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--佛教論議の伽藍スレ-- 第四巻

レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/01/29(火) 03:00:13.20ID:pS7QGcmv
仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。

-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
   2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
    (チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。内容を一つに纏めてから投稿しよう)
   3.コピー転載やリンク貼りのみの投稿は慎んでください。
   4.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
   5.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主の判断で即刻、退場してもらいます。
   6.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
    (1950年の世界仏教会議にて決議した)
   7.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
   8.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
   9.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(及びレス番2の戒律と資料リンク)を変えないこと。厳守!!
 以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。
0944神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/22(水) 03:33:53.15ID:Aq16JZle
62 「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。

103 戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。

160 自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。

380 実に自己は自分の主(アルジ)である。自己は自分の帰趨(ヨルベ)である。故に自分をととのえよ。──商人が良い馬を調教するように。

(以上ダンマパダ)

五 業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。

六 もろもろのブッダは「我(アートマン)が有る」と仮説し、「無我(アナートマン)である」とも説き、また「アートマンなるものは無く、無我なるものも無い」とも説いた。
 ※ 中観派には<定説>というのがないのである。

七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。

八 「一切はそのように【真実で】ある」、また「一切はそのように【真実で】ない」。「一切はそのように【真実で】あり、またそのように【真実】ではない」。「一切はそのように【真実で】あるのではないし、またそのように【真実】ではないのではない」
―――これがもろもろのブッダの教えである。

九 他のものによって知られるのではなく、寂静で戯論によって戯論されることなく、分別を離れ、異なったものではない―――これが真理の特質(実相)である。

(以上中論第一八章 アートマンの考察)
0945神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/05/22(水) 16:48:38.78ID:Aq16JZle
尊師「なすべきことをなし終え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、『わたしが語る』と言ってもよいでしょう。
また『人々が、これこれは我がものである、と語っている』と言ってもよいでしょう。
真に力量のある人は、世間における名称を知って、言語表現だけのものとして、仮にそのような表現をしてもよいのである。」

>真に力量のある人は、世間における名称を知って、言語表現だけのものとして、仮にそのような表現をしてもよいのである。

これは龍樹のいう世俗諦として、仮に「私が語る」とか「我がものでえる」と語っても良いということではないかなと。
勝義においてはそう言った言語表現はなく全ては空であるので我(という概念)のあるなしは関係がなくなる、
もっともこれは龍樹の観念でブッダの思想と完全に一致してるかどうかは定かではないですが。
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。