【仏教】悟りを開いた人のスレ362【天空寺】
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罵倒、批判だけのレスはスルー。
悟ったと思う者は、体験、技術、見解などを書く事。
否定されても発狂しない。
修行もする事。(任意)
>>970が次スレを立てる。無理なら以降の有志にお願い。 その認識を剥がすと、人は完全に「無知」になる。では何故、何のためにこれが
真理体得の条件になっとるかと言うと、その完全に無知な状態こそが
「周りのすべてとの隔たりが一切無い状態」だからであって「自分から見た周り」とかも
無いのぢゃ。どこにも視点となるものがなく、ただ五感だけがそこにあるのぢゃ
目というものが何か知らんが、視界が広がっており、鼻というものが何か知らんが
何かしらの匂いがして、いい匂いに喜ぶこともなく、臭い匂いに鼻をつまむことも無く
口の中の構造も知らんが、舌に唾液や食べた物の味が残ってても、それが何か分からず
エアコンや冷蔵庫など何かしらの音がしてるが、それが何か分からず、耳の存在も知らず
身体の皮膚に伝わる何かしらの感覚があっても、皮膚も何かに触れた感じも分からず
何処かへ身体をぶつけても、普通なら痛いから拒絶すべきだとか、そういう判断もできず
まさに「無知」になるのぢゃ
そこに逝きかけの時は、和智の場合は、ぢゃが、アホほど恐ろしかった
意思が飛び飛びで、そこに没入し始まり、忘却地獄。分からない「???」だらけ
しかし完全にそこに没入すると、まるで宇宙になったような感覚となる
今此処がそのまま、感覚として、何一つ隔たられたものが無い宇宙になるのぢゃ
そしてそこで「真理」が知れる。ああ、本当に何も無い。と知れる。そう知れるのは
そこに初めて没入して、認識や記憶や意思が戻ってきてから、ぢゃ
(-人-) ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ柿の種は精神的に不安定なんじゃないかなぁ?
>健康なのにやたら病気不安があったのだ。
>今は執着が消えてだいぶテキトー
>最近は血糖値をすごく意識している。 >>162
頭の中には、精神が涅槃へ行くのを邪魔するものが3つある
一つは、何かにつけてコメントを繰り返す思考。自心の「コメンテーター」ぢゃ
一つは、退屈になると想い出のジュークボックスから好きな音楽を鳴らす、自心の「DJ」
一つは、昔行った事のある情景や見たことある景色を記憶から映し出す「映写係り」
人物に喩えてみたが、実際に凡人の「雑念」というものは、まさにコレぢゃろう
後の2人を消すのは比較的ラクではあるが、コメンテーターを消すのは難しいのぢゃ
悟り修行の第一関門であろう。止めるに止めれず、消すに消せないことが普通ぢゃ
だから始めは、その思考、雑念が流れるままに流しておいて、何もジャッジせず返答せず
ただ雑念を観察してれば良い。と多くの覚者は言うぢゃろう。目覚めた後は簡単に消せる
(-人-) >>159 こじつけさん
> 平和に執着するのが悪い!
誤解があるようだから言うね、五戒に、殺すな、と、それをどうしようか、どうする? >>171
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ雑念を流すダケではなく観察しているんですか?
何故観察するんですか? 瞑想修行において、コメンテーターとの折り合いのつけ方が最初の関門であるのは
人間は自分の思考と「同化」して、そのせいで苦悩に苛まれておるからぢゃ
コメンテーターが「あいつムカつく!ブッ殺したい!」と怒りのコメントをすれば
それに伴い怒りの感情まで余計に湧き上がってきよるし、喜怒哀楽すべてがそうぢゃろう
映写係りが映し出す「嫌な想い出、恥ずかしい想い出の情景描写」なども同じこと
そんなものは記憶の倉庫に、誰でもいくつか入っておるからの。それで後悔の念が起こる
DJは特に、暇つぶし要員でしかないが、流した音楽によって思い出を連想し始めてしまう
これら3人の「雑念」を、ただ流れるままに観察すれば良いのぢゃ。彼らは無視されると
何も反応を貰えないと、消えてしまう他無くなるのぢゃが、コメンテーターは強いぞ
コメンテーターを打ち負かす、つまり哲学的な思考に熟達した者でなければ
無視した方がええ。コメンテーターと真っ向から論戦をするのが「ギャーナヨガ」ぢゃ
できればクリシュナムルティと同じ経路の覚者となる。和智もやったが
最終的に決定打が決まるのは、コメンテーターに「諦めさせた時」ぢゃ。諦観なのぢゃ
地頭の良い者のコメンテーターは、アホほど強いと思うがの。諦めるまで論を解いてく
一つの言葉に対して「何で?」「どうして?」を50回くらい繰り返せば
コメンテーターもいっぱいいっぱいになって頭痛が酷くなるが、それでも腑に落とさず
「何で?」「どうして?」を、コメンテーターに問い続けて、かなり苦しめて、倒す
凄まじく苦悩が倍増する。が、その苦悩が悟りに至れる条件にもなる (-人-) >>172
何も思わぬのぢゃ。ニュートラルなのぢゃ 例えばコメンテーターが「早く寝ないと」と、ボソッと雑念を起こしたら
「何で?」と言うと「仕事があるから」という。それに対して「何で仕事行くの?」と
問いかけると「食うためには金が必要だろ」と返ってくる「ナマポ受ければいい」と
返せば「それは恥ずかしいだろが」と返ってきて「何で恥ずかしいの?」と返す
「社会人だからに決まってる」と返ってきたら「何で社会性を気にするの?」と返す
もう分かったと思うけど、コメンテーターという「凡人の人間性」の尽くを瓦解させ
最終的には丸裸にさせて、その人間性という身包みをすべて剥がして、諦めさせるのぢゃ
これだけの「何で?」の回数では、そうそう苦しめることには足りないが
50回が過ぎた頃には、コメンテーターも、自分の精神状態も、かなりヤバくなってる
(-人-) ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ
人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ
チャーリー・チャップリン コメンテーターを諦めさせた状態。つまり「放心状態」になると
それまでの苦悩も手離すことになるから、三昧、三摩堤、サマーディなのぢゃ
自分の「アイデンティティ (自己同一性)」が解除され、何でも良くなり、心穏やかになる
これが「小悟」であって、認識をブッチする「大悟」のほうは、普通のやり方では激ムズ
なのぢゃ (-人-) >>177
とてもわかりやすい説明
ありがとうございます
気分まで良くなりました >>178
そうぢゃ。近くで見ることが「自我との同化状態」であって、人生が悲劇にもなるが
遠くで見ることは「自我と決別」しとる状態だから、喜劇にもギャグにもなるのぢゃ
麦は覚えがよいのぢゃ (-人-) >>164
逆で、都合に悪いところほど見るね。
なぜ苦しかったのか、後々になってもずっと心を読んでる。
認識ってのは瞬間的なもので、そりゃ認識しなくちゃ生きていけないけど、
不要な認識ってのがあって、それをある一点に集中して止めてしまう。 >>167
本当に発狂したの?大変さの後に、それがあるんだね。
思考を止めることは意識的にやってるよ
大悟にはなっていないと思う。ただ、自分の思考を
どこかに放置してなかったことにはしないようにしてる。なぜ今そう思ったかとか
ただ思うのは、自分は人よりも頭ん中の言葉数が少なく、分からないことが分からない状態で
だからきっと人よりも小さな苦しみを大きな苦しみと勘違いして生きてるんじゃないかと。 そこいらに落ちてる石塊や土塊と、自分は何も変わらず、同じもの、なのぢゃ
人間性もクソも、無いのぢゃ。いきなりこう言うと凡人はネガティヴに勘違いもするが
上の文章を読んだ後ならば、ポジティブにも理解できるぢゃろう?
実際はどっちでも無いが、これが精神の解放へと繋がることは分かるぢゃろう
(-人-) >>177
すごいね!笑っちゃう前に笑っちゃう感じだ。 >>182
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ諸法無我なのに後々になってもずっと心を読んでるの?
疲れるでしょう? 頭の中の言葉数が少ないのは、苦悩を盛り盛りにする事なく、精神衛生上では良いこと
ではあるが、その状態だと、何かの言葉を発した時に、他者と軋轢を生じさせてしまい
それが苦悩に繋がったりもするのぢゃ。だから最終的には、頭は良いに越した事はない
一つ例をあげれば
人間の心は「他者の図々しさを嫌う」し、「嘘偽りや誤魔化しも嫌う」
それから何かを貰えば「お返し」も気にするし、「復讐」もまたお返しの一つぢゃろう
凡人と言うのは「平和を望む」。しかしその平和とは「持続が必要なもの」であり
それ相応に「折り合いと忍耐」が伴なうし、「負荷が多ければ平和を破棄したがる」
そもそも平和とは、最も望ましい状態というのが一般論ではあるが、しょせんは
「ご都合的なもの」でしかないのぢゃ。つまりそのご都合を通せば「仕返し」が来よる
だから始めに言うておくが、悟りは「ニュートラル」なのぢゃ。平和思想ではないのぢゃ
そもそも「思想」でもないし、「願望」でもないし、和智が「平和」という言葉に対して
小突いて否定してやるのも、凡夫への意地悪ありきの、「精神の解放はそこぢゃない」
という教えでもある (-人-) 全部わかれば苦しくなくなるんだよ。ああそういうことだったのかと。
そのとたん疲れはなくなるね。
すぐに苦しみがやめばそれに越したことはないよ。 「平和を望まない」
これが大切なニュートラルの精神ぢゃ。何故ならば、それを望めば、多くの「不足」が
見えてきて、その穴埋めに心が囚われるし、環境は諸行無常に移り変わるし
自分の身体だって老いて変化していく。何か「良好な状態」を望めば、それと同時に
「不測の事態」が生じてしまうわけで、けっきょくは「望まずに手離す」ほうがラク
なのぢゃ。だから原始仏教の者は、乞食みたいな者が多いのぢゃ
あの人には常識がない、道徳がない、無法者だ、人でなしだ、という念が起こるのも
自分が「良好な状態を望んで、不測の事態を生じさせておる」からに過ぎず
また意地悪を言うが、和智は、銃が大好きで、携帯したいし、働くぐらいなら強盗する
ふふふ (●´ω`●)yー~ >>188
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ悟っていれば諸法無我だと分かっていると思うお
後々になってもずっと心を読む必要もないと思うおwww 強盗もまた、一つの生き方なのぢゃ
成功するも、返り討ちにあうも、運次第
逃げ切れるも、裁かれるも、運次第
どうなろうと、何とも思わんが
一番嫌なのは「働け」と言われること
だから言うたやつの家に、強盗に行くのぢゃ
言葉で言わずとも「構造の原因」ならば
強盗しに行くのぢゃ。例えば老害とか
例えば女とか。ご都合が邪魔なのぢゃ
意味は分かるよね?
和智は、何もしたくないのぢゃ (●´ω`●) ♪ >>177
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ>>173で質問したけど
じゃあ観察しない方がイイじゃんwww 頭のよさとは賢い事www
南無ビッグアミターバのみが偉大なリwww
笑っちゃ魚www 吾輩は小学校時代の夏休みに毎朝夕に『雲の観察日記』を
やってのう、先生に褒められたことがあるのじゃが^^
テラワーダ仏教の観察はまた違っているのじゃのお^^
◆観察で妄想が消える アルボムッレ・スマナサーラ長老
https://j-theravada.net/dhamma/kougi/kougi-151/ 198.妄想の所有権が消える。
妄想の売買をやっている。 ◆観察で妄想が消える アルボムッレ・スマナサーラ長老
「智慧のある人は、問題が起こったとき瞬時に答えが出ます。全然考える必要がないのです。
たとえば会社で問題が発生したとしましょう。社員たちが皆「どうしよう、どうしよう」と
頭を抱えて混乱しているとき、智慧のある人はなんのことなく、
「こうすればいいんじゃないか」と言うのです。みんなは、
「あんたは全然真剣に考えていない。問題の重大さが分かっていない。
いい加減なことを言うなよ」と腹を立てるかもしれません。でもよく見てみると、
その答えはピッタリ適切なのです。智慧のある人は他の人のように考え込まなくても、
「こうすればいい」と適切な答えが明確に出せるのです。
必要なのはそれです。それが智慧です。問題が発生したとき、取り乱さずに、
即座に答えを出せることが智慧なのです。考え込むことではありません。」
駄目だこれは。
空のみではだめ! 頭の悪さとは馬鹿な事www
南無ビッグアミターバのみが偉大なリwww
笑っちゃ魚www こじちゃんの書きこみ・コメントを、
吾輩のSkype仲間に紹介させてもらったのお^^
(人''▽`)ありがとう☆じゃよ^ー^ >>203
アンカーの下に行間あける癖が
出ておるのお^^w 共有ちゃんがないがじゃよ、
良いことは共有してもええのお^ー^ >>206
何者じゃ^^
コテを付けてあげるのお^^
おぬしのコテは
【ビニールパンツ】がええのお^^ 良いことなど主観だが楽しいことを共有しようが外道は外道じゃな 略して【ビニパン】じゃよ^^
ええ名前じゃのお^ー^ >>210
しかしお宅のコテハンは超絶ダサイが誰かにウケルとでも思っておるのかのう >>194
例えば、真冬日に暖かい露天風呂に入ろうとすれば、一旦、衣服を脱いで裸になり
クソ寒い外気に肌身を晒さなければならない。脱ぎの苦しみとは、そういうものぢゃ
(-人-) 一人旅もええがじゃよ^^
友人と旅行も、気を遣う事があるのお。
嫁はんと旅行が一番楽しいのじゃよ^ー^
よくケンカもするが、旅の中に消えていくのじゃのお^ー^ >>211
>しかしお宅のコテハンは超絶ダサイが
じゃあ、超絶ダサくないコテハンを
おぬしが付けてのお、見本を見せて
欲しいのお^ー^ 仏教とはサイの角
角が強い方が勝つ!!
それがキリングバイツ(仏教)だ!! おれの角が一番かっこよくて凛々しいから
おれの角こそ本物の仏教な
わかったかああああああああああああ 違ういうなら角ぶつけてこんかいわれえええええええ
サイの角とは敵を砕き突き進むものおおおおおおお
その覚悟なきものが菩薩を名乗るなたわけがああああああああ ワシの凛々しい角より凛々しい角もった菩薩が
おるんかわれえええええ?
角みせいいいいい
角ううううううううう >>216
外道は否定しとけや
味噌も糞も一緒じゃな
どうりでいつもプ〜ンと臭うわけじゃ わしの角が一番かっちょいいから
わしの教えが本物の仏教な
わかったか!!粗角菩薩共うううううう お釈迦様がいうたこと絶対
仏教はサイの角
なら一番かっこいい角が本物うううううう メスにモテるのはかっこいい角もった男っていうのは
哺乳類界の常識いいいいいいいいい >>221 ID:D+snrO7X
>外道は否定しとけや
>>215 ID:D+snrO7X
>外道でもええじゃないか
おぬし頭は大丈夫かのお^^
働き過ぎかいのお^^ 悟り修行は、真冬日に露天風呂に入る前の、クソ寒い中で衣服を脱ぐ苦しみ、と同じ
小悟とは、ぬるま湯温泉。顔や肩がまだ寒いし、立ち上がればまたすぐに身体が冷える
大悟とは、絶妙な湯加減。血行が十分暖かくなり、顔や肩に当たる風すら心地よく
温泉から上がり衣服を着るまで外気に晒されても、コーヒー牛乳を飲める余熱がある感じ
で、実際に露天風呂に入る訳ではなく、精神状態がそのような感覚になるから
心の中が四六時中、露天風呂におるような心地となる。当然ながら、無料ぢゃ
その修行をしてない凡夫は、露天風呂へ行きたいけど寒いから嫌だ、と脱衣所のなかで
汚れた身体のままでエアコンの温風に当たってるんぢゃが、風向きが変わると寒い状態
修行者とは、「よし、脱ぐぞ!」と決めて、衣服を脱いでいくごとに「うっわ、寒ッ!」
となってガクガク震えてきて寒イボが立ってきて「面倒くせぇ!」となる一番に辛い状態
(-人-) >>221
>どうりでいつもプ〜ンと臭うわけじゃ
凄いのお、掲示板の書き込みで
臭うのかのお^ー^
おぬしは胡散臭いがじゃよ^^w 悟り修行は「解脱修行」。脱いで解く。露天風呂の喩えは、的を得とるのぢゃ
さて、次はその「脱ぐ衣服」についてぢゃが、人はさまざまな「衣服」を
その精神に纏っておるものぢゃ。男ならば男らしくあるべき、女なら女らしくあるべき
大人なら、社会人なら、それ相応の地位なら、母親や父親なら、あるいは日本人なら
などなど、どれか一つを観ても「こうあるべき」という自心の要請に応える「衣服」を
そこにいくつも見つけることが出来るぢゃろう。複雑な社会環境で生きる現代人ならば
心に纏った衣服の数が多いどころの話しではなく、衣服の上に「甲冑」まで着込んでおる
その「甲冑」は、社会生活を生き抜く上で、凡夫どもが懸命に身に付けてきたもので
それが有るからこそ、凡夫どもは「◯◯さん」と、敬称されたりもしておる
しかしながら、考えてみれば甲冑は「鋼鉄製」であり、露天風呂に入るには邪魔なもの
そしてその重量たるや、兜に肩当てに胸当てに胴巻きに小手に腰掛けに足具足と
実に重苦しく、甲冑のなかは戦の最中でもなければ、外気にさらされ冷え込んでしまう
だから甲冑の外に陣羽織も着とるし、甲冑の中には鎖帷子も着込んでおる
さあ脱ぐのが大変ぢゃ、常日頃から社会生活のなかで「頑張って生きてきた」お主らは
「重武装の鎧武者」なのぢゃ。これだから悟り修行は大変ぢゃし、面倒なのぢゃ
外は氷点下ぢゃ。自我というのは「恐れ」から生じた思考であり、そいつが着込んできた
陣羽織と甲冑、鎖帷子と衣服を、すべて脱いで丸裸にならねば、露天風呂には入れない
そのまま入るとどうなる?後でムダに重くなるし、着心地も悪く、冷えればなおさら寒い
「解脱修行」が、如何に大変かを、よく分かったであろう?だから人によっては
一生をかけて悟り修行に挑み続ける者もおるし、何十年もムダ足を踏んどる者もおるのぢゃ
(-人-) ♪ お主らは知るが良い
和智はいつも絶妙な湯加減の露天風呂に浸かっており、余熱が十分だから
氷点下の外気にさらされても、余裕ブッこいて「フルチン・ダンス」まで披露しておる
これが、目覚めた者の心境なのぢゃ
\\\\٩( 'ω' )و //// スジャータ大山などは
かなり重武装のままの「臨戦態勢」であろう。いつでも刀を抜いて戦えはするが
悟り修行という脱衣所においては、脱ぐことを躊躇っている、1人の凡夫に過ぎん
悟りに最も近い順に、人を並べるならば、より心に纏ったものが軽い者が先となる
ロクな衣服を着れない軽装の乞食が最も近く、粗暴者や荒くれ者や傾奇者も近い
ヤンキー兄ちゃんなんか、すぐに心を開いてくれるからの。それだけ着てる物が少ない
地位の高いものほど多く着込んでおるし、女も女で、巴御前のように陣羽織が華やかぢゃ
それが凡夫どもの「プライド」でもあり「アイデンティティ」であり「自我」なのぢゃ
(-人-) >>225
こじくんシンパのお宅も外道ということや
外道でもええじゃないか こじのそれは単なる妄想な。
何度もいうけど、慧は定から発現するのであって、薬物で「我が剥がされる様な体験」とは全く違うから。
一休禅師曰く
「本来の面目坊が立ち姿一目見しより恋とこそなれ」
と。
禅定が深まると有為から離れる体験をするんです。
それが一瞬でも5分でもね。
(続く) >>234(続き)
唯識仏教では五八って言うそうですが、つまり、前五識と阿頼耶識が直結し、意識(六識)と末那識(七識)が休んでる状態でしょうね、一休禅師のお言葉は。
(続く) 後、観察だの思考を止めるだのって、意味を理解してないな。
正しい観察とは智慧によってなされるのだから、闇雲な定なき観察をしても意味が薄いだろ?
また、思考を"止める"のではない。
「一波を以って一波を消さんと欲す、千波万波交々起こる」
というだろ?
禅宗では正念相続っていうけれど、数息観を思い出して欲しい。
数を数え直すだろ?集中(正念)に還るんだよ。 坐禅を何度も何度も何度してれば誰でも定は深まります。(坐禅は安楽の法門なり)
時には動中に定に入る事もあるんです。
その時に何かの機縁に触れて智慧が発現するんですよ。石の当たる音だったり桃の香りだったり、棒渇だったり、言葉だったりね。 >>230
wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
着たまま脱げ。 お釈迦は仏教はサイの角だとおっしゃいました
ぼくの角が一番かっこいいのでぼくのいうことを聞きなさい 仏教はサイの角です
チンコと一緒で大きさ硬さ持久力がすべてです
角に自身がないやつほど自分の角を覆い隠くすための知識を
ひけらかすのです >>237
>その時に何かの機縁に触れて智慧が発現するんですよ。
つまり、転識得智って事です。
なお、それが全ての識において一度に全てが智慧に入れ替わるって事ではありません。
阿頼耶識が大円鏡智に一変には変わらないって事です。 お釈迦様はインドに住まわれてからたから
インドシロサイの角に仏教をたとえました
それはシロサイの角より大きくて凛々しくて硬いものを
みたことないからです
もしわたしの股間の角を見たのならお釈迦様は
わたしの股間のりりしい角を仏教にたとえたでしょう
つまりそういうことです 露天風呂の話はとてもいいですね
家は中庭に自作の露天風呂あるので
冬の寒い日や雪の降る日に入るのは
決意が要りますよ
水浴びするとき程じゃないけどね クラムチャウダーの残りと食パンかフランスパン食いたいなwww
買い物に行くか、金使うの嫌だな〜www
南無ビッグアミターバのみが偉大なリwww
笑っちゃ魚www カシスジャムは美味しいwww
南無ビッグアミターバのみが偉大なリwww
笑っちゃ魚www >>241
「その時に何かの機縁に触れて智慧が発現するんですよ。 」
そもそも 大山自身には、その「知恵が発現して」いないくせしやがって、
さも分かっていそうに、そのような知識披露をしまくる。
正気か?????????????????
キチガイ
wwwwwwwwwwwwwww 貧乏人が金を使うのが嫌に成ったら世の中お終いだなwww
そろそろ、日本も終わりだな〜www
地獄の2019年じゃなwww
南無ビッグアミターバのみが偉大なリwww
笑っちゃ魚www >>246
ハイハイ、いつもの他人の体験や知識に対する妬みや嫉みが発現しましたね。
まぁ、坐禅しなさい。
で、>>84の返事まだかな? 248.悟れない外道であるバカ大山は、威張りたい。大爆笑である。 大山さんも出来るだけ
難しい本を読んでいない人でも
わかりやすい簡単な言葉で
何か語ってみてくれませんか? 医療が未発達な時代においては、キチガイは宗教が扱う領域だったかもしれないけど、今は医療も十分に発展して来てるじゃないか?
キチガイは去れ!
心療内科に行け!
ここはお前らのいる場所じゃない! >>250
分からなけばまずは調べて、それでも分からないな訊ねればいいんです。
二度目 【幸福の科学】大川隆法『性の儀式』一番弟子が懺悔告発!
https://togetter.com/li/1324136
ある元信者は、手紙に書かれていた一人の女性の名前を挙げ、こう証言する。
「実は彼女のご家族から、"事件"の話を直接聞きました。
大川総裁は、個人リーディング(守護霊なるものを呼び出す行為)をすると称して、女性を部屋に連れ込んでいたのです。
その女性はとても信仰心の強い人だったのですが、その"事件"の後は自宅にあったご本尊をたたみ、半年ほどはショックで毎晩吐いていたそうです。
ご家族も相当悩んでいましたが、結局、その女性は『偽りの祈願はできない』といって現在は教団と決別しています」 >>234
慧 (智慧) は、禅定 (悟り) から発する。これは正解ぢゃが、如何なる方法で悟るのも
悟りは悟りなのぢゃ。そもそも大山は悟っておらんから、智慧も禅定も分かるまい
経典という「教科書」の引用や、坊主という「先生」が言ってたから、という理屈だけで
知った気になるのは良くない。それに古い教科書は普通はどうなる?書き換えられるのぢゃ
>>236
悟っておらん大山は、何の意味を理解しとると言うのか?
正しい観察は、悟った者の禅定から見て分かるものぢゃ。智慧は禅定のオマケなのぢゃ
現代口語で喋れ。古語の相手はせん
数息観の「数え」や、阿字観や月輪観の「見る」、虚空蔵求聞持法の「連呼」などは
禅定に至るまでの、意識集中のための代用法に過ぎず、それ自体は単なる行法なのぢゃ
その代用法にのみ帰結してどうする?
>>237
坐禅をする時間や回数は、何の意味も為さない。瞬時に悟る者もおれば
大山のように30年以上も座り続けて、悟れぬ者もおる。お主がよく自覚しておろう
>>241
用語ばかり持ち出すな。誰も興味ないぞ。己の体験をもとに現代口語で喋れ
できねばただの「本読み」に過ぎず、仏教を語る資格などあるまい
(-人-) ♪ >>248
大山には、これと言って実践から知れた語れるだけの体験も無ければ
知り得た知識に対する熟知も無く、言葉をムダに振りかざしておるだけなのぢゃ
>>250
大山の読んどる本など、決して難しいものではない。すべての大乗経典がそうなのぢゃ
凡夫には理解が難しくとも、一度悟ってしまえば、何のことはない落書きと同じぢゃ
(-人-) ♪ 大山さんの話を聞きたくて
真剣に接してくる人は
結構いますか? >>252
大山に尋ねてもムダぢゃけどのぅ。何遍も言うが、古語の専門用語は現代口語に直して
凡夫にもできるだけ分かり易く書け。そうでなければ、大山は単なる知識自慢
熟知もしておらん古語を乱用するだけの、ただのパープリンぢゃ
(-人-) ♪ >>257
悟りを開いた覚者であるこの和智がハッキリと断言してやろう
「仏教には一切の敷居は無い」
敷居を感じる教えなど、出来の悪い教師が行なう「やっつけ仕事的な詰め込み教育」
仏は決して、凡夫に対してムダな知識を教授する者に非ず。顔を洗って出直して来い
だが顔を洗っただけでは、お主にはほとほと無理な話しぢゃろう。お主に仏教は百年早い
(-人-) ♪ >>256
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
定慧は一等なんだよ、定無くして慧は発現しないの。
頓悟だろうが漸悟だろうが、そこには歴然として定があるの。
理としては頓悟でも、事としては習気が残るからお掃除が要るんだよw
>慧 (智慧) は、禅定 (悟り) から発する。
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
禅定は悟りじゃねーよw
何も分かって無いんだなぁ?
禅定が何かの機縁に触れて智慧が発現するんだよ。
その認識を覚だの自内証と呼ぶんだよ。 大山よ
仏教は、断じて「学問ではない」
徒が学んでもダメぢゃし、師が教えてもダメぢゃ。感じるもので、感じさせるものぢゃ
うふふ (●´ω`●)yー~ >>261
アホw
お前が勝手に敷居を作ってるんだよw >>256
∞ノノハ∞
川^〇^ハレこじさん涅槃って当たり前に備わっていたんだね♪
この動画分かりやすかったお
坐禅していればよいって訳じゃなくてこじさんがよく言うニュートラル状態じゃないかなぁって思った♪
安穏寺禅会 講話 丹下覚元「『般若心経』色即是空 空即是色について」
https://youtu.be/gA8P79qx52I
如浄禅師「風鈴の偈」丹下覚元
https://youtu.be/P_ubfZmRE7I 先ず、他人の成りすましを覚りやめる事から始めなさい。 >>263
そんなの百も承知なの。
それを踏まえ上で言ってるの。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています