【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践17
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お釈迦さまの教えとサマタ・ヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践16 [転載禁止]
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1551435418/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会や
そこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など
多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違い
もあります。
そこを踏まえてご参加ください。 しかも法華経如来寿量品において
我実に成仏してより已来(無量無辺百千万億那由佗劫)
※釈尊は今世で仏になったのではなく、久遠の昔から仏であった事を明かします。
そして、その得難き尊き法を「妙法蓮華経」として一切衆生に説いたのです。
その事を
舎利弗、吾(われ)成仏してより已来(このかた)、種々の因縁・種々の譬喩をもって、
広く言教を演べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著を離れしむ。
と、大阿羅漢の舎利弗に諭すくだりがあります。
また曰く
舎利弗、如来の知見は広大深遠なり。
無量・無碍・力・無所畏・禅定・解脱・三昧あって深く無際に入り、一切未曾有の法を成就せり。 仏と阿羅漢の違いは、まぁなんちゅーか。
例えば、王貞治 VS バットも振ったこともない野球オタク な感じかね?
理論や知識は同等かもしれんが、ぜんぜん比較にならないよね。
それに、やってみらないと分からない「感覚」も得られないしね。
同じように、仏は菩薩です。菩薩行の中にしか、仏の智慧は獲得できないと言って良い。 桃太郎は、心解脱と慧解脱の違い分かって無いらしい・・・。
自分が預流、一来、不還、阿羅漢の何処にいるかも分かって無いらしい。
ホケキョ唱えとけば良いんじゃないの? 阿羅漢は理論家や知識があるだけの存在ではなく、煩悩を全て断じた人のことだよ。
その点において仏陀と同等ということ。
それが一番重要な事実であり、それが全てだよ。 >煩悩を全て断じた人のことだよ。
その考えが、そもそも、勘違いなんだよ。
初期仏法に於ける方便なんだよ。
舎利弗、吾(われ)成仏してより已来(このかた)、種々の因縁・種々の譬喩をもって、
広く言教を演べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著を離れしむ。
というのは、その事をいってるんだよ。
>>700
釈迦は、この人生は苦であると教えたけれども、そこにとどまっていたわけではない。
苦の人生を離れようとするのではなく、「生老病死の苦を明らかに見て、それを克服しようとした。
そこに仏教の真髄があったわけです。」
ハイ!ココ注目!
端的に言えば、現実に「煩悩を断ずる」とは、人が生きて生活している以上は不可能です!
仏は観念論ではなく、現実をありのままに観察せよ。(如実知見)と教えたのです。
>明らかに見て
とはそういう事です。
では、「煩悩を断ずる」という事はどういうことかと言うと、
「煩悩に執着する自身を明らかに見よ!」という事でしょう。
だから、「如蓮華在水」と喩えるのです。※蓮は泥水の中で、しかも泥に染まらず美しい花を咲かす。
仏は五濁悪世に自ら飛び込んで、しかも偏った煩悩や執着心に染まることなく一切衆生を救済するのです。
法華経で説かれる一念三千の法門や十界互具を理解すれば、煩悩を断ずることは、そのまま仏の生命をも断ずる事になるのです。
そんなことはあり得ません。それがまだ君たちには理解出来ないのです。
仏が一切衆生を「仏にしたい」という思いはまさに仏の「大煩悩」です。
これを断ち切ったらもはや仏とは言えないのです。 そうかがなんで瞑想スレにいるの?
そうかも瞑想するの? >>729
煩悩を断じるということが分からない、方便であると考えるのは、
あなたが悟りの初門にも達してないからとしか思えない。
あんたは仏教を人に教える資格はない。 悟ってもいないのに自分が信じているある特定の仏教を人に広く教えようとするのは、
教えられる人にとって害であると言っています。
あなたにとってもよい業にはならないので止めた方がいいと思います。 >悟ってもいないのに自分が信じているある特定の仏教を人に広く教えようとするのは
それは君だって同じゃないのか?(笑
悟ってテラワダ教えてんの?
桃太郎ごときに、すぐ怒りを露わにするぐらいなんだから、悟ってるわけないよね。
まぁそれはいい。(笑
末法の御本仏 日蓮大聖人はこのように仰せだ
「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、
我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」
「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、
信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり」
私がここに書き込む理由はそれだけだよ。
それに為にはなっても害にはならないよ。たぶん。(笑 >>733
あんたが言ってることは全部的外れ。
私は特定の宗教を信仰してないし、大事にしてるのは智恵によって理解した事実と真理だけ。
で、あなたに智慧はあるんですかね。あるようには見えないんだけど。
偏屈な、ある特定の宗教を信じてる凡夫にしか見えないんだけど。 宗教を信仰することは否定しないし、いいことだとすら思っているけど、
狂信的になって他を排斥するのは間違っている、というのが私の意見。
創価を否定するつもりはない。いいところも当然あると思っているんで。 >如実知見
何を信じるか?は
その人それぞれだと思うけど.それでも.とりあえず
上座部の
「パオ・セヤドーの瞑想」「如実知見(PDF)」を参照 ヨロ m(_ _)m
邪見 − 間違った.考え方・見方
観禅正見 − 世間的な正見
道正見 − 出世間としての正見
_ _ _
これに基づくなら.世俗的・世間的のような
法華経とかは.世俗的・世間的に留まっている
方便.対機説法という感じがする.それゆえに.やはり
http://www.horakuji.com/BuddhaSasana/Theravada/paritta/Metta_sutta.htm
空海が『法華経』を「薬の効能書き」と評したように
ただその効能・功徳が列挙されているだけで、具体的・実践的な指南はありません
_ _ _
道正見 − 出世間としての正見とかを目指すのなら
テラワダの.戒・定・慧・解脱・解脱智見とか
密教とかも良いんジャマイカ? 桃氏もヴィパッサナーやりなよ。南無妙法蓮華経唱えるのは、一種の念仏
だから、効果あると思ってるよ。ただ、それでは、心解脱にはなるが、
慧解脱にはならないと言うお話。 仮設としての
輪廻を繰り返し
無始からの無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
− この無明薫習に対処する為に −
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/42/2/42_2_574/_article/-char/ja/
心解脱と慧解脱
慧解脱について
止を修習すると心が修習される
心を修習すると貧が断じられる
観を修習すると慧が修習される
慧を修習すると無明が断じられる
貧に染汚された心は解脱せず、無明に染汚された慧は修習されない
貧を離れることから心解脱があり、無明を離れることから慧解脱がある >>734
どうにも怒りが収まらないようだね。(笑
仕方の無い事かもしれないが。まぁ冷静になりなさい。
>大事にしてるのは智恵によって理解した事実と真理だけ。
問題はその「智慧」とやらなんだよ。
釈迦在世に、師である釈尊が認めた智慧ならまだしも、
客観的な検証が出来ない限り、その智慧はあたなの境涯で知る智慧でしかない。
「事実」と言い、「真理」と言ったところで、それは凡夫の貴方の智慧の範疇を越えることはない。
しかも、自身の智慧を何の疑いもなく信じている。そこに瞑想修行の大きな落とし穴があるのです。
自分では相当修行が進んだと思いきや、桃太郎がちょいと意見した程度で、たちまち修羅界を生ずる。
これが現実です。小乗教はこの怒りの心さえも断じようとするのですが、それは、理性に反しているとあなたも気づいたでしょう。
大乗はこの本然的な心の働きを「断ずる」必要は無いのです。また断じてもならないし、断ずとことも出来ないのです。
そしてあなたが、どの段階の悟りを得ているか知りませんが、
果たして舎利弗のような大阿羅漢と同じ悟りなのかどうして検証できるのでしょうか?
