【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践17
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お釈迦さまの教えとサマタ・ヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践16 [転載禁止]
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1551435418/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会や
そこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など
多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違い
もあります。
そこを踏まえてご参加ください。 出家する時は家族も金銀財宝も地位も名誉もプライドも全て捨てて出家しなければならない
捨てるのは自力で捨てなければならない >>99
生きてるだけで執着してることになるのでしょうか?
無我の場合他力自力の区別はあるのでしょうか? >視点が無我からではなく、自我からの視点に立脚して判断している。
自分でも何言ってんだか分らないくせに。
ネットで仕入れて来たようなことぬかして何言ってんだか。w
まともに反論できないと意味不明な事を、まるで悟っているかのように言う。
現実に目を逸らしていては何も得られないのだよ。
なにが「ムガ」だよ。そんな境地などわかりもしないくせに。w
慢心にも程がある。
アホ過ぎて話にならない。
>>101
その通りだが、「自力で捨てられない 」ような知ったぶりの仏教オタクがなんと多い事か。w 解脱に至るにはとても厳しい修行をして、それでも誰もが解脱するわけではない
そして、解脱者を通してみんなが功徳を得るという価値観が浸透してるだろ
だからテーラワーダの国では僧たちは非常に高い尊敬の対象になる
それで社会全体の秩序と倫理観が一定程度保たれているのだから
それを捨ててしまうということは簡単には出来ない >>102
悟ると生存の素因を断ち切れるとされる。
しかし食は生存の素因なのに断ち切れない。
ここに矛盾がある。
我、つまりアートマンの有無に関わらず人は誰でも食わなければ腹が減る。
アートマンの有無に関わらずその時は何らかの手段で食を得なければならない。
自分で生産活動に従事して食を得ているものは自力、自分は生産活動に携わらずに他人から食を施してもらうのは他力。 その「自力」が本当に自力か疑え、
ってのが、お釈迦さんの教えだったと思うがねぇ・・・ >他人から食を施してもらう
のは間違いなく「自力」じゃないと思うよ。 テラワダ教は詭弁に始まり詭弁に終わる。
そこに釈尊の教えを汲み取れない小乗仏教の限界がある。
素直に在家の布施なしでは生きていけませんとは言えないのだろうか。 詭弁だとして、それに納得して布施、寄付をする人がいる
それが宗教というものだろう 人間自力で生きてると思いこんでいるから何もかも辛くなる
そして昼間からネットで入り浸って宗教など都合の良さそうな敵を探して
叩いて自分を慰めてるのだろう >>107
うん。
だから、 『君が使っている「自力」「他力」』で言うならば、
世界中のどこにも、そんな仏教は存在しない。
いかなる仏教も、『君が使っている「自力」』によって成立している。
何も上座部に限ったことじゃない。
禅宗も、一般には自力と思われているが、『君が使っている「自力」』ではないよ。
君の基準で行けば、中国唐宋の時代の禅宗も、所詮他力だよ。 あ、コピペミス。
× >いかなる仏教も、『君が使っている「自力」』によって成立している。
○ >いかなる仏教も、『君が使っている「他力」』によって成立している。 実際出家して、テーラワーダの戒律守って朝から晩まで瞑想してってかなり大変だと思うよ。
師匠もついてて、サボるどころの話ではないでしょう。
東南アジアで、残り物の残飯托鉢でもらって食べて、ひたすら修行ってかなり
ハードコアだと思うけど? そだね、他力が何時現れるか?の違い
上座部 煩悩を滅し切った時のみ
大乗 煩悩があっても何時でも
なんだけど、大乗で本当に他力がわかったと思える人はやはり少ないわけで
だからこそ、世俗的な「他人の力」みたいな意味しか知らないということが起きる
これは大乗の怠慢だね なんでもやる気と機会があれば
ためしにやってみればいいじゃん
自分にとってどんな難しさがあるか
やってみないとわからんからね 屁理屈は要りません。
そういうお坊さんと僧伽の面倒を見てくれる人がいる風土、文化の上で成り立っているのが仏教特に畑仕事などの作務がないテーラワーダなのです。
面倒を見てもらえるのをあてにしての出家ですから他力本願(弥陀の本願の意味ではなく俗語で使う他力本願)な思想であるわけです。
試しにそういう風土がない日本で同じことやってみようとしてもほぼ無理でしょう。
食に関して他力本願が通用する国でしかテーラワーダの形態はありえないのです。
また釈迦の時代の雨季の安吾を除き基本樹下や岩窟で瞑想していたのと比べると、
現在の僧侶は立派に整備された寺院で瞑想等の修行をしているのでキツさも大幅に緩和されていることでしょう。
その証拠にテーラワーダの瞑想合宿に参加した人でキツかったなんて感想を言う人はほとんどいません。
せいぜい最初の方は組んでた足が痛かっただの瞑想中雑念が浮かんでそれに追われると時間が長く感じて大変だったという程度の厳しさであるようです。
何度も参加している人もいるくらいで案外瞑想体験は上記程度の厳しさはあっても楽しいようです。 >>117
現代日本仏教の現状を知ってて言ってるなら、
お花畑さんとしか言いようがないwwwwwwwwwwwwww >>118
ほう、現在日本仏教の僧侶というのは相当楽しているみたいですな。結構なご身分であられるようだ。 >>105
輪廻における再生の因のこと?
