>煩悩を全て断じた人のことだよ。

その考えが、そもそも、勘違いなんだよ。
初期仏法に於ける方便なんだよ。

舎利弗、吾(われ)成仏してより已来(このかた)、種々の因縁・種々の譬喩をもって、
広く言教を演べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著を離れしむ。

というのは、その事をいってるんだよ。

>>700

釈迦は、この人生は苦であると教えたけれども、そこにとどまっていたわけではない。
苦の人生を離れようとするのではなく、「生老病死の苦を明らかに見て、それを克服しようとした。
そこに仏教の真髄があったわけです。」

ハイ!ココ注目!

端的に言えば、現実に「煩悩を断ずる」とは、人が生きて生活している以上は不可能です!
仏は観念論ではなく、現実をありのままに観察せよ。(如実知見)と教えたのです。

>明らかに見て

とはそういう事です。

では、「煩悩を断ずる」という事はどういうことかと言うと、
「煩悩に執着する自身を明らかに見よ!」という事でしょう。

だから、「如蓮華在水」と喩えるのです。※蓮は泥水の中で、しかも泥に染まらず美しい花を咲かす。
仏は五濁悪世に自ら飛び込んで、しかも偏った煩悩や執着心に染まることなく一切衆生を救済するのです。

法華経で説かれる一念三千の法門や十界互具を理解すれば、煩悩を断ずることは、そのまま仏の生命をも断ずる事になるのです。
そんなことはあり得ません。それがまだ君たちには理解出来ないのです。

仏が一切衆生を「仏にしたい」という思いはまさに仏の「大煩悩」です。
これを断ち切ったらもはや仏とは言えないのです。