あくまでも自己判定するならば、「瞑想ごっこ」と揶揄されても仕方が無いではありませんか。
>狂信的になって他を排斥するのは間違っている
私の意見を言っているのであって、どうして排斥することが出来るのでしょうか?
不可能です。それに私は極めて冷静で理性的に話をしていると思っているのですが(笑 >>736
>>716 を参照してね。
なーにが
>具体的・実践的な指南はありません
だよ。(笑
ちょー具体的、実践的だよ。
ちゃんと読んでからレスしろよナ! >ちゃんと読んでからレスしろ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C
大乗の波羅蜜にも
禅定波羅蜜
禅那
特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること
般若波羅蜜
慧は、慧波羅蜜とも呼ばれ…
智波羅蜜
智は、万法の実相を如実に了知する智慧は生死の此岸を渡りて、涅槃の彼岸に到る
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf
そして
大乗の中論にも
第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
無明の停止は.瞑想と知恵(智)を通して生じる
青目(ピンガラ)の中論.觀法品第十八
八正道を修習しながら
我と我所との因縁を滅すれば
無我や無我所という決定した智慧を得る
_ _ _
法華経に
戒・定・慧・解脱・解脱智見のための
たとえば
悟りに至るための菩提分法のような
具体的・実践的な
メソッド方法についての方便があるのか?ということ 「一番優れた仏教(をしている自分)」という執着を利用した方便なんだろうな、と思ってる。>法華経信仰、とくに日蓮系 乱暴なことを言うようだが、預流果も阿羅漢も菩薩も同じだろ
預流果と阿羅漢は苦の抜け具合が違うだけだが
一度は全ての苦が落ちている
菩薩は浄土の確信から世俗に入って救済を行うが、苦が抜けかたは不明
しかし、一度は全て苦が落ちている
つまり預流果以上ではあるだろう
要は涅槃、浄土に人間の救済を見て確信を持っているのだから同じ
そこに仏は現れる
実際のところ、預流果、一来果あたりの方、仏は現れますよね?
もう仏の世界に住まわせてもらってるはずだ
それは本人にも仏が現れてるからだと思うよ
大乗の立場からはそれくらいガバっと広く考えて良いと思う というか、預流果と阿羅漢はカルマの落ち具合といった方が正確なのかな 大体が日本の末法の世なんて南伝に触れてないんだからw
日蓮とかはいくら悟ってても頭で描いた南伝の世界なんだろ?
今の時代、認識アップデートしなきゃいけないと思うよ
日本大乗は 預流果、一来果で断じられる煩悩は、十結のうち三結だけ。
五下分結を断じた不還果でも、まだ慢、掉挙、色貪、無色貪といった五上分結が残ってる。
阿羅漢果でようやく慢や掉挙を含めて十結すべてがなくなる、とされていたと思います。
ということは、阿羅漢でもない限り、完全に自他の区別がなくなっているわけではない、という
ことだと理解しています。 >>742
>「一番優れた仏教(をしている自分)」という執着
はぁ? それが普通じゃないの?執着して何が悪いんだろうか?
仏教だろうが、どんな宗教であろうが、修行者は皆、自分の「一番優れた教え」を修業していると思っているよ。
何かい君は、「俺は3番目に優れた教えを修業している」とでも言うのかい?(笑
誰でも、自身の理解の範疇で、絶対一番優れていると思う教えを信じているはずなんだがね。
それを、「執着」といって間違っているというのなら、大抵の修行者は間違っている事になるよ。 >>743-745
大半は君の自説じゃないか。
あたかも仏説のごとく書いているけど。(笑
そーいうのを「オレオレ教」というんだよ。
代表的なのが「オーム教」だね。
勝手な解釈が、取り返しのつかない結果を生むことになる。
だからやめなさい。
オレオレ教には興味がありません。 >>747
だからといって他宗派、他教義に対して劣った教えだなどと貶めてはならんと思います。 素朴な疑問だけど、勝手な解釈って五事八教説にも当てはまることじゃないの?
