>>946 まちこさん、こんにちは。

最後の審判(公審判)での
第二の死(火の池に投げ込まれる事)から救われる為に
礼拝(公祈祷)や祈り(私祈祷)を捧げ
教会の維持の献金をし、聖堂の清掃などの奉仕をする
という感覚が
自分にはまだ無いのです。

死後裁き(私審判)があるのは
閻魔(えんま)様に生前の行いを裁かれる
という感覚は
普通の日本人として罪意識はあるんですがね。

カテキズムやガイドブックや略解や注解書がるから
礼拝に出て説教を聞くまでも無いだろう的な理由で
自分を納得させている所がです。

ひと付き合いという聖徒の交わりが
面倒になっているのが
ネックかなと自己分析する最近です。