仏乗とした
南無妙法蓮華経(一人一) 声聞乗、菩薩乗、独覚乗を思い描きながらも悟れない凡夫がいる
その人達を家宅から救い出し一仏乗を与えるという話
或いは、いかなる人も軽んじませんという態度を貫くことで悟りを開いた人の話
法華経の説いていることはとてもおおらかなものだと思うのだが ここは法華経や日蓮教の話題をするスレじゃないよ(´・ω・`)
蓮太郎が下らない事を書き込むからズレるんだよな…
>>1
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会や
そこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など
多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違い
もあります。
そこを踏まえてご参加ください >>786
もう、君とは議論しないよ。
ただの創価アンチだろ。つまらん。
>いかなる人も軽んじませんという態度を貫くことで悟りを開いた人の話
その通りだ!
一切衆生に「仏性」を説く法華経は最高の人間主義の哲学であり、生命尊厳主義だ。
出家も、在家、男性も女性も、悪人すらも成仏せしめる最高の教えだよ。
この世のすべての人が「不軽菩薩」のごとく、互いを差別なく尊敬し合える思想を根底に持てば
どれほど平和な世の中になるだろう。だからこそ、創価学会は広宣流布をするのであって、
創価は「俺様の信じる教えが一番だから、お前等はその下」と思っているとかは全く的外れな批判という以外に無い。
法論というのは、相手の論者の人格を否定するものではない。
凡夫ゆえに感情的になることはあるだろう。しかし、「仏法研鑽の場」と考えれば価値もある。
それを混同して人格批判をするような人間はそれが分かっていない。
法華経のテーマは、「凡夫こそ仏」と言うことだ。
それを説き顕したがゆえに最上第一の法門と呼ばれるんだよ。
僧俗で差別をしたり、性別で差別をしたり、修行の段階で差別をしたり
そんなものは無分別の法から見れば単なる方便だ!それに執着するゆえに道を誤る。
「凡夫こそ仏」 これを覚知して初めて「悟った」と言えるんだよ。 >>790
良いからお前らは巣に帰れ
勉強の為にテーラワーダの話を読みたいのにお前らの下らない日蓮法華解釈なんぞ書き込むな
創価は専用板があてがわれてるんだから仲間内でやってれば良いだろ
此処は仏教徒同士が共通点を模索して研鑽し合う場所なんだから 他の教えに学ぶ気持ちの全く無い正宗系なんてまとめて要らないんだよ お釈迦様の教えを実践してるはずなのに口悪い人多いですね。まずは正語から実践してはいかがでしょう? >>790
桃太郎の主張では仏にも煩悩があるということだから
仏も感情的になるし怒ることもあると理解してるんだろうか。 怒りと欲の煩悩が消えるのは不還だから、そこまで行ってなければ怒るし、欲も
出るのでは?
>>他の教えに学ぶ気持ちの全く無い正宗系←まさにこれ。カルトの典型。 そこで問題となる文言が、
(大般涅槃経だったか)、修行僧のあれこれは、私の煩いとなる、
なんて台詞でね。(細かいシチュ忘れたが)
いかなる事象であっても、覚者なれば、煩いとなることはあってはならないんじゃないかな、とw >>796
不還果については、ネットでは、激しい怒りがなくなると書いてあるところもあれば、
怒りがなくなると書いてあるところがある。
どちらが正しいか近いうちにデカイ書店に行って調べるつもり。 >>784
仏壇は忙しくてお参りのままならない貴族が始めた自宅用のミニ寺院だから義務的に買わせる様なものじゃないでしょうね >>796
彼等に対する反応で自分の怒りと怒りを捨てたいという欲の存在を自覚出来るという点では反面教師と言えるのかも知れませんが 彼等は余りにも他の修行者の邪魔をし過ぎています
怒り過ぎれば同じ境地に堕ちるでしょうね >>793
>仏にも煩悩があるということだから
>仏も感情的になるし怒ることもあると理解してるんだろうか。
当然です!