仏教文献学によると、信頼することはできないという結論になっているようだけど。 仮設としての
輪廻を繰り返し
無始からの無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
この無明薫習に依って
たとえば
仮設としての
>>747 桃太郎 ID:FqIyye7T師匠が依存している
無明により
渇愛により
我癡・我見・我慢・我愛により
「一番優れた教え」を修業している
と掴もうとしている想いも
刹那生滅して
現れて → 滅して → また現れて → 滅しているので
実有ではなく仮有なるもので
散りゆく桜と人生の儚さというように
仮設としての.仮の現れなので.それゆえに
http://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
坐禅中の心構えを一口にいうならば
坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい.そうして
(実有ではなく.夢・幻のような.空性だからこそ)
「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません >>750
>信頼することはできないという結論になっているようだけど。
2,500年以前の話だから、どれも推測の域を超えることないが、いずれ研究が進めばハッキリして来ると思う。
「信頼することはできない」というのは、「間違っているとも正しいとも言えない」という事だから勘違いしないようにね。
厳密に言うなら、原始仏教も滅後100年以上経って成立しているわけだから、信頼できないといえるし、
尚且つ、解釈の仕方に多くの異論があって、いくつもの部派仏教に分裂したんだから、なおさら信頼できない。
その完成度にも疑問が残る。
とは言え、大乗仏教でもそれは同じ事が言える。
だからこそ、教えの高低深浅を精査する事は大切なことなんだよ。自分の為でもあるし。
それを、「宗教ならどれでも尊いので、それなりに価値がある」なんていい加減な考えをしてきたゆえに
日本人の宗教観は、外人さんもあっと驚く「神社で日明き、教会で結婚、仏教で葬式」みたいなチャンポン教に成り下がってしまう。
しかし、それをムキになって批判しても仕方が無い。
そこで、創価学会の日蓮仏法は「現証」を重視する。
ここが、他の宗教と決定的に違うところだと思う。
よく「現世利益」を批判する人がいるけど、それは結果を出せない坊主が言う、うまい言い訳に過ぎない。 糞太郎さん糞太郎さん
お腰につけた新聞を
一部わたしに下さいな♪
やっぱ要〜りません要りません
聖教新聞要りません
政教分離もしてません♪ >>752
レスありがとう。
ただ、とりあえず現代仏教文献学によると、大乗経典は釈迦の直説ではなく、
後世の大乗仏教徒が創作した仏教文学のようなものと考えられているよう。
とりあえず最新の研究ではそのようです。 >厳密に言うなら、原始仏教も滅後100年以上経って成立しているわけだから、信頼できないといえるし、
原始仏教というのは釈迦在世時の教えの事
仏滅百年後に編纂されたのは原始経典の方だから用語を混同してる
要はブッダがいてその指導で悟りを開いた阿羅漢達がいて 互いの悟りを相互保証出来てたのが釈迦が入滅し 直弟子達も世を去った事で教えを受け取る側に揺らぎが出て分裂したってだけ
日蓮系は僅か七百年でこれ程分裂してるのだから 分裂を不信の理由にするなら最も信用出来ない教えだという事にしかならない
言語の領域を越えた智恵を言語で理解しようとするのは不毛
現証云々で言うなら釈迦の指導で悟りを開いた弟子達が集まる事で本物だと認められた釈迦とそれ以外とでは大きく違うのだから日蓮も釈迦の領域には届いていなかったと考えるのが妥当 >>752
これからも無宗教の人が増えるのなら
生まれてから死ぬまでに一度も
神社にも.教会にも.寺にも.逝かない
という人も更に増えるかもしれない
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO40355490T20C19A1EAC000/
2019/1/23
オーストラリアで、キリスト教離れが進んでいる
https://www.cnn.co.jp/usa/35135718.html
2019.04.14
「無宗教」の米国人、カトリック教徒などと並んで最多に
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/06/6-50.php
2019年6月7日
日本では無宗教 70%
https://syukatsulabo.jp/article/1383
2018-10-08
1位.神社本庁.神道
2位.幸福の科学
3位.創価学会
_ _ _
金銭的に余裕があるのなら
神社.霊場巡りとかも
してみたい所存でおじゃります ヨロ m(_ _)m >>754
>大乗経典は釈迦の直説ではなく
原始仏教も直説じゃないよ。(笑
釈尊の直説など存在しません。
>大乗仏教徒が創作した仏教文学のようなもの
まあ、確かに創作した部分もあるだろうね。
ただ、法華経に於いては創作した弟子が仏と同等の智慧と境涯でなければ出来なかったろうね。
それを訳した鳩摩羅什も同じく優れた弟子だったと考えられる。
要は誰が書こうが、説かれた教えが正しければ良いのです。
例えば、数学書にせよ、化学解説書にせよ。それを読んでその通りに検証して、解説してある通りの結果が出れば、それは真実と言えるでしょう。
インチキ学者が書いても結果は出ません。それを極めた人間か書くから正しい結果を得るのです。
逆に、「これが真の教えだ」と言ったところで、客観的に現証を示すことが出来なければ、それは「観念論」であり、「妄想」と言っても差し支えないでしょう。
大乗仏教を「仏教文学のようなもの」と言うけれど、天台智の摩訶止観や一念三千の法門など、到底「仏教文学」というレベルじゃないぞ。
そう呼ばれるのは、大体「法華経」だろうね。(笑
アビダルマ仏教と比較すると、おとぎ話のような事しか説かれてないからね。 そこで、注目してもらいたいのは、「おとぎ話のような事しか説かれてない法華経」がなぜ最上第一の法門と呼ばれるのか?と言うことだよ。
@中国の南三北七といわれた十宗の諸師が、陳の国王の宮殿で法華経第一とする天台大師に完全論破され、皆天台の御弟子となったのはなぜか?
A日本に於いては桓武天皇が奈良六宗の大学者と最澄を召し合わせ討論せしめた。
結果ついに王の前で最澄から攻め落とされ、六つの宗派の主だった七つの寺が、一つ残らず最澄の弟子となった。
さらに最澄は天台がまだ打ち破らなかった小乗の別受戒を攻め落とし、法華経の円頓の別受戒を授けるべき迹門の戒壇を比叡山延暦寺に建立した。
仏教への求道心がある者なら、なぜ「おとぎ話のような法華経」に当時の代表的な碩学が論破されてしまうのだろうと思うんだけどね。
※それは法華経が釈尊の随自意の真実の教えであるからに他ならない。
しかもあらゆる経典の中で最も難信難解の法門であるから、機根の低い者には「おとぎ話」のようにしか見えないんだよ。 >>756
いやーどうかな?
いくら無宗教の人々が多くなっても、まだまだ、葬式仏教は健在でしょうな。(笑
まぁ、「坊主丸儲け」は、しばらく続くと思われます。
ところで、テラワダ信者はどういう葬式をするんだろうか? >755
>受け取る側に揺らぎが出て分裂
何? 「揺らぎ」って? 色々言いたいことはあるけど黙っとこ。
涅槃経に預流果が菩薩であると書いてあるからそれでいいじゃん。
涅槃経も法華経には劣るけどめちゃ重要な経典なんでしょ。
それで、桃太郎は自分のこと菩薩の境遇にあると判断してるの?
そう判断してるなら大変結構なことだけど、そうじゃないなら、
阿羅漢を仏と比較してコケにするなんて言語道断の不敬行為なんじゃない。
法華経にも書いてあることのようだけど、仏印みたいなのを、釈迦はまず阿羅漢達に最初に授けたんでしょ? 菩薩でないのなら、菩薩である預流果に対してすら既に敬意を持つのが自然な心であって、
まして阿羅漢には余計そうだろう。
菩薩なんだから大乗の教議でも仏になることは確定しているわけだ。 >>685
破戒僧スマナサーラが他宗教批判に興じるのは母国の破壊的カルトのやり方通りだが スマナサーラはスリランカ仏教の実態について延々嘘をついてきた
仏教では嘘を禁じている
スマナサーラを擁護するようなチンピラは縁なき度しがたき衆生 >>760
信の揺らぎだよ
このままのやり方で悟れるのだろうか?っていうね
そうなると解釈に間違いは無いかとあれこれ議論する様になって 次第に「私はこの様に聞いた」が「私にはこの様に思える」に変わるのは必至だからね NHKで植木さんの話していた法華経と桃太郎の態度は相容れない気がするんだけど ☆
今この現代において
「法華経だけが.もっとも重要な教えである」
と我執している人(たとえば桃太郎師匠)と
それ以外の人では
相容れない
折り合いが悪いかも
唯識
真言宗
天台宗
法華系・日蓮宗
浄土系
禅系
テラワダ
チベット
その他諸々
無宗教
色々あるので
「法華経だけが〜ぁ♪」とか逝ってると
「頭が.おかしい人か?」と勘違いされるかも
>NHKで植木さんの話していた法華経
ご教示ありがとうおじゃります m(_ _)m
植木雅俊 法華経
https://www.youtube.com/watch?v=KjUBvw7JPJw
この動画では
対立することなく
批判をすることもなく
という説明をしてるようでおじゃります
− これに対して −
桃太郎師匠とか
「法華経だけが」という崇拝信者とかは
他のものと対立してないのか?
他のものを批判してないのか?
ちなみに
自分(ID:VlUctomn)の場合は
無明に依存して
妄想分別して
対立も批判もしちょります スマソ m(_ _)m >>768
他が皆間違いで自分達だけが唯一の正当な教えだと信じる様に洗脳されてるから仕方ないよ
正宗系は辞めてからも引きずるらしくて発作起こすからね
可哀想なのは子供の精神疾患だよね
信者の子供が思春期に発症して入院する例が多いって専門職から聞いてる 参考
サンスクリット語からの法華経の新訳をされた植木さんによる概説
https://youtu.be/RGPgKzNoHVY
>>770
ご教示ありがとうおじゃります m(_ _)m
自分の知り合いには
創価信者の方々が多いので
「自分達だけが唯一の正当な教えだ」
と取り憑かれているようでおじゃります
− これに対して −
こんどは
自分(ID:VlUctomn)の方が
それに対立する
という感じでおじゃります >>769
かぶりました失礼
説一切有部派などいわゆる「小乗」と大乗の違いを乗り越えるための経典と説明されてますね
それぞれの腹に収まるように寓話を用いて融和の道を示しているわけで
なかなか良い番組でした、法華経読んでみたくなります
>>771
ご教示ありがとうおじゃります m(_ _)m
対立することなく
批判をすることもなく
という説明に続いて
その次の説明では
すべてに仏性があるとする
一切悉有仏性
という感じでおじゃります
_ _ _
今は.もう持ってないけど
https://www.iwanami.co.jp/book/b270312.html
法華経(上) ワイド版岩波文庫
たぶん創価とは関係ない書籍だと思う(たぶん?) スマナサーラと信者達のようなイッセンダイでも数京那由多刧に餓鬼道に輪廻できる
そんな可能性を信じて、生きてる ほぼ無限の歳月を経て破和合僧のスマナサーラ信者ですら地獄から一瞬帰る
そんな優しい教えを信じてしまいそうになる >>768
「法華経だけが.「もっとも重要な教え」である」と我執している人
>>769
「法華経だけが(もっとも重要な教え)」という崇拝信者
>>770
自分達だけが唯一の正当な教えだと信じる
>>772
>「自分達だけが唯一の正当な教えだ」
まったく同じような事ばかりを言っちゃてるけど、
私の意見は >>747 で書いた通りだよ。
なに、ブーメラン的な事言ってるんでしょうかね?(笑
皆、自分の信奉する教えを「最も重要な教え、唯一正当な教え」と思って修行してんじゃないの?
だからこそ、>>770 の人間のように
>信者の子供が思春期に発症して入院する例が多いって専門職から聞いてる (※どんな専門職が言ってんだよ!)
などと、平気で仏教者にあるまじき下劣な事を平気で言ってのけるんじゃないか。
桃太郎個人に対してならともかく、何の関係もない子どもを論争の具にするとは、普通の人間ですらしない愚行だと思うが如何?
※それに同調して>ご教示ありがとうおじゃります m(_ _)m とか言ってる人間も同じだ!
これで、「慈悲の瞑想」とか「預流向」とか言ってんだから、何の説得力も無いよね。
よく植木雅俊先生の「法華経」本を読んで「菩薩」とは何かを、よくよく勉強した方が良い。 ☆
皆、自分の信奉する教えを「最も重要な教え、唯一正当な教え」と思って
いるはずだ
と我執している
桃太郎ID:eYDnVho9師匠.乙でおじゃります
たとえば
植木雅俊という人が
創価と関係ないのなら
https://www.youtube.com/watch?v=RGPgKzNoHVY&feature=youtu.be
創価と関係ない法華経なら
勉強させていただきます ヨロ m(_ _)m >>774
>今は.もう持ってないけど法華経(上) ワイド版岩波文庫
それは持って無くて正解!やめとけ!