お釈迦さまが菩提樹の下でお悟りを開かれた後、般涅槃される
までのことはどう解釈してるの?
あと、自我と真我を区別できてないね。 >>103
>自分でも何言ってんだか分らないくせに。
わかりますよ。
思考が自我なので、思考が止まれば自我は消えるからね。
例えば >>92 の「俺が悟りを開いたら救ってやる」などとというのは、
自我を実体視しているからこそ出てくる発想だし、これじゃあ悟りや解脱
というものがあること自体を疑っていて、信じてさえいない段階でしょう。
あるいは、悟りはあるかもしれないけど、自分にはできないと信じている。
従って、他者もできないだろうと信じている状態かな。
言い方を換えると、自分が信じる方便のみが正しいと信じ、他の方便について
は理解できない段階である、という告白でもある。
しかもその信じられない方便って、仏陀の直接の言葉ですからね。
もう少し慎重に考えて態度を決めた方がいいと思いますよ。 >>100
>そんな功徳などあるのかないのか分からないにもかかわらず。
あなた自身は今ここで、まだ分からない段階です、ってことを告白
しましたけど、お釈迦さまは分かってて言っておられると思うよ。
業と業果について、特に輪廻をまたぐ因果律については人智を超えて
いるので、考えて言ってるわけじゃないのね。
経典の中にある不可思議な話は、瞑想によって洞察された、観測事実
に基づいて言われている。
それは瞑想を進めていけば、自分自身で追い追い確認していける。
お釈迦さまの教えの通りに素直にやるつもりさえあれば、誰でもできる
はずですよ。 あのね。
悟ってない人が、悟った人(お釈迦さまのことね)の話を、自分の主観で解釈して
正しく解釈できるわけないでしょ。
素直に聞けば、文字通り、言葉通り、そのまんま答えを言っておられると思いますよ。
お釈迦さまは。
最初からね。 >>120
再生の因も生存の素因もとどのつまりは煩悩だよ。
釈迦も正覚を得て解脱した後は聖者の面倒を見てくれる在家信者の他力で生きてたよ。
ただ釈迦の場合は在家にも法を説いていたからその部分では日本の価値観に照らし合わせても教職者としての食い扶持を得ていたとは言えるけどね。
真我つまりアートマンがあってもなくても人間は食わなければ腹が減るでしょ。
まさかヨガの聖者みたいにプラーナという霞みたいなのを食って生きてく訳にもいくまいし。
腹が減ってるのが五蘊や四大が和合した仮我とか言われるもので、その中の識が自我でしょ(これも人によって定義は様々で受想行識が自我とする人もいると思うけど、大体はそんな感じでしょ)。 >>122
瞑想で見えたからとか言ってしまうと何でもありになるから議論にならないよ。 >>123
>あのね。
>悟ってない人が、悟った人(お釈迦さまのことね)の話を、自分の主観で解釈して
>正しく解釈できるわけないでしょ。
まんま自分のことじゃないすか。
>>122に書いてあるようなことは悟ってから言いましょうよ。 >>119
今頃何言ってんだよwww
日本仏教ほど、
「楽で」 「本筋から外れて」 「世俗の価値基準に準拠している」 仏教は、
仏誕以来2500有余年、世界中どこを探しても存在しねーよw >>119
その上で、
今現在批判されている上座部よりも、
その指摘内容は日本仏教にこそ当て嵌まるのに、
息巻いてる彼は、この、最も重要な現代日本仏教の在り様をスルーして、
上座部のみにその矛先を向けている姿が滑稽だなぁ、と。 いまだに日本仏教を叩いてテーラワーダがましだと言う情弱がいるとは。
テーラワーダはカルト。どこの国でもカルト。日本仏教は滅び行く定めの商売。 >>130
タイもミャンマーもカルトだろ
なにいってんだ >>127
で、日本仏教を批判?しているあなたは日本仏教とはどういう関係にあるのですか?