喜怒哀楽の無い、能面ずらした仏などいないのです。
むしろ、あふれんばかりの大感情の人であったと思います。
その大感情が大知性と完全に一致した方であろうと思われますね。
山林に交わり、座して悟り澄ました「仏」のイメージがあるいのは、
部派仏教があまりにも人間釈尊を神格化した影響だと思います。
現実は布教の為に、インド中を弟子と旅しながら、
多くの人々を慈愛の心で温かく励まし続けた人であったと思います。
旅先で不幸の人々を見て、すまし顔で通り過ぎるような釈尊ではありませんでした。
共に苦しみ、なんとしても救ってあげたいという大慈悲の人でありました。
慈悲の「悲」には「うめき声」という意味があります。
仏とは「ともに苦しんでくれる人」なのです。
慈悲深き人こそ、仏法の智慧を体現している人なのです。 当時の弟子らは、釈尊の優れた教えは言うまでもなく、
むしろ、その人間性、人格、振る舞いに感動し信服追従していったのではなかろうか。
仏典にはこんなエピソードがあります。
誰からも見放され、一人で苦しんでいる病人が居た。
釈尊は、汚れた男の体をさすり、手を貸して戸外に連れて行って、体を洗ってあげた。
その間に寝床の敷物まで取り替えた。
周囲の人は疑問を持ちます。どうして仏がそこまでするのか、と。
釈尊は人々に言います。
「仏に仕えるのならば、病者を看病せよ」と。
−−これは仏典に説かれる有名な説話です。
病気には身の病もあれば心の病もあります。
その病を治す為であれば、何でもする。
人間の中に飛び込む事以外に仏法はない事を、釈尊は教えたかったのです。
また、釈尊は誰よりも人間を愛する人でした。
だからこそ、大勢の人たちがその姿に引かれ集まって来たのです。
だから、仏の周りは、いつも賑やかでした。
法華経如来神力品に曰く
日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を減し
無量の菩薩をして 畢竟して一乗に住せしめん
<訳>
仏は太陽と月の光明か、もろもろの闇を除くことができるように、この人は「世間の中で行動して」、
衆生の闇を滅し、無量の菩薩を最後に必す一乗の境地(妙法)※仏の境智※に到達させることかできるであろう。
まさに、その通りの人間(最も人格の完成された)釈尊でした。
>仏の周りは、いつも賑やかでした
夢.幻のような空性を
「実有なるもの」として掴もうとしている
(仮設としての)桃太郎師匠?
http://tubamedou.egoism.jp/SonotaButten/Chuuron/ChuuRon04.htm?v=20190528#no22
青目(ピンガラ)の中論.觀如來品
「如来は…」と掴もうとしている
想いは.夢.幻のような空性である
無明に依存することのない
如来は戯論を超過する
無明に依存している
人は
(刹那生滅して)戯論を生じている
無明に依存して
「実有なるもの」として掴もうとして
戯論して慧眼を破れば
是の人は
仏を見ることはない 如何経
第二章
「比丘達よ、教義に関し、論争は要らない。
意見が分かれ、論争を来す、四つの例がある。
それでは、この四つの例とは、如何なるものか。
第一の例は、文章も異なり、解釈も違っている。第二の例は、文章が等しく、解釈が違っている。第三の例は、文章が異なり、解釈が同じである。第四の例は、文章も等しく、解釈も同じである。」
「比丘達よ、この、いずれの例についても、正しいならば正しい、誤まりならば誤まりと、正しく解しながら、正しく合わせるべきである。」
「比丘達よ、違反に関し、叱責を早まるな。
違反を犯して、叱責を来す、四つの例がある。
それでは、この四つの例とは、如何なるものか。
第一の例は、自らも害があり、周りも害がある。第二の例は、自らに害があり、周りに害はない。第三の例は、自らに害はなく、周りに害がある。第四の例は、自らも害はなく、周りも害はない。」
「比丘達よ、この、いずれの例についても、正しいならば正しい、誤まりならば誤まりと、正しく解しながら、正しく合わせるべきである。」
「他の説を誹謗せず、自らの説を称賛せず、比丘達よ、ただ一心に、涅槃の道を修習せよ。
他と争うような者が、涅槃に至れる道理はない。」
これを聞いた、諸々の比丘は、歓喜し実践した。 >>806の続き
テラワダとか
中観帰謬とかの場合は
どんなに
「ものすごく素晴らしこと」も
「極端に最悪なこと」も
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って
世界すべてを
「夢.幻のような.空性である」と観察せよ
_ _ _
仮設としての世界において
たとえば
唯識とかの
さとりに達するための修行に障害がある
有覆無記に依存しているのなら
(「仮設としての」という意味で)
誰もが成仏するわけではない.五性各別 >他と争う
桃太郎師匠のことは
どうなのか?わからないけど
仮設としての
自分(ID:h8B5yIT)の場合は
無明に依存して
我癡・我見・我慢・我愛に依存して
我所も・我も
実有なるものとして捉え
妄想分別して
妄想の渦の中に巻き込まれて
>涅槃に至れる道理はない
という感じでおじゃります m(_ _)m >>涅槃に至れる道理はない
なんども言うけど、日蓮仏法は「仏界」を開く教えなので、
そもそも、阿羅漢とか、そんな方便は求めていない。でおじゃります m(_ _)m よ。(笑
やれやれ〜。でおじゃります m(_ _)m そろそろ理解して頂きたい。でおじゃりますよ 。m(_ _)m
念のため言っとく。でおじゃるよ。
末法に於いては、釈尊の法華経でさえも仏果は得られない。でおじゃります m(_ _)m
日蓮大聖人曰く
「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」
と仰せです。所詮、天台や伝教もこっそり唱えていた「南無妙法蓮華経」しかない。でおじゃります m(_ _)m
もっと「法華経」を研鑽し、出来れば日蓮仏法も研鑽すれば、なお良し。でおじゃります m(_ _)m
いずれ、分かるときが来るでおじゃります m(_ _)m
人生にはいずれ必ず乗り越えなければならない「試練」の時があるでおじゃりますよ。
その時こそ「日蓮仏法の真価」がわかるでおじゃります m(_ _)m
仏教は観念論ではないでおじゃります m(_ _)m。
現実の不幸や苦しみから逃避するのではなく、
それを悠々と乗り越える大生命力(仏の生命)を開く方法を教えたのが本当の仏法であり法華経なのでおじゃります m(_ _)m。 日蓮仏法(苦笑)だの法華経だのでゴータマブッダの直説を否定するのは正法誹謗でしかない
本物のブッダの言説とは比較にもならない >>807
釈迦在世に論争してみても、あまり意味ないでしょ。
釈迦自身が判定すれば済む話。
問題は、滅後の事で、なかんずく釈迦仏法の白法隠没の末法の時代は、邪法邪義がはびこり
小乗、大乗入り乱れて、どれが正しい教えなのか分からなくなってしまうと、経典には説かれてあります。
ならば、それを糺す必要があります。
涅槃経に云く
「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし
是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子真の声聞なり」云云、
誤った思想や宗教は人々の不幸の元凶となるように、その影響は極めて大きいと言えるのです。
大聖人の時代は末法の始めでしたので、その様相は極大でした。
ゆえに、日蓮は身命を惜しまず「四箇の格言」を言い放ったのです。
しかし、現代に於いて「四箇の格言」を公に言えば却って法を貶める事になりかねない。
だから、世界広布の時代に他宗教を信仰すれば地獄に墜ちるなどとは公に軽々しくは言わないのです。
それは、時代と共に衆生の機根、国土世間に応じて柔軟に布教して行くと言う仏教の寛容さゆえんでしょう。
いわゆる仏教で説かれる「随方毘尼(ずいほうびに)」という法門です。
ただし、こうした場(安全なアウェイですが)では、お互いに思うまま率直な意見や考えを披露し合うことは、
大変貴重な仏教研鑽の場となると桃太郎は考えておじゃります m(_ _)m
※まぁ、すぐにカッカくる人間はあまり法論には向いてないかも。
さあ!この桃太郎に「こりゃあ〜一本取られたよ!」と言わせてみてくれ給え。(笑 「他の説を誹謗せず、自らの説を称賛せず、比丘達よ、ただ一心に、涅槃の道を修習せよ。
他と争うような者が、涅槃に至れる道理はない。
「他の説を誹謗せず、自らの説を称賛せず、比丘達よ、ただ一心に、涅槃の道を修習せよ。
他と争うような者が、涅槃に至れる道理はない。
「他の説を誹謗せず、自らの説を称賛せず、比丘達よ、ただ一心に、涅槃の道を修習せよ。
他と争うような者が、涅槃に至れる道理はない。 >ゴータマブッダの直説
早速だが、釈迦の直説など存在しない。
仏教は弟子が編纂したもの。
君曰く「こりゃあ〜一本取られたよ!」ってか?(笑 >越えなければならない「試練」
たとえば
テラワダとかの場合は
「試練」ということではないと思うけど
世間を超えて
そして
出世間へ
そのためには
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
上座部のパオ・セヤドー
…通常、四界分別観から修行を始めなければなりません
[PDF] パオ・セヤドーのサマタ・ヴィパッサナー瞑想
…心によって作られるものも
地水火風
最小の構成要素にまで分解して
「実有なるものも
魂も、自我なども存在しない」と観察する 直弟子が編纂したものは直説
法華経の様に数百年後の誰かが直説を装おったものは非直説
時間が空くほどに情報の誤差が大きくなり 確度も下がる
その意味で日蓮仏法は末法だという事は出来るが正法という事は出来ない
何より日蓮がブッダでない事はその言説の性格の違いからも明白で有る 愚か者が人に生まれるのは奇跡
たとえば、穴の一つ開いたくびきが海に浮かんでいて、一匹の盲目の亀が百年に一度浮かびあがって、たまたまそのくびきに頭を突っ込んだぐらいの奇跡。
「それはどうしてでしょうか。弟子たちよ、(地獄、畜生、餓鬼といった)悪趣には、法に適う行いがなく、正しい行いがなく、善を積むことがなく、徳を積むことがないのです。
弟子たちよ、そこには足の引っ張り合いがあり、弱肉強食があるのです。
弟子たちよ、そのようにして、その愚か者が幾久しい歳月の後に人という境涯にやってきますが、そのときには、卑しい家−−チャンダーラの家、猟師の家、竹籠作りの家、車作りの家、あるいは屠殺者の家に生まれ変わります。
・・・そこでは衣食を得るのが難しいのです。
それでかれは容色悪く、容貌醜く、病気がちです。
目がつぶれていたり、手が曲がっていたり、足をひきずっていたり、半身不随であったりします。
また、食物や飲み物や衣類や乗り物や花環や香料や塗油や寝具や家屋や灯明も手に入れることができないのです。
かれは悪しき行いをし、悪しきことばをしゃべり、悪しき考えを抱いてから、死んで肉体が滅んだ後、幸なきところ、悪い行き先、落ち行く先である、地獄に生まれます」
博打ですべてを失ったとしても、地獄に行くことに比べれば取るに足りない。「弟子たちよ。これこそ、まさに愚か者の完成する境地なのです」
(中部経典 第一二九経 癡慧地経) 桃太郎は自分に都合に悪いコメントは無視するから、お話にならないよ。 この教えが唯一無二だぞと言って他人をマインドコントロールさせるのは邪見といって、
かなり重い罪になるよ。こちらから見てて、言えることは、桃太郎は創価学会の法華経を
唱えて、サマタ瞑想で心解脱したと。ただそれだけだよ。
サマタ瞑想には危険性があるから、合う合わないがあって、その危険性を創価精神病
で、説明してるのにアンチ創価で一蹴。
しかも、慧解脱についての知識は皆無。法華経がコーランに変わっても同じことだと
思うよ。 >慧解脱
ご教示ありがとうおじゃります m(_ _)m
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/42/2/42_2_574/_pdf/-char/ja
心解脱.慧解脱
心解脱
諸々の有漏
あるいは貪・瞋・癡からの解脱
慧解脱
止を修習すると心が修習される
心を修習すると貧が断じられる
観を修習すると慧が修習される
慧を修習すると無明が断じられる
貧に染汚された心は解脱せず、無明に染汚された慧は修習されない
貧を離れることから心解脱があり
無明を離れることから慧解脱がある
_ _ _
たとえば
仏性からの真如縁起とか?の場合なら
(仏の智慧をもって)
慧解脱をもって
無明を離れるのなら
(無明に依存している)諸々の有漏からも離れる
という感じ?もする
テラワダか?大乗か?
https://twitter.com/nhk_news/status/1164489988404326400
寺の住職が
後続の車に対して急ブレーキを繰り返す「あおり運転」を行ったうえ
車から降りてきて
運転手の胸倉をつかんだとして、警察は暴行の疑いで書類送検
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 相変わらず、つまらんレスが続くなぁ。(笑
瞑想している割には、すぐにぶち切れるし、
文章の節々に、どろどろとした憎悪の欠片が見受けられる。
瞑想しても大して自分を変えられないなと実感しているのではなかろうか?
それから一部の事例を持ち出して、レッテルを貼り、全体を悪しく評価する。(ダメだよこうゆうのは。)
>>802 >>821
こうした思考の誤りが、世界に争いを起こす要因となる。
ネットでも、「朝鮮人」という奴らは...とか、韓国人をひとまとめに馬鹿にしたり、中国人を馬鹿にしたり。
要するに、「人間」という次元で見ていないのだ。どんな組織、どんな国にも必ず善人もいれば悪人もいる。
そこを見ないから簡単にメディアや権力者に煽動され誤った道に突き進んでいく。
問題の要因はなにか?そこを冷静に慧眼をもって観察していくことが大事だ。
今後、下劣なレスにはコメントする価値も無いのでスルーするよ。
日蓮大聖人は仰せだ。
「おのづから・よこしまに・降雨はあらじ・風こそ夜の・窓をうつらめ。」と。
※雨が自ら横殴りに降ることはない。風が吹くからこそ、雨が横殴りに降って、夜の窓を打つようになるのである。
誤った思想、哲学は人々を不幸にする。
逆に不軽菩薩のごとき正しき生命尊厳主義に立てば、必ず世界は平和になる。
そして娑婆世界を寂光土に変えていけるのです。 >>1
には預流果の方々..とあるが、ネットで遊んでいる君たちの中で、
いったい何人の方々いるのでしょうか? 出来る事ならHNで登場して頂きたい。
中には「預流果以上ですよ。 」と豪語する方もいるし。 >>682
>それで馬鹿にされても怒りを表現しようとは思いません。
>その程度には悟っています。
実によい対話の姿勢だと思います。
さて、この桃太郎が考えるに、
原始仏教に詳しい、水野博士や植木雅俊先生の論文にあるように、
>小乗部派仏教の僧侶達は、比較にならないほど高い存在とみて、
>ともかく自分達は阿羅漢(聖者)になることだけをめざしていた。
>彼らには、自分達が仏になれるとは、まったく考えも及ばないことであった。
>これは、原始仏教団に特徴的な考え方で、そのために彼らは四諦八正道の修行につとめている。
現状、この結論は揺るぎないと思える。
ただ、今後研究による仏教の歴史的考察により、結果が多少違ってくるにしても
大乗仏教から見た小乗仏教の認識は現状変わらないようだ。
これを前提に考えると 「仏>>>>>阿羅漢」と思われる。
テラワダ信者の君たちは、これに対し彼らの誤りであり「認め無い」とするのだろうか?(仏=阿羅漢 ※完全一致と考える)
もし「認める」のならば、
「仏を自分達よりも、比較にならないほど高い存在」とは、どう言う事なのか説明出来る人はいるかい?
仏と阿羅漢の決定的な違いと、かつて部派仏教の僧侶達が「仏」になること諦めざるを得なかった理由とか分かる人いる? 法華経には
「諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり。
一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり。」
と明確に記されてある。
これは大阿羅漢の舎利弗ですら、仏の智慧には遠く及ばないと言っている。
世俗の中で暮らしネットで遊んでいる人間が、ちょいと瞑想したからと言って
仏の悟りの一部を手中にできる程、底の浅い教えである筈が断じて無いと私は思うのだが。
凡夫と仏の智慧の差を喩えるのなら、
恐らく「文字も書けない幼児」と「大学の教授」ぐらいの差があるのではなかろうか? いやそれ以上かもしれない。
そんな、幼児に教授がいきなり「相対性理論」を説くことがあるだろうか?
初期仏教に於いて、仏教を何もわからない衆生に「仏の真実の教え」を釈尊はダイレクトに説くだろうか?
桃太郎が考えるに「仏の真実の教え(法華経)」を理解出来る下地(智慧)を説いたのではなかろうかと推察する。
それが、小乗教であり権大乗仏教であるというのが、天台、伝教、日蓮の教えなのです。
経典の成立時期が早いから正しく、遅いから間違いというのは、実に浅い考えだと思う。
末法に於いては、そうした様々方便に執着して様々な宗教が乱立し衆生を惑わせている。
ようするに宗教、思想の混乱が世の中の人々を不幸にしているのです。 仏の悟りを仮に「リンゴ」だとする。
そして、このリンゴは仏が修行の末に手に入れて、仏のみが食する事が出来た。
もう、この世にリンゴは存在しない。
だれも食べることが出来ない、このリンゴの形、味をどのようにして、衆生に悟り知らしめる事が出来るのか?
しかも、教える相手は理解力のある「上根の衆生」もいれば、なかなか理解出来ない「下根」の衆生もいる。
すべての衆生を平等に救いきるにはどうしたよいか。仏はそれを大慈悲の智慧を駆使して考えた。
で、リンゴは甘酸っぱい。
「甘いとは」どう言う事か?「酸っぱい」とはどう言う事か? そんな風に仏は順序よく一つ一つ教えを説いったであろう。
それが初期仏教であり爾前教であると思われる。
戒律を重んじ、貪瞋痴を滅し、禅定による心の平静を教えた。
ようやく衆生は、甘い、辛い、酸っぱい、塩っぱいの意味を知る。
堅い、柔いも、白い赤いも意味が理解出来るようになる。
そこで、やっとリンゴの実体を悟り知る下地が出来た。
その実体を、釈迦は法華経の如来寿量品の底に沈めて説き、弟子はそれを長い修行の末に悟って得道した。というわけだ。
で、ここが大事
日蓮大聖人の仏法は「このリンゴを直に食べる」。だから、釈迦仏法とは比較にならない。
南無妙法蓮華経は「リンゴ」そのものと言える。
ゆえに曰く
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」 >創価学会の創価ってどういう意味?
いい質問だ!(笑
価値創造って意味だよ。 http://manikana.la.coocan.jp/canon/husatsu.html
三度目に、尊者アーナンダは、夜も更け後夜分を過ぎて、暁がやってきて夜が白んでくるころ、座より起ち上がって、一方の肩に衣を掛け、尊師の方に向かって合掌して、尊師にこのようにいいました。
「尊師よ、夜も更けています。後夜分が過ぎて、暁がやってきています。夜は白んでいます。比丘たちの集団は久しく坐っています。尊師よ、戒の条文を説いてください」
「アーナンダよ、衆会は清浄ではありません」
そこで、尊者大モッガラーナはこのように思いました。「尊師が、『アーナンダよ、衆会は清浄ではありません』と、このように述べたのは、どの人物に関してであろう」
そこで、尊者大モッガラーナは、比丘の集まりすべての者を、心によって心を知って、注意深く意識しました。
そして、尊者大モッガラーナは、その人を見ました。(かれは)戒も守らず悪しき法をもっていて、清らかではなく疑いを起こさせるような行いの人で、仕事に至るまで覆われていました。
沙門ではないのに沙門と公言し、清浄行を行っていないのに、清浄行を行っていると公言していました。(かれの)内面は腐って(中から汚れが)漏れ出して、汚濁の中から生まれて、比丘たちの集まりのまん中に坐ってしました。
(大モッガラーナは)見終わって座より起ち上がり、かの人のいるところに近づいていきました。近づいて、その人にこのように言いました。「起ちなさい、友よ、あなたは、尊師によって見られています。あなたは、比丘たちと一緒に住まいすることはなりません」
しかし、その比丘は、黙っていました。
再び、尊者大モッガラーナは、その比丘に言いました。「起ちなさい、友よ、あなたは尊師によって見られています。あなたは比丘たちと一緒に住まいすることはなりません」
二度目も、その比丘は黙っていました。 http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/kaijoue-06.htm
戒(かい)
「象跡喩小経」に13段階の修行道を説いている。
段階は、「法を聞き、信を得て、出家する」。
段階が、「戒の完成」である。(イ)身の行いを清浄にする、(ロ)語(くち)の行いを清浄にする、(ハ)生活を清浄にする、の3つに分類される。その3つの内容は、おおよそ次のとおりである(2)。
(イ)身行清浄とは、殺生をしない、武器を捨てる、恥じる心を持ち、慈悲深く、生けるものの利益をはかり、共感をもって暮らす。盗みをしない。非梵行を捨てる。性交を断つ、など。
(ロ)語行清浄とは、盲語から離れる。正直で誠実で、世間をあざむかない。二枚舌を捨てる。
人の間を裂こうとして告げ口しない。仲たがいした人を和解させる。和合を愛し楽しみ喜び、和合をもたらすことばを語る。悪口を言わない。綺語を離れる。ありのまま、意味あること、法、戒律を語る、など。
(ハ)生活清浄とは、草木を破壊しない、一日一食、舞踊・観劇から離れる、装身具をつけない、金銀を受領しない、家畜・土地・家はもらわない、商売から離れる、賄賂・篭絡・詐欺などの不正を離れる、障害・殺害・拘束・追剥・略奪・暴行から離れる。
「このような聖なる一群の戒を身につけ、内心に無罪の安楽を享受する。」 阿羅漢果の悟りは仏陀の悟りと同じだろ
しかしその悟りを発見し人に説いた存在として仏陀は別格視される
菩薩とはテーラワーダでは悟る前のゴータマさん
大乗では一切の衆生が菩薩
法華経では一仏乗であり、預流果以上と菩薩と独覚者は同等 法華経は「ブッダの教え」ではない
創価学会は冥想の実践をしていない
∴法華経及び創価学会はこのスレではスレ違い そうやって皆が彼等の話題をすれば工作活動は成功だからスルーした方がいい
>ネットでも、「朝鮮人」という奴らは...とか
https://twitter.com/ModJapan_jp/status/1165121978849562624
防衛省・自衛隊 @ModJapan_jp
2019年
【お知らせ】
8/24、「北朝鮮よるミサイル発射について(続報)」
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) ブッダ直説の教えに触れられない時代・地域において、
ブッダ直説の教えを知ることができないか、または聞いても理解できない人々のために
説かれた方便が大衆向け仏教だという前提的理解に立つと、
ブッダ直説の教えに触れられる時代に、
ブッダ直説の教えを理解できる人が、
ブッダ直説の教えを理解できない人のために説かれた方便に頼る必要はないのです。
法華経がナンバーワンで一番凄いんだぜ、というのは
以下自粛します。 三宝に対する信が確立できたならば、あとは遅かれ早かれ彼岸に達するわけだから
自分にあった法門、つまり信じられるもの=相性にあったもの=機根にあったものを
選べばいいんだと思いますよ。
どのみち、遅かれ早かれ四諦八正道を実践することになるはず。
すでに四諦八正道を行じている人、三宝への信が確立している人が、その前の段階に
戻る必要はないでしょ。 >>844
三宝の内 仏や法は目に見えず 僧衣は見えても僧が中々見つからない
殆どは何らかの戒に異背したままの僧衣を纏った俗人ばかりが目につく昨今で 最も得難いのは真の僧侶です
自ら身を但す 戒と律に忠実な僧を通じて始めて仏法が得られると考えています >>845
出家の戒律は、比丘たちが集団で生活している場所ならば、つまり個人ではなく
比丘集団=サンガとして生活している環境ならば、しっかり守られていることが
期待できると考えます。
帰依処とすべき僧団を選定する時のポイントの1つは、比丘(個人)ではなく、
サンガ(集団)としてみるということではないでしょうか。 比丘戒律の運用の仕方は、比丘同士が相互に戒律をチェックし合う仕組みになっているからです。 二か月以上続けたヴィパサナー瞑想を断念することにしたわ
地橋氏の本や動画を何度も読んだり見たりして無理やり信じ込んでたけど
Eテレのサイエンスゼロの動画を見て始めたのがきっかけだが、これで頭が良くなるなんて信じられない。
やっぱり、リトリートを経験しないと駄目なんだろうな。 歩く瞑想一年くらいすると変わるよ。心を清らかにしようと思わないで、特殊能力が
欲しいとか、そういうのだと厳しいと思う。 >>846
最近タイの高僧が戒律違反で国外逃亡迄して逮捕された事例が有りましたよね?
サンガの比丘だからという理由だけで 信用してはいけないというまるでカーラーマ経を地で行く様な事件だなと思っています >>848
2ちゃんやってるのが一番良くない気がする。 歩く瞑想はすばらしいよ 苦るしみが大いに軽減したわ
歩く瞑想はまさにマインドフルネスになってるからマインドフルネスやりたいなら
歩く瞑想 阿羅漢でも涅槃を生きるのは死んでいくときの(入滅)僅かな間だけです
阿羅漢に悟っても実際は肉体から生ずる僅かな欲、そこから生ずる僅かな苦を滅し続けるということでしょう
八正道によって
それはテーラワーダの世界のこと
テーラワーダのパオで全て修了した山下さんは大乗の世界観を取ります
煩悩のない境地の自分を生きろとは言わない
山下さんが言っているのは人間は二重構造だということです
思考をする自分とメディテーションをする自分です
煩悩を滅尽しなくともメディテーションをする自分(すなわち青空=第五図=涅槃)を見出すことが出来る
日常は思考の自分とメディテーションをする自分の二重構造だと言ってます
しかし、それを見出すには飛躍が起きないとならないし
それを見いださない限り本来の意味でのマインドフルネスも瞑想も出来ない
俗に言うマインドフルネスも効果はあるけれど
本来のマインドフルネス、瞑想の前段階
その段階では何となく気が楽になるけどモヤモヤが完全に無くなることがなく、スカッとしない 山下さん以外の、テーラワーダのパオで全てを修了したほとんどの比丘は
いまどこでどうしてますの?
日本人でもないと思いますけども。 山下師含め三人しか居ないと聞いた
一人はカナダ、一人は何やってるのかわからない > 日本人でもないと思いますけど。
カナダの人のこと思い浮かべてしまったけど
その人のことではないとすれば
日本人以外全てを含めたら沢山居るでしょう
多くは比丘になってるのでは >>857
山下のその話もどこまで本当なのやら怪しいもんだがな パオには、パオメソッドなるものも修了という制度もない
山下が言っているだけ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています