「菩薩」

ナーガールジュナ(竜樹)の作とされる『大智度論』には、次のようにあります。
「菩薩の心は、自らを利し他を利するが故に、一切衆生を度するが故に、一切の法の実性を知るが故に、
阿耨多羅三藐三菩提の道を行ずるが故に、一切賢聖のために称讃せられるが故に、是れを菩提薩捶と名づく」

『大智度論』には、また菩薩の資格について次のように書かれている。
「大誓願あり、心動かす可からず、精進して退かず。是の三事を以て、名づけて菩提薩捶となす」
 すなわち、一切衆生を救おうとする大願と、不動の決意と、勇猛精進の三条件がそろって、初めて大乗の菩薩といわれること。

簡単に言うと、阿羅漢よりも遙かに高い境涯といえるね。


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A第二は、

業報思想(小乗)と願行思想(大乗)との違い。

前者が業報輪廻の苦を離れようとする他律主義(業報思想)であったのに対し、後者は成仏の願行のために自ら悪趣に赴く自律主義(願行思想)であった。


釈迦は、この人生は苦であると教えたけれども、そこにとどまっていたわけではない。
苦の人生を離れようとするのではなく、生老病死の苦を明らかに見て、それを克服しようとした。
そこに仏教の真髄があったわけです。

この人生の苦の受けとめ方に二つの姿勢がある。一つは、苦は業としてわれわれを苦しめ、縛りつけるものであるという捉え方で、
小乗教徒は煩悩を断じ、輪廻の苦界を脱することによって、無苦安穏なる境地を得ようとした。
そのために、肉体の死後に「無余涅槃」を得ようと修行したわけです。

このような彼らの人生に対する姿勢は、必然的に受動的、他律的なものとならざるをえない。

それに対して大乗教徒は、この人生の苦は自分が衆生を救済するために、願って受けているのだと捉える。
そして、苦の世界を避けるのではなく、自ら誓願して悪趣苦界に赴き、一切衆生の苦を我が身に受けようとする。
ヴィマラキールティ(維摩詰)の有名な「一切衆生病む故に我また病む」というのは、そうした菩薩の境位をあらわした言葉ですね。
つまり、二乗は受動的、他律的であったのに対し、菩薩の生き方は能動的、自律的であるわけです。