それと
日本仏教は世俗の価値基準に準拠しているのなら生きていくことについて他力本願ではなく自ら稼いでるんじゃないんですか?どうなんですか? テーラワーダは坊主に布施をすれば功徳になって背けば悪業を積むという倒錯した世界
テーラワーダの民度の低い在家のせいもありろくに戒律も守らない出家が偉そうにのさばる タイ、ミャンマー、ラオス、スリランカ、カンボジア
テーラワーダが盛んな国は素晴らしい国が多いなあ(棒) 法華経や秘密集会タントラの元ネタは原始仏典なのでは >>104
そういうシステムを上手く作ったということだね。
現代の日本で同じことをしようとしても所詮はカルト扱いされて終わってしまうでしょう。
南方の方でも古代だからそういうシステムが受け入れられそれは伝統として守られているというわけだ。
それは悪いことではないんだろうが、今の日本ではそんな他力本願でかつ尊敬されながら生きていくのは無理。
ホームレスは敬意はもたれないしな。 オウムも阿含宗も原始仏典を取り入れてたなあ
その結果には素晴らしいものがあるなあ(棒
コーカーリヤとか原始仏典には素晴らしい名作が多いなあ(笑) >>138
うん。どっちもどっちで電波だと言ってるだけだよ。 >>132
某禅宗ですが何か?
「>自ら稼いでる」
だからw
仏教・宗教関係なく、 【事象】として俯瞰して見た時に、
≪他者の世話になってないか?≫
≪他者の助力・影響、下準備されたものの享受はないか?≫
という視座を持てないか? つーか、
宗教的生き方関係なしに、
【息巻いてる彼の言う「自力」】のみで、存在し得る生き物があるだろうか?とね。 >>141
某禅宗ってなんだよ?
禅宗で出家してんのか?禅宗の檀家か?
わざとらしく曖昧な表現しやがって また、
≪日本の坊さんは「自ら稼いでる」≫という認識ができちゃう時点で
お花畑だろ?と。 ┐(´ー‘)┌
>>146
臨済で僧籍有、大学でパーリ印度仏教専攻。 仏教オタって滅法、偏差値低いのに脳内妄想に殉じてることが多いよね >>139
現代日本で誰かが
「これこそが聖なる教え。全き人である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪い行いを消滅した人に対しては、飲食をささげよ。彼らは功徳を積もうと望む者のための(福)田であるから」
となどと自分とその弟子に施しをすれば功徳が積めるぞよなんて言ってもカルト扱いされるよ。 >>141
そうでしたか
「楽で」 「本筋から外れて」 「世俗の価値基準に準拠している」
仏教の人であるわけですね。 >>142
そういうのを屁理屈という。
自分一人では生きていけないそれは当たり前の話。
そういうのを踏まえた上で他力本願という言葉が既に慣用句となっている。 頭の中に思い描いた概念について、あるとか、ないとか
信じるとか、信じないとかやってるんだとしたら、宗教信者も
無神論者も、本質的には同じ土俵で同じことやってるのと変わらんでしょ。
信仰とすべき対象が人智を超えたものであるなら、それは頭の中に
思い描いた概念じゃなくて、頭の外にある。
頭の中に思い描いた概念を信じているなら、それはまだ見解(に対する固執)。
人間の妄想する思考概念の外に、人智を超えた智慧があると信じるのが信仰。
智慧に達するのが修道。
同じ○○仏教に所属してはいても、見解の段階の人もいれば、信仰の段階の
人もいるし、修道の段階の人も居る。
そういうことだと理解してます。 日本仏教よりテーラワーダがマシはない
目くそ鼻くそではない
テーラワーダの実態の方が悪い
日本仏教の現状が田舎の中学生ヤンキーならテーラワーダはヤクザ
それくらい違う >>154
ごめん、よく読んでなかったわ
すまんすまん
日本人は宗教に対し健全な感覚の人が多いよね 唯物論の無神教の人も、自分の宗教が一番正しいと信じてるという意味で、
その辺の新興宗教の信者さんと全く同じなんですよね、実は。 >>159
見解というのも、観測事実に基づいて話す必要があると思うんですね。
科学的であるということは、そういうことでしょう。
そして、瞑想(止観)って観察ですから。 日本人って釈迦に幻想持ってるって時点でその辺の新興宗教信者と同等 あっ、普通の日本人は釈迦に幻想持ってないわ
日本人で宗教に頼る時点で普通じゃないわ >>161
瞑想していれば良いんでしたらあなたはオウム真理教もアレフも皆認めるんですね?
オウム真理教の瞑想修行で見出したことは観測的事実だと、(観測的)事実だと。 観察によって確かめられない理論を盲信しているとしたら、
仏教という名前であれ、無神論という名前であれ、科学という名前であれ
それは科学的、あるいは理性的とは言えないと思います。
名前は概念に付けたラベルに過ぎません。 >>161
それと加えれば瞑想は心身の観察であって輪廻とか功徳の観察ではない。 オウムは仏教を名乗っていますが、名前と中身が合ってますかね。
思考概念だけで判断するから、言葉に振り回されるんだと思いますよ。 >>166
輪廻や輪廻を左右する功徳がそうだね。
あと過去世のカルマとかもね。 >>166
科学は科学的方法があるんだよ
それを科学的というんだよ
脳みそ腐ってんのか? >>168
瞑想は観測的事実という概念に振り回されてるのはあなたの方でしょう。 名色の生滅は縁起に依っているかどうか。
業と業果が、善であれ悪であれ縁起に依っているかどうか。
それは観察して確かめてみれば答えがわかるんじゃないでしょうか。
観てもいないものを、どうやって判断して、断定できますかね。
している人がいたら、あまり理性的とは言えないんですよ。 典型的気違いの意見
1仏教は科学(仏教は心の科学)
2仏教も科学も同列 >>170
科学的である条件は、理論(帰納と演繹)と観測(または実験観察)による確認です。
止観は身体および精神現象の観察です。
現代科学の主流は、唯物論に基づいており、精神現象を物理現象から類推して
いるに過ぎず、精神そのものを精神現象としてそのまま直接観察することは、ほぼ
全くしていないと思います。 簡単に言うと、精神は物質ではありません。
脳は物質です。 典型的アホの意見
1宗教も科学も言語の問題
2仏教は言語を超越しているからもっと偉い
www これに関しては、世界最高峰の名門大学の教授も間違っているので、普通の人が間違えるのは仕方ないと思いますが、
自我が妄想である以上、どんなに賢い思考も、賢い妄想でしかないのです。 ん?
もしかして紐か? >>ID:cBXHtZzY >>174
だから?
仏教は妄想という成果しか残していない。
お前は現在、科学の成果に頼っている >>172
仏教用語の羅列で言葉に随分と依存しているのが分かるレスになってますよ。
それであなたはその瞑想での観察で輪廻や輪廻を左右する功徳について確かめることができたの?
あなたの口ぶりは輪廻や功徳を断定的に語っているように思えるけど、ならば観えているからこそ断定的に語れるんだよね? いや、違うならいいw
一時期、某スレの論客だった彼の臨調に似てたから。 失礼した。 テーラワーダ信者が認知的不協和起こして妄想に逃げております >>174
そうは言っても物質が精神を支配する面があるのもまた確かなんだよね。
覚醒剤打った人の精神、酒を飲んだ人の精神状態を考えればそれは明らか。 >>181
人智を超えたものを表現できる人間の言葉は、基本的にないです。
仏教用語も、智慧に達した人同士が使った時、はじめて意味理解が共有されるはずなので、
瞑想をしていない段階では、分からないのは仕方がありません。 論調ね、キーボードが一個ズレた。
まあ、
上座部批判するなら、まずパーリ原典を押さえてからと思うけどね・・。
(同様に、日本仏教批判をするなら、奈良平安から鎌倉江戸、
そして、明治を境にした仏教史・社会情勢抜きには語れない。) >>185
包摂関係でいうと、精神>物質、精神=物質、精神<物質のどれだと思っているのか、
前提認識を確認するとヒントになると思います。
>>184
八正道で自ら確かめられます。
言ったところで概念にしかならないので。 >>186
輪廻や(輪廻を左右する)功徳は普通に言葉だけど人智を超えたものではないんだね。
だとすれば概念だね、輪廻も(輪廻を左右する)功徳も。
ちなみにあなたが書いている仏教用語は一応は分かるよ。
ただ自分は積極的に仏教用語を羅列はしないけどね。 >>188
>包摂関係でいうと、精神>物質、精神=物質、精神<物質のどれだと思っているのか、
例えば親から引き継いだ気質は遺伝子によるものだけどそれは物質になるの?
それとも唯識の阿頼耶識やテーラワーダの結生識に蓄積されてるのが生得的な気質だとでも言う? また
おじゃるは、ここには書き込むべきじゃない
と怒られるかもしれないけど
それでも.とりあえず
ID:T7go4KzG師匠へ
>…唯識の阿頼耶識やテーラワーダの結生識…
批判するなら
まず
経典.論書.解説書とかを理解してから
ということであるらしい >>191の続き
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2016/03/31/181613
…解説する人が来世を
(仮有なるものではなく
実有なるものとして)
信じているために
識を結生識と解釈している訳であるが
これでは
本来の縁起が意味している事とは
全く別の事柄になってしまう
ブッダダーサ尊者
仮設としてのもの.ことも
三世輪廻とかも
散りゆく桜と人生の儚さというように
実有なるものではなく.仮有なるもの
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
たとえば
地水火風とかの
密集を
仮有なるものではなく
実有なるものとして「ある」
と掴もうとしている「想い」に依存して… >>192の続き
https://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349
大念処経
実有なるものとしてではなく
仮有なるものとして
地の要素、水の要素、火の要素、風の要素が(仮設として)ある
そして
地水火風の微細な粒子も
仮設としてのもの.ことなので
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858
因縁生滅智
刹那生滅智
スッタニパータ 21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
彼岸に到着しているのなら
唯識の阿頼耶識という「想い」でもない
テーラワーダの結生識という「想い」でもない
我所であるという「想い」でもない
我であるという「想い」でもない
>>125 ID:T7go4KzG師匠へ
>瞑想で見えたからとか言ってしまうと何でもありになるから議論にならない
国際人権法で
検閲を受けることなく自身の思想・良心を表明する
言論の自由があるので
言論統制をすることはできないし
そして
特定の宗教を信じる自由
または宗教を信じない.信教の自由もあるので
宗教(仏教)批判も大変結構なことであると思うけど…
それでも.とりあえず
ここの.スレは
議論スレではなく
たとえば
非想非非想の実践もして
その上で
非想非非想も手放して逝くという
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践
というスレでおじゃります ヨロ m(_ _)m >批判するなら、まず経典.論書.解説書とかを理解してから
批判でなく、議論だから。
それが無かったら、ただの馴れ合いでしょ。
議論があって、新たな発見を、見方をすることができる。
原始仏教も仏典結集の際、如是我聞から始まり皆が同じ解釈をしていたとは思えないし、様々な解釈があったと思う、議論の末淘汰され、そうやって完成されたものであると思う。、
凡夫だから多少感情的になるのも仕方がない。
ただ、個人的な人格攻撃などは愚かだけどね。
そもそも、すべての経典.論書.解説書とかを理解している者なんかいるわけないでしょ。
それ言ったら、何も言えなくなるんじゃないの?
言論の自由もあるし
宗教を信じない.信教の自由もあるので
上座部も
大乗も
宗教全般も
もっと
皆から
信頼されるようになるのなら
宗教(仏教)批判も
大変結構なことであると思います
ここのスレの場合は
議論スレではないし
禅定肯定を前提としているので
禅定肯定については
馴れ合いでも良いんジャマイカ?という感じもするけど? >>189
言葉からどの程度の含意を読み取れているかは、人によってかなり違うと思います。
例えば、何かの体験学習について実体験のある人と、ない人とでは、同じ言葉を聞いても
各人の内面に生じる意味理解は異なるはずです。
無我や輪廻といった言葉も同様、体験と知識とでは理解の質が違うのではないでしょうか。
言葉と本質というのは、すべからくそうでしょうけども。
>それ言ったら、何も言えなくなるんじゃないの?
大乗の場合は
どうなのか?
わからないけど
上座部の場合は
個人的な見解ではなく
個人的な見解というのも手放して逝くために
たとえば
スッタニパータとか
ダンマパダとか
そして
たとえば
四界分別観とか
第一禅定から
というようなことを前提としちょります 正統派のテーラワーダ仏教徒を自認する人でも、
「輪廻転生などない。(死んだらすべて消えて無くなる=断滅論)
釈迦はそんなこと言ってない。(釈迦って奴は、未発達な時代の古代人のわりに、
現代人のような理性的な思考ができる人間だったものだ)」
というようなことを自信たっぷりに信じている人はかなり多いです。
主観的に解釈した仏教概念を信仰対象としている段階で、仏教用語でいうと見取です。
なので、仏教徒だから正しいとか、そんなことは全然ないですな。
正しい方へ導かれる縁には入ってるけど。
>輪廻転生などない
常見を否定すると同時に、断見も否定している
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2016/03/31/181613
常見であるという「想い」も手放して
断見であるという「想い」も手放して逝く
という感じだと思うけど? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています