ここに見られるのは、創世記1の文字通り解釈よりも象徴的解釈の方である。
ファンダメンタリストのなかのひとにぎりの過激派だけが、まだ文字通り解釈をしているだけである。このようになった理由は明白である。
・・・・何が起きたかというと、地球の形成が極めて長期間を要したものであったという科学的見解が否定できないほど強力となったからである。
文字通りに解釈すれば、ファンダメンタリストのインテリ達が今では受け入れているこの科学的見解に反することになってしまう。
そうすると、聖書には間違いがあることを認めざるを得なくなってしまう。
それを避けるために、保守的インテリ達は文字どおりではない解釈をせざるを得なくなる。それだけが、聖書の無誤謬性を救うことができるからである。

100年ほど前ならば、おそらく、多くのファンダメンタリストは文字通り主義を貫いていたであろう。
もし、聖書の文字通り解釈と科学的見解が異なる場合は、かれらは、むしろ、科学の見解を捨てていたに違いない。・・・・

[中略 ここでジェームス・バーは、創世記における七日を一週間と解釈しないことが不自然であることを指摘し、そのあと、創造物語以外の例を挙げている。]

こういうわけで、最初の例にも見たように、あきらかに、ファンダメンタリストの聖書解釈は文字通り主義ではなく、むしろ、文字通り解釈と文字通りでない解釈の間でさまざまま解釈を施している。
このさまざまな解釈を導いている彼らの聖書解釈の本当の原則は、聖書は無誤謬で、いかなる間違いもあってはならない、というものである。
無誤謬性は、このように聖書解釈の様相を常に変えること、とくに、必要ならば文字通り主義を捨てること、によってのみ保たれているのである。

(ジェームス・バーの『Fundamentalism』(The Westminster Press 出版)第三章より)