解釈の誤りが多すぎる!
やはり鳩摩羅什訳が最高だな!
...と植木雅俊先生が仰っておじゃります m(_ _)m
絶妙だった鳩摩羅什訳(植木雅俊)
https://www.soka.ac.jp/files/ja/20170519_150208.pdf
の講演で不軽菩薩を解説して曰く
これは、釈尊滅後、教団が保守・権威主義化し、男性・出家者中心主義や、隠遁的てきな僧院仏教という傾向に陥り、
煩瑣な教理の研究と修行に明け暮れ、遂には民衆と遊離して、民衆をさげすむまでに至って、小乗仏教と貶称された当時の状況を反映した表現でありましょう。
この菩薩の振る舞いは、「宗教のための宗教」に陥ることが、本来の仏教の精神とはかけ離れたものであることを警告し、
「人間のため」の仏教であり、宗教であるべきだと訴えているのではないでしょうか。
この菩薩は、いわゆる仏道修行の“形式”としての経典読誦は一切やっていません。けれども、人間を尊重するという振る舞いを徹底して貫いています。
経典を活字として読んだり、諳んじたりしていても、人間を軽視する人がいるのに対して、経典は読んでいないかもしれないが、人間を尊重しています。
そのどちらが『法華経』の精神、思想にかなっているのかということを対照させて、痛烈な批判の意味を込めて、この菩薩の行状が語られているように思えます。
これは桃太郎が以前から言ってきた通りであり、水野博士の研究とも一致しているね。 >創価と関係ないのなら
あっ!うえの講演、創価大学での講演らしいよ。
〜〜〜ざ〜んねーん。で、おじゃります m(_ _)m
まぁ、創価学会じゃないからね。どっちかというと、ちょい小乗寄りかな? ☆
創価じゃないのなら
小乗寄りでも
唯識寄りでも
密教寄りでも
チベット寄りでもOKでおじゃります >>781
それは良かったで、おじゃります m(_ _)m
是非、法華経の研鑽を深めて頂きたい。 >皆、自分の信奉する教えを「最も重要な教え、唯一正当な教え」と思って修行してんじゃないの?
普通の仏教徒なら自分の信奉する教えは仏教の一端に過ぎず 自分はその末端に過ぎないと考える
等しく悟った仏の教えに優劣を付けるなんて不遜な事をするのは非仏教
>だからこそ、>>770 の人間のように
>>信者の子供が思春期に発症して入院する例が多いって専門職から聞いてる (※どんな専門職が言ってんだよ!)
50年前に精神医学の権威小田晋が警鐘を鳴らして 今では現場の看護師でも言っている
>などと、平気で仏教者にあるまじき下劣な事を平気で言ってのけるんじゃないか。
仏教徒に有るまじき下劣な事とは他経批判 他師非難 自宗信仰の強要等の最も卑しく下劣な行為の実践に有ると仏教徒なら部派宗派を問わずに認識を共有するよ
正宗系なんて仏教じゃない
仏教の教えを盗用して争いの道具に悪用する邪教に過ぎん
互いに争い合って滅びるといい 信者に仏壇買わせるとか、そこらへんはどうなんですか? >>783
>50年前に精神医学の権威小田晋が警鐘を鳴らして 今では現場の看護師でも言っている
はぁ?どこの現場だよ。(笑
で、「日蓮系の信者の子どもが思春期に発症して入院する例が多いって」って根拠は?
どれだけのサンプルと統計でそれが確認されているの?
そんなこと普通に言ってたら、その職場は潰れるだろうね。※常識で分かりそうなものだが。
どんな瞑想そんなどす黒い性格になるのかしれんが、ほんとうに悪質だな。君は仏教学ぶ資格がないよ。
>等しく悟った仏の教えに優劣を付けるなんて不遜な事をするのは非仏教
>正宗系なんて仏教じゃない、仏教の教えを盗用して争いの道具に悪用する邪教に過ぎん。互いに争い合って滅びるといい
こういうのを自語相違と言うんだよ。(笑
狂ったような吠えてる君は、ただの宗教オタクだよな。確実に間違いない。(笑
実につまらんな。君は >>785
創価精神病でググれば?
外部だけじゃなく学会員の精神科医からも内部告発されてるのにお前が知らないだけだろ?
人の口に戸は立てられないから何処からでもそうした話は漏れるんだよ
実際にお前の行動は関係ない処に乗り込んで自分勝手な主張をする基地害そのものじゃないか? 融和的な精神から書かれた法華経からは排他的な論理は生まれてこない
声聞乗(小乗)、菩薩乗(大乗)、独覚乗
いずれも同じ一仏乗とした
南無妙法蓮華経(一人一) 声聞乗、菩薩乗、独覚乗を思い描きながらも悟れない凡夫がいる
その人達を家宅から救い出し一仏乗を与えるという話
或いは、いかなる人も軽んじませんという態度を貫くことで悟りを開いた人の話
法華経の説いていることはとてもおおらかなものだと思うのだが ここは法華経や日蓮教の話題をするスレじゃないよ(´・ω・`)
蓮太郎が下らない事を書き込むからズレるんだよな…
>>1
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会や
そこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など
多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違い
もあります。
そこを踏まえてご参加ください >>786
もう、君とは議論しないよ。
ただの創価アンチだろ。つまらん。
>いかなる人も軽んじませんという態度を貫くことで悟りを開いた人の話
その通りだ!
一切衆生に「仏性」を説く法華経は最高の人間主義の哲学であり、生命尊厳主義だ。
出家も、在家、男性も女性も、悪人すらも成仏せしめる最高の教えだよ。
この世のすべての人が「不軽菩薩」のごとく、互いを差別なく尊敬し合える思想を根底に持てば
どれほど平和な世の中になるだろう。だからこそ、創価学会は広宣流布をするのであって、
創価は「俺様の信じる教えが一番だから、お前等はその下」と思っているとかは全く的外れな批判という以外に無い。
法論というのは、相手の論者の人格を否定するものではない。
凡夫ゆえに感情的になることはあるだろう。しかし、「仏法研鑽の場」と考えれば価値もある。
それを混同して人格批判をするような人間はそれが分かっていない。
法華経のテーマは、「凡夫こそ仏」と言うことだ。
それを説き顕したがゆえに最上第一の法門と呼ばれるんだよ。
僧俗で差別をしたり、性別で差別をしたり、修行の段階で差別をしたり
そんなものは無分別の法から見れば単なる方便だ!それに執着するゆえに道を誤る。
「凡夫こそ仏」 これを覚知して初めて「悟った」と言えるんだよ。 >>790
良いからお前らは巣に帰れ
勉強の為にテーラワーダの話を読みたいのにお前らの下らない日蓮法華解釈なんぞ書き込むな
創価は専用板があてがわれてるんだから仲間内でやってれば良いだろ
此処は仏教徒同士が共通点を模索して研鑽し合う場所なんだから 他の教えに学ぶ気持ちの全く無い正宗系なんてまとめて要らないんだよ お釈迦様の教えを実践してるはずなのに口悪い人多いですね。まずは正語から実践してはいかがでしょう? >>790
桃太郎の主張では仏にも煩悩があるということだから
仏も感情的になるし怒ることもあると理解してるんだろうか。 怒りと欲の煩悩が消えるのは不還だから、そこまで行ってなければ怒るし、欲も
出るのでは?
>>他の教えに学ぶ気持ちの全く無い正宗系←まさにこれ。カルトの典型。 そこで問題となる文言が、
(大般涅槃経だったか)、修行僧のあれこれは、私の煩いとなる、
なんて台詞でね。(細かいシチュ忘れたが)
いかなる事象であっても、覚者なれば、煩いとなることはあってはならないんじゃないかな、とw >>796
不還果については、ネットでは、激しい怒りがなくなると書いてあるところもあれば、
怒りがなくなると書いてあるところがある。
どちらが正しいか近いうちにデカイ書店に行って調べるつもり。 >>784
仏壇は忙しくてお参りのままならない貴族が始めた自宅用のミニ寺院だから義務的に買わせる様なものじゃないでしょうね >>796
彼等に対する反応で自分の怒りと怒りを捨てたいという欲の存在を自覚出来るという点では反面教師と言えるのかも知れませんが 彼等は余りにも他の修行者の邪魔をし過ぎています
怒り過ぎれば同じ境地に堕ちるでしょうね >>793
>仏にも煩悩があるということだから
>仏も感情的になるし怒ることもあると理解してるんだろうか。
当然です!
喜怒哀楽の無い、能面ずらした仏などいないのです。
むしろ、あふれんばかりの大感情の人であったと思います。
その大感情が大知性と完全に一致した方であろうと思われますね。
山林に交わり、座して悟り澄ました「仏」のイメージがあるいのは、
部派仏教があまりにも人間釈尊を神格化した影響だと思います。
現実は布教の為に、インド中を弟子と旅しながら、
多くの人々を慈愛の心で温かく励まし続けた人であったと思います。
旅先で不幸の人々を見て、すまし顔で通り過ぎるような釈尊ではありませんでした。
共に苦しみ、なんとしても救ってあげたいという大慈悲の人でありました。
慈悲の「悲」には「うめき声」という意味があります。
仏とは「ともに苦しんでくれる人」なのです。
慈悲深き人こそ、仏法の智慧を体現している人なのです。 当時の弟子らは、釈尊の優れた教えは言うまでもなく、
むしろ、その人間性、人格、振る舞いに感動し信服追従していったのではなかろうか。
仏典にはこんなエピソードがあります。
誰からも見放され、一人で苦しんでいる病人が居た。
釈尊は、汚れた男の体をさすり、手を貸して戸外に連れて行って、体を洗ってあげた。
その間に寝床の敷物まで取り替えた。
周囲の人は疑問を持ちます。どうして仏がそこまでするのか、と。
釈尊は人々に言います。
「仏に仕えるのならば、病者を看病せよ」と。
−−これは仏典に説かれる有名な説話です。
病気には身の病もあれば心の病もあります。
その病を治す為であれば、何でもする。
人間の中に飛び込む事以外に仏法はない事を、釈尊は教えたかったのです。
また、釈尊は誰よりも人間を愛する人でした。
だからこそ、大勢の人たちがその姿に引かれ集まって来たのです。
だから、仏の周りは、いつも賑やかでした。
法華経如来神力品に曰く
日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を減し
無量の菩薩をして 畢竟して一乗に住せしめん
<訳>
仏は太陽と月の光明か、もろもろの闇を除くことができるように、この人は「世間の中で行動して」、
衆生の闇を滅し、無量の菩薩を最後に必す一乗の境地(妙法)※仏の境智※に到達させることかできるであろう。
まさに、その通りの人間(最も人格の完成された)釈尊でした。
>仏の周りは、いつも賑やかでした
夢.幻のような空性を
「実有なるもの」として掴もうとしている
(仮設としての)桃太郎師匠?
http://tubamedou.egoism.jp/SonotaButten/Chuuron/ChuuRon04.htm?v=20190528#no22
青目(ピンガラ)の中論.觀如來品
「如来は…」と掴もうとしている
想いは.夢.幻のような空性である
無明に依存することのない
如来は戯論を超過する
無明に依存している
人は
(刹那生滅して)戯論を生じている
無明に依存して
「実有なるもの」として掴もうとして
戯論して慧眼を破れば
是の人は
仏を見ることはない 如何経
第二章
「比丘達よ、教義に関し、論争は要らない。
意見が分かれ、論争を来す、四つの例がある。
それでは、この四つの例とは、如何なるものか。
第一の例は、文章も異なり、解釈も違っている。第二の例は、文章が等しく、解釈が違っている。第三の例は、文章が異なり、解釈が同じである。第四の例は、文章も等しく、解釈も同じである。」
「比丘達よ、この、いずれの例についても、正しいならば正しい、誤まりならば誤まりと、正しく解しながら、正しく合わせるべきである。」
「比丘達よ、違反に関し、叱責を早まるな。
違反を犯して、叱責を来す、四つの例がある。
それでは、この四つの例とは、如何なるものか。
第一の例は、自らも害があり、周りも害がある。第二の例は、自らに害があり、周りに害はない。第三の例は、自らに害はなく、周りに害がある。第四の例は、自らも害はなく、周りも害はない。」
「比丘達よ、この、いずれの例についても、正しいならば正しい、誤まりならば誤まりと、正しく解しながら、正しく合わせるべきである。」
「他の説を誹謗せず、自らの説を称賛せず、比丘達よ、ただ一心に、涅槃の道を修習せよ。
他と争うような者が、涅槃に至れる道理はない。」
これを聞いた、諸々の比丘は、歓喜し実践した。 >>806の続き
テラワダとか
中観帰謬とかの場合は
どんなに
「ものすごく素晴らしこと」も
「極端に最悪なこと」も
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って
世界すべてを
「夢.幻のような.空性である」と観察せよ
_ _ _
仮設としての世界において
たとえば
唯識とかの
さとりに達するための修行に障害がある
有覆無記に依存しているのなら
(「仮設としての」という意味で)
誰もが成仏するわけではない.五性各別 >他と争う
桃太郎師匠のことは
どうなのか?わからないけど
仮設としての
自分(ID:h8B5yIT)の場合は
無明に依存して
我癡・我見・我慢・我愛に依存して
我所も・我も
実有なるものとして捉え
妄想分別して
妄想の渦の中に巻き込まれて
>涅槃に至れる道理はない
という感じでおじゃります m(_ _)m >>涅槃に至れる道理はない
なんども言うけど、日蓮仏法は「仏界」を開く教えなので、
そもそも、阿羅漢とか、そんな方便は求めていない。でおじゃります m(_ _)m よ。(笑
やれやれ〜。でおじゃります m(_ _)m そろそろ理解して頂きたい。でおじゃりますよ 。m(_ _)m
念のため言っとく。でおじゃるよ。
末法に於いては、釈尊の法華経でさえも仏果は得られない。でおじゃります m(_ _)m
日蓮大聖人曰く
「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」
と仰せです。所詮、天台や伝教もこっそり唱えていた「南無妙法蓮華経」しかない。でおじゃります m(_ _)m
もっと「法華経」を研鑽し、出来れば日蓮仏法も研鑽すれば、なお良し。でおじゃります m(_ _)m
いずれ、分かるときが来るでおじゃります m(_ _)m
人生にはいずれ必ず乗り越えなければならない「試練」の時があるでおじゃりますよ。
その時こそ「日蓮仏法の真価」がわかるでおじゃります m(_ _)m
仏教は観念論ではないでおじゃります m(_ _)m。
現実の不幸や苦しみから逃避するのではなく、
それを悠々と乗り越える大生命力(仏の生命)を開く方法を教えたのが本当の仏法であり法華経なのでおじゃります m(_ _)m。 日蓮仏法(苦笑)だの法華経だのでゴータマブッダの直説を否定するのは正法誹謗でしかない
本物のブッダの言説とは比較にもならない >>807
釈迦在世に論争してみても、あまり意味ないでしょ。
釈迦自身が判定すれば済む話。
問題は、滅後の事で、なかんずく釈迦仏法の白法隠没の末法の時代は、邪法邪義がはびこり
小乗、大乗入り乱れて、どれが正しい教えなのか分からなくなってしまうと、経典には説かれてあります。
ならば、それを糺す必要があります。
涅槃経に云く
「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし
是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子真の声聞なり」云云、
誤った思想や宗教は人々の不幸の元凶となるように、その影響は極めて大きいと言えるのです。
大聖人の時代は末法の始めでしたので、その様相は極大でした。
ゆえに、日蓮は身命を惜しまず「四箇の格言」を言い放ったのです。
しかし、現代に於いて「四箇の格言」を公に言えば却って法を貶める事になりかねない。
だから、世界広布の時代に他宗教を信仰すれば地獄に墜ちるなどとは公に軽々しくは言わないのです。
それは、時代と共に衆生の機根、国土世間に応じて柔軟に布教して行くと言う仏教の寛容さゆえんでしょう。
いわゆる仏教で説かれる「随方毘尼(ずいほうびに)」という法門です。
ただし、こうした場(安全なアウェイですが)では、お互いに思うまま率直な意見や考えを披露し合うことは、
大変貴重な仏教研鑽の場となると桃太郎は考えておじゃります m(_ _)m
※まぁ、すぐにカッカくる人間はあまり法論には向いてないかも。
さあ!この桃太郎に「こりゃあ〜一本取られたよ!」と言わせてみてくれ給え。(笑 「他の説を誹謗せず、自らの説を称賛せず、比丘達よ、ただ一心に、涅槃の道を修習せよ。
他と争うような者が、涅槃に至れる道理はない。
「他の説を誹謗せず、自らの説を称賛せず、比丘達よ、ただ一心に、涅槃の道を修習せよ。
他と争うような者が、涅槃に至れる道理はない。
「他の説を誹謗せず、自らの説を称賛せず、比丘達よ、ただ一心に、涅槃の道を修習せよ。
他と争うような者が、涅槃に至れる道理はない。 >ゴータマブッダの直説
早速だが、釈迦の直説など存在しない。
仏教は弟子が編纂したもの。
君曰く「こりゃあ〜一本取られたよ!」ってか?(笑 >越えなければならない「試練」
たとえば
テラワダとかの場合は
「試練」ということではないと思うけど
世間を超えて
そして
出世間へ
そのためには
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
上座部のパオ・セヤドー
…通常、四界分別観から修行を始めなければなりません
[PDF] パオ・セヤドーのサマタ・ヴィパッサナー瞑想
…心によって作られるものも
地水火風
最小の構成要素にまで分解して
「実有なるものも
魂も、自我なども存在しない」と観察する 直弟子が編纂したものは直説
法華経の様に数百年後の誰かが直説を装おったものは非直説
時間が空くほどに情報の誤差が大きくなり 確度も下がる
その意味で日蓮仏法は末法だという事は出来るが正法という事は出来ない
何より日蓮がブッダでない事はその言説の性格の違いからも明白で有る 愚か者が人に生まれるのは奇跡
たとえば、穴の一つ開いたくびきが海に浮かんでいて、一匹の盲目の亀が百年に一度浮かびあがって、たまたまそのくびきに頭を突っ込んだぐらいの奇跡。
「それはどうしてでしょうか。弟子たちよ、(地獄、畜生、餓鬼といった)悪趣には、法に適う行いがなく、正しい行いがなく、善を積むことがなく、徳を積むことがないのです。
弟子たちよ、そこには足の引っ張り合いがあり、弱肉強食があるのです。
弟子たちよ、そのようにして、その愚か者が幾久しい歳月の後に人という境涯にやってきますが、そのときには、卑しい家−−チャンダーラの家、猟師の家、竹籠作りの家、車作りの家、あるいは屠殺者の家に生まれ変わります。
・・・そこでは衣食を得るのが難しいのです。
それでかれは容色悪く、容貌醜く、病気がちです。
目がつぶれていたり、手が曲がっていたり、足をひきずっていたり、半身不随であったりします。
また、食物や飲み物や衣類や乗り物や花環や香料や塗油や寝具や家屋や灯明も手に入れることができないのです。
かれは悪しき行いをし、悪しきことばをしゃべり、悪しき考えを抱いてから、死んで肉体が滅んだ後、幸なきところ、悪い行き先、落ち行く先である、地獄に生まれます」
博打ですべてを失ったとしても、地獄に行くことに比べれば取るに足りない。「弟子たちよ。これこそ、まさに愚か者の完成する境地なのです」
(中部経典 第一二九経 癡慧地経) 桃太郎は自分に都合に悪いコメントは無視するから、お話にならないよ。 この教えが唯一無二だぞと言って他人をマインドコントロールさせるのは邪見といって、
かなり重い罪になるよ。こちらから見てて、言えることは、桃太郎は創価学会の法華経を
唱えて、サマタ瞑想で心解脱したと。ただそれだけだよ。
サマタ瞑想には危険性があるから、合う合わないがあって、その危険性を創価精神病
で、説明してるのにアンチ創価で一蹴。
しかも、慧解脱についての知識は皆無。法華経がコーランに変わっても同じことだと
思うよ。 >慧解脱
ご教示ありがとうおじゃります m(_ _)m
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/42/2/42_2_574/_pdf/-char/ja
心解脱.慧解脱
心解脱
諸々の有漏
あるいは貪・瞋・癡からの解脱
慧解脱
止を修習すると心が修習される
心を修習すると貧が断じられる
観を修習すると慧が修習される
慧を修習すると無明が断じられる
貧に染汚された心は解脱せず、無明に染汚された慧は修習されない
貧を離れることから心解脱があり
無明を離れることから慧解脱がある
_ _ _
たとえば
仏性からの真如縁起とか?の場合なら
(仏の智慧をもって)
慧解脱をもって
無明を離れるのなら
(無明に依存している)諸々の有漏からも離れる
という感じ?もする
テラワダか?大乗か?
https://twitter.com/nhk_news/status/1164489988404326400
寺の住職が
後続の車に対して急ブレーキを繰り返す「あおり運転」を行ったうえ
車から降りてきて
運転手の胸倉をつかんだとして、警察は暴行の疑いで書類送検
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 相変わらず、つまらんレスが続くなぁ。(笑
瞑想している割には、すぐにぶち切れるし、
文章の節々に、どろどろとした憎悪の欠片が見受けられる。
瞑想しても大して自分を変えられないなと実感しているのではなかろうか?
それから一部の事例を持ち出して、レッテルを貼り、全体を悪しく評価する。(ダメだよこうゆうのは。)
>>802 >>821
こうした思考の誤りが、世界に争いを起こす要因となる。
ネットでも、「朝鮮人」という奴らは...とか、韓国人をひとまとめに馬鹿にしたり、中国人を馬鹿にしたり。
要するに、「人間」という次元で見ていないのだ。どんな組織、どんな国にも必ず善人もいれば悪人もいる。
そこを見ないから簡単にメディアや権力者に煽動され誤った道に突き進んでいく。
問題の要因はなにか?そこを冷静に慧眼をもって観察していくことが大事だ。
今後、下劣なレスにはコメントする価値も無いのでスルーするよ。
日蓮大聖人は仰せだ。
「おのづから・よこしまに・降雨はあらじ・風こそ夜の・窓をうつらめ。」と。
※雨が自ら横殴りに降ることはない。風が吹くからこそ、雨が横殴りに降って、夜の窓を打つようになるのである。
誤った思想、哲学は人々を不幸にする。
逆に不軽菩薩のごとき正しき生命尊厳主義に立てば、必ず世界は平和になる。
そして娑婆世界を寂光土に変えていけるのです。 >>1
には預流果の方々..とあるが、ネットで遊んでいる君たちの中で、
いったい何人の方々いるのでしょうか? 出来る事ならHNで登場して頂きたい。
中には「預流果以上ですよ。 」と豪語する方もいるし。 >>682
>それで馬鹿にされても怒りを表現しようとは思いません。
>その程度には悟っています。
実によい対話の姿勢だと思います。
さて、この桃太郎が考えるに、
原始仏教に詳しい、水野博士や植木雅俊先生の論文にあるように、
>小乗部派仏教の僧侶達は、比較にならないほど高い存在とみて、
>ともかく自分達は阿羅漢(聖者)になることだけをめざしていた。
>彼らには、自分達が仏になれるとは、まったく考えも及ばないことであった。
>これは、原始仏教団に特徴的な考え方で、そのために彼らは四諦八正道の修行につとめている。
現状、この結論は揺るぎないと思える。
ただ、今後研究による仏教の歴史的考察により、結果が多少違ってくるにしても
大乗仏教から見た小乗仏教の認識は現状変わらないようだ。
これを前提に考えると 「仏>>>>>阿羅漢」と思われる。
テラワダ信者の君たちは、これに対し彼らの誤りであり「認め無い」とするのだろうか?(仏=阿羅漢 ※完全一致と考える)
もし「認める」のならば、
「仏を自分達よりも、比較にならないほど高い存在」とは、どう言う事なのか説明出来る人はいるかい?
仏と阿羅漢の決定的な違いと、かつて部派仏教の僧侶達が「仏」になること諦めざるを得なかった理由とか分かる人いる? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています