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--佛教論議の伽藍スレ-- 第四巻

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0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/01/29(火) 03:00:13.20ID:pS7QGcmv
仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。

-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
   2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
    (チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。内容を一つに纏めてから投稿しよう)
   3.コピー転載やリンク貼りのみの投稿は慎んでください。
   4.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
   5.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主の判断で即刻、退場してもらいます。
   6.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
    (1950年の世界仏教会議にて決議した)
   7.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
   8.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
   9.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(及びレス番2の戒律と資料リンク)を変えないこと。厳守!!
 以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。
0657承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2019/03/29(金) 01:20:51.41ID:GavmiYV8
>>654
天皇陛下を尊敬している外国の要人は多数いるが、
それらの人々は天皇陛下の本心がどうとか言わない。
逆に天皇陛下の本心だとデタラメな事を言って世界中から嘲笑われるのは朝鮮人だけ。

敬意とは、そういう話じゃあ、ありませんからね。(笑)

(^。^)仏家は釈尊に帰依してるから経典に依るけど、お前らは自らの盲執に執着するから良いとこ採りに右往左往する。(笑)
0658神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/29(金) 01:29:41.42ID:I4Dd7DZK
>>657
文書読めてない早とちりさんは黙ってたほうが吉
己の痴を晒してるだけだぞ
0659神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/29(金) 08:31:08.72ID:yg4JNMPY
 
真俗二諦
その当時の、その地域の人々に仏教を理解せしめるためには
その当時の、その地域の人々にとっての世間的な「想い」を一応認めて
その理解のうえで、仏教を理解せしめるという
対機説法としての?
 ↓

常楽我浄の

仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある
 ↓

スッタニパータ 21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない

彼岸に到着しているのなら
対機説法としての
 ↓

インドの人々にとってのアートマンも
常楽我浄も
菩提分法も
必要はない(筏の必要はない)

>有我論であったとは言わない

みたいな?
0660パーピマン
垢版 |
2019/03/29(金) 10:26:05.58ID:nnPxrX51
>>859
>おじゃる

君は、スレ主である宝珠に書き込みを遠慮するように言われてたはずだ。

それは、コテを外せばOKというものではないでしょう?
まさか、コテを外せば分からないだろうとは思ってないだろうが。

貴方が、拒否されたのは、
@他者の見解を曲解し、それをその人の見解として述べる・・・・・「〜〜みたいな?」
Aコピーの連投に終始し、決して自己の言葉として述べない。
B分からないことを質問するのであれば、その回答に対して「ありがとうございます」
 の一言でいいものを、「それは・・・・・みたいなことでおじゃりますな?」と
 コピペを貼り付け、結局は質問ではなく、自己の見解の押しつけ(それも、しばしば
 論点がずれてる)の繰り返し。

・・・・以上のようなことが原因だと思うけどね。

「・・・・・は、〜〜〜です。」 「・・・・・・は、違います。」 のようにはっきりと自己の見解を
述べるようになるまでは書き込みは止めた方がいいでしょう?

貴方はかつて、一代に「仏教を学ぶにあたって、どのような本から学んでいけばよいか?」
と尋ねた際にも。結局、そのアドバイスを全く無視し、従来の書き込み方式を続けている
と言う事実があります。

これからも、そのやり方を続けるつもりならば、自分のスレでやりなさい。
貴方と対話を希望する人は、そこであなたと対話をするでしょう。
0661宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/29(金) 11:48:02.01ID:tYLRvfsk
>>660
ありがとうございました!! (感謝)。
さすがですね(一代が認めただけのことはある)...。
いつも沈着冷静に各投稿と流れを読んで分析し、しっかりとその意味を把握している。
頭が下がりますm(__)m
0662神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/29(金) 12:00:06.75ID:V1f2NYnf
スレがとっ散らかるのが嫌なのかな?
0663宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/29(金) 12:07:45.24ID:tYLRvfsk
〜皆様へ
なかなか投稿の時間が取れないことも多くて、
どうか気長に宜しくお願い致します。どうもすみません。
-------------------------------------------------------------------------------------------
---お知らせ---
今夜、素晴らしいドキュメントがTV放送されるようです。
仏教の関心のある方には必見かと思います。
私は勤務なので録画して見ます。

NHKEテレ1
午後10時00分〜 午後10時45分
ドキュランドへ ようこそ!「輪廻(りんね)の少年」
 『パドマ・アンドゥは「リンポチェ=輪廻転生の高僧」とされる存在。しかし、中国のチベット政策のために、ラダック地方と“本家”と
の接触は限られ、パドマも“特別な才能”を失っていく…世話役のウルギャンの勧めで、少年は「本来あるべき自分になるために」雪降るチ
ベットを目指してインドを横断する旅に出る。長く険しい道のりの末に、たどりついたチベット仏教寺院。そこで2人が見つけたものとは─』
 https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/4471/1418034/
 https://www4.nhk.or.jp/docland/
-------------------------------------------------------------------------------------------

>>596承狂
これは大変、失礼しました。
「三世両重説」は十二縁起に関する話ですよね。
うっかり、“三世業論についての否定”の話として勘違いして読んでしまいました。
ここに謝罪をします m(__)m
0664宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/29(金) 12:20:13.74ID:tYLRvfsk
>>656
>つか、「【文言】上」は、ここぞとばかりに引用してもいいくらいなのに。
>それとも、「【文脈】上」使えない?w

あくまでも“大乗の教義”なので、意識的に殆ど採り上げて来なかったということ。
大乗は、当時の上座部に反旗をひるがえして独自の創作経典を制作していったのだけれども、
その創作過程においてヒンドゥーを取り込み利用していくという流れにおいて、
しかし結果的には、テーラワーダが誤解し放棄してきた“ブッダ本来の説かれた「真実の自己」の探究”
という最重要なキーポイントへと独自に近づくことが出来たのだということ。
これを一般的には、“ヒンドゥー化”(反仏教的)と称して批難する評価があるわけですね。
私は読誦経典の一つとして、観音の御縁日(毎月18日)や納骨堂での読経などで唱えています。

>(臨済)禅家が持て余す(w)延命十句の常楽我浄を、
> 神智学的に読み解いてみてほしいもんだw       

<<「無常」「苦」「無我」「不浄」>>とは、真逆の世界が涅槃の<「常」「楽」「我」「浄」>>となる。
なるで、涅槃が無我である筈がないのです。セブンの説明にあった「この現象界が無我であるということを悟ること」によって、
という言い方はもちろんとてもイイと思います。現象界が「無我」だと悟って、その「無我」から解脱して「我」の境地へと至るのだと。
>>588の私の説明というのは、真言宗智山派の機関誌における解説を元にしたものです。
(真言宗)だから、より「常」「楽」「我」「浄」の理解が明確なのだと思います。
0665宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/29(金) 12:21:53.61ID:tYLRvfsk
神智学的な視点での違いは特にないと思います。
もしも、強いてあげれば、「我」についてはウパニシャッドのアートマンを、神智学的な表現と理解において更に具体的に説かれるだけです。
神智学ではこれを「モナド(真我)」、「神の閃光キラメキ」、「スピリット(霊)」(心霊学用語の「霊」とは異なる)といっており、
“ロゴス(神)の分霊”がモナドであり、このモナドが神の意志と御径論に沿ってこの現象世界に自身の「魂 ソウル)を反映していく...。
これが“霊の物質化”です。
魂が物質界の輪廻転生によって獲得してきた人生経験の記憶データのすべてを上位のモナドが吸収して、
これらすべての人間の体験記憶がロゴス御自身の経験値へと加味プラスされていく...。これらが物質の霊化だとされます。
魂は一定基準の必要経験を獲得してその役目を終えると、モナドへと再吸収されて“消滅”します。
これが神智学的な意味での“輪廻の終焉”となります。
0666宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/29(金) 12:26:10.28ID:tYLRvfsk
>敢えて、大乗的な云い回しを用いるならば、つまり、こういうことになります。
>この現象界というものは、「無常」「苦」「無我」「不浄」だということ。
>そこから解脱した境地である涅槃は、その真逆の「常」「楽」「我」「浄」となる。
>涅槃は、「常」-常住で永遠不変。「楽」-苦が無くて安楽である。
>「我」-なにものにも縛られることなく自由自在である。「浄」-あらゆる汚れを離れている。
>その境地をありのままに体感体現している自己があり、その状態にある者のことを他の者たちが仏さまと呼ぶのです。>>588

「禅」(禅宗)は、ただ黙って信仰対象としての“お釈迦様と「禅」修行一本”に絞ってさえいれば
テーラワーダ的な諸派になれたところを(それが望ましいという意味ではないが)、あくまでも大乗の一派としての位置付けと枠組みの中にあって、
その流れの中で「やれ観音様だ〜」、更には「豊川稲荷(神)だ〜」とやっているから自身の内に葛藤を抱えているのです。
『大悲心陀羅尼』を含めてかなり密教化した観音と、そして、以前にも述べたように豊川稲荷の荼枳尼天は関わるべきではないバケモノでもあるし
(元々、これを導入したのが真言宗ですが、とっくに密教の中に取り込まれていた)...。
まっ、何はともあれ“思い通りにならない苦の領域”から解脱して、自在(観自在菩薩=観音菩薩)を獲得した涅槃の観音は、
衆生を救済すべくこの現象界において三十三化身を顕して虚空に遍満している、と。

つまるところ、この現象界を「無我」だと悟って「我」に至るのと同様、
現象界は「空」だと悟って「涅槃」に至るとみれば、「空」に対する「自性清浄.如来蔵.仏性.我」
についての論争などは即座に解消するでしょう !?
0667承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2019/03/29(金) 12:54:17.42ID:GavmiYV8
>>663
三世両重説の否定は良いの?
三世両重説が三世業報の根拠じゃないの?
相変わらず宝珠の仏教解釈は訳が解らん。(笑)

あと、>>664の智山派の言う「我」は大我のことで、宝珠らの想定する「本当の私」ではありません。
「文脈」を汲み取るとそうした事が書いてないのは明白のはず。(笑)

(^。^)密教は、特にこうした誤解を招く大胆な記述が多いので、俺は素人にはお薦めしない。(笑)
0668
垢版 |
2019/03/29(金) 13:17:24.79ID:p3cSNViQ
宝珠は、上の方で長文書いてた人を、やっぱりワシだと思ってたようだなw

ほぼ賛同同意見だけど、ワシじゃないw
0669延命十句バリエーション
垢版 |
2019/03/29(金) 13:22:40.26ID:p3cSNViQ
観世音。南無仏。
与仏有因、与仏有縁、仏法僧縁、常楽我浄。
朝念観世音、暮念観世音。念念従心起。念念不離心
              『延命十句観音経霊験記』(白隠)

觀世音。南無佛。
與佛有因、與佛有縁。佛法相縁、常樂我「淨」。(二水の浄)
朝念觀世音、暮念觀世音。念念從心起。念佛不離心
              『太平御覽』卷六百五十四 釋部二 談藪の条

観世音。南無仏。
与仏有因、与仏有縁。仏法相縁、常楽我浄。
朝念観世音、暮念観世音。念念従心起。念念不離心
              『仏祖統紀』巻第三十七 文帝 元嘉二十七年

觀世音。南無佛。
與佛有因、與佛有縁。佛法相縁、常樂我情。
朝念觀世音、暮念觀世音。念念從心起。念佛不離心
              『太平広記』卷百十一 報應十 王玄謨の条

觀世音菩薩。南無佛、南無法、南無僧。
佛國有縁、佛法相因。     常樂我淨、有縁佛法。
              『佛説高王觀世音經』(白隠)
0670神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/29(金) 14:17:38.99ID:8s0Tm+GF
>>655
どういたしまして!


『最高アートマンが認識主体の対象であるならば、これは無明によって誤って想定されたものである。
ーーー と伝えられている。 
[このアートマンが]縄に[誤って想定された]蛇のように排除されるとき、[このアートマンは]不二である。』

『無形のものと有形のもの、行為と潜在印象は、無明のために、その見[=純粋精神]が混迷した人々によって、
アートマンに誤って想定されたものである。
それゆえに、[天啓聖典は]、「そうではない。[そうではない]といって、[それらを]見を本性とする
[アートマン]から排除し、見のみを残したのである。』
0671宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/29(金) 14:56:40.23ID:tYLRvfsk
>>667承狂
>三世両重説の否定は良いの?
>三世両重説が三世業報の根拠じゃないの?
>相変わらず宝珠の仏教解釈は訳が解らん。(笑)

十二因縁そのものが本当にブッダ本来のものかが確信が持てません。
十二因縁のそれ自体、すべてが部派に依るものであるかもしれません。
ですが、業報輪廻は仏典すべてに貫く根幹ですよ。
もしも、これもダメならば仏典そのものすべてが無価値だということですから。

>あと、>>664の智山派の言う「我」は大我のことで、宝珠らの想定する「本当の私」ではありません。
>「文脈」を汲み取るとそうした事が書いてないのは明白のはず。(笑)

常・樂・我・浄の「我」を“真実の自己”とするのは、
割とさまざまな方によって採用されている見解ですよ(引用は一例です)。
また私は、「大我」とは真実の自己が具現する様についての言葉だと見ています。
もしも、それがまったく違うというならば是非、その違いをここに示してもらえます?

『★常・樂・我・浄
 涅槃(究極のさとり)の徳を4つに分けて示したもの。「常」は消滅変化をまぬがれている徳、「楽」は生死の苦しみを解脱している、
「我」は真実の自己を得ている徳、「浄」は迷妄を離れて清らかである徳、である。』
(中村 元著『仏教のことば/生きる智慧』主婦の友社刊)

>俺は素人にはお薦めしない。(笑)

あぁぁ.. シロウトで悪かったね(爆)。
下手な僧侶より解ってると思うけど...。
0672宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/29(金) 14:59:18.77ID:tYLRvfsk
>敢えて、大乗的な云い回しを用いるならば、つまり、こういうことになります。
>この現象界というものは、「無常」「苦」「無我」「不浄」だということ。
>そこから解脱した境地である涅槃は、その真逆の「常」「楽」「我」「浄」となる。
>涅槃は、「常」-常住で永遠不変。「楽」-苦が無くて安楽である。
>「我」-なにものにも縛られることなく自由自在である。「浄」-あらゆる汚れを離れている。
>その境地をありのままに体感体現している自己があり、その状態にある者のことを他の者たちが仏さまと呼ぶのです。>>588

「禅」(禅宗)は、ただ黙って信仰対象としての“お釈迦様と「禅」修行一本”に絞ってさえいれば
テーラワーダ的な諸派になれたところを(それが望ましいという意味ではないが)、あくまでも大乗の一派としての位置付けと枠組みの中にあって、
その流れの中で「やれ観音様だ〜」、更には「豊川稲荷(神)だ〜」とやっているから自身の内に葛藤を抱えているのです。
『大悲心陀羅尼』を含めてかなり密教化した観音と、そして、以前にも述べたように豊川稲荷の荼枳尼天は関わるべきではないバケモノでもあるし
(元々、これを導入したのが真言宗ですが、とっくに密教の中に取り込まれていた)...。
まっ、何はともあれ“思い通りにならない苦の領域”から解脱して、自在(観自在菩薩=観音菩薩)を獲得した涅槃の観音は、
衆生を救済すべくこの現象界において三十三化身を顕して虚空に遍満している、と。

つまるところ、この現象界を「無我」だと悟って「我」に至るのと同様、
現象界は「空」だと悟って「涅槃」に至るとみれば、「空」に対する「自性清浄.如来蔵.仏性.我」
についての論争などは即座に解消するでしょう !?
0673宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/29(金) 15:03:45.30ID:tYLRvfsk
>>668
>上の方で長文書いてた人を

ん? どれのこと?
>>481>>505とかならば、七とは見てなかったけどね。

>>486
>駒大卒というのは、
>所詮は、やはり曹洞宗に着色されてるということなのかなぁ?
>まっ、宗門(曹洞宗)の看板を背負ってる以上は、“素直になる”のもなかなか正直いって難しいのでしょう...。
>これには除籍処分を受けて、無宗派になり、独立宗派でやっていくくらいの覚悟がないことには無理か。

↑あっ、それからこれは撤回します。ていうか訂正ですね!
別に、宗派宗門の看板を捨てる必要はないです。ただ自分自身がしっかりと理解をすればいいだけ。
そして、今の自分に与えられた環境の中で精一杯の努力向上をすればそれでいいのです。

>>672
失礼、操作ミスですm(__)m
0674宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/29(金) 15:06:56.22ID:tYLRvfsk
つまり、私の理解を開陳するとこういう感じになります。

“仏教発祥以前”の完成者たちの教えについては、仏教では「過去七仏」などといわれている。
実はこれこそがインドにおいて、聖賢リシたちによるヴェーダの伝承(文字化以前)とされているものなのです。
しかし、完成者の出現は遂に絶え、気の遠くなるほどの永い年月を経てこれらの教えはただの言葉だけとなって形骸化し、
祭祀中心となり、数々の迷信が蔓延っていった...。
そんな時代に、バラモンたちによって永く待ち望まれ予言されていた完成者の出現。目覚めた者であるブッダが遂に誕生することになる。
それがゴータマ王子の生誕でした。王子はその予言の通り、見事にブッダとして目覚め、その教えを説き始める。
こうしてブッダは、当時のバラモンたちの間違いを次々と指摘していった(それはヴェーダにおいて伝承された真理そのものの否定ではない)。
アートマンではないものをアートマンだと勘違いしているバラモン達、それはつまり、自己の魂ジーヴァを自覚するに至った超人的な行者たちだった。
確かに、彼らは驚異的な能力を獲得していたが、ブッダはそれらはまだゴール(涅槃)ではないこと。
彼らがアートマン(ではないものをそれとしてみる)を誤認していることを指摘した。
それがバラモン六十二見についての教え(パーリ長部『梵網経』)だった。
0675宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/29(金) 15:07:44.05ID:tYLRvfsk
ブッダは、彼らバラモンたちと自分が同類視され、教えが混同されることを避けるべく、
敢えて伝統的なヴェーダの教え方を採ることをやめて、認識できるレベルにない者に無駄なアートマンについての形而上学的な教えを説くことはせず、
必要な過程と実修行のみに専念することを指導する経験主義を貫いた。その目的は、真実の自己の探究であり、真実の自己の獲得とその具現だった。
それがアートマンのみをニルヴァーナだとするバラモン教と、真我(真実の自己)の実現こそがニルヴァーナだとするブッダの教え方との違い。
無くなるべきは、煩悩によって汚れた我執まみれの自己としての「自我」のことだったのだが、
ブッダが世を去って数百年が過ぎて、現象界においては(未完成者によっては)知覚され得ないアートマンのことを、
それはアートマンそのものが無いからであるとする勝手な誤解が部派仏教によって説かれるようになった。
その間違った無我の理解が、口伝によって(経典の記述とは矛盾するにも関わらず)二千年以上もの永きに渡って脈々と伝承されることとなる。
師(及び先達)から弟子へと絶対的な真理(ブッダが説いたもの)として伝承され、それを疑うことは決して許されなかった
(自分の愚かな頭で考えることはすべて我見であるとして排除され、それはブッダに対する不敬と冒涜として見なされた)。

しかし今日、近代仏教学の進歩によって仏典の研究が進み、彼ら伝統上座部と経典の記述との矛盾点が明確となったのです。
このことを認めたくない伝統教団の僧侶たちは、修行しないただの文献学者らの戯言として批難するのに必死となっているということ。
それが今の仏教界の姿なのです。


また、暫く席をはずしますm(__)m
0676承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2019/03/29(金) 16:53:49.55ID:GavmiYV8
>>674
これだとジャイナ教の教祖はブッダを詐称したって話だね。
「ヒンドゥを馬鹿にするな」と因縁をつけた人とは思えない御言葉ですな。(笑)
>>675
これは、釈尊が「本当の私」を知っててわざと弟子達に教えなかったとなる。
または釈尊が言ったことを直弟子達が伝えなかったとなる。
それは釈尊が人を見る目が全く無かったと言うのと同じで、共に釈尊を侮辱した話です。
いずれにせよ、そんな人の仏教なのに、釈尊はーとか経典がーとか言うのは矛盾した行いですね。
>>671
「業報輪廻は仏教経典全てにー」
例えば無記にはありませんね。
般若心経にもありませんね。
観音経、つまり普門品第二十五にもありませんね。
「全てに」って意味は判ってますか?

「真実の自己とするのは、わりと様々な方がー」
主婦の友とかの一般向けではなくて、専門家の書籍ではどうかな?
宝珠さんも、「ちさひろや著作」の仏教本でここの議論してほしくは無いだろ?

学者さんらの話は、まぁ、パーマンとかでやってくれ。
俺は「継承されてきた仏教」の側なんで、仮に文献学的に釈尊の本当の話が伝承と違っても全く関係ないから。(笑)

(^。^)信仰ってのは、その程度でどうこうなる話ではありませんので。(笑)
0677神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/29(金) 18:29:43.44ID:p3cSNViQ
常楽我浄について、
(有名無名どっちでもいいけどw)どっかの(禅家)和尚の解釈・法話なりでも挙げてくれば、
少しは、センスあって日本(禅)仏教の展開も見えてて
且つ自分なりの評価評論を加えられるくらいは事柄を理解できてるかな、
と評価してやってもいいものを、
手垢のついた中村元とか・・・・www  orz    >>671   (玄侑宗久は願い下げだけどw)

中国日本発祥の常楽我浄に、インド系「学者」の見解持ち込んで何の意味があるのか?と。


宝珠はホント劣化したな・・・。  ;д;
0678承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2019/03/29(金) 22:33:01.42ID:9NMWvHOf
結局の所、宝珠の「論拠」とか「勉強した」のは、一般向けの「分かりやすい仏教の本」って事ですね。
だから「龍樹菩薩」を否定して、その後継である日本仏教のつまみ食いもしてしまう。
禅宗と大乗なのに変な話になった一部宗派を除いて全てが龍樹の系譜なんだから、宝珠が期待する話なんか無いのも判らない。

(^。^)こーゆー人にも分かる「ような」書き方をされた中村先生は、賛否両論あるが、それでもやはり大乗の系譜である俺なんかは尊敬するよ。(笑)
0679宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/31(日) 06:13:02.60ID:lQSdb2U6
>>677
>中国日本発祥の常楽我浄に、インド系「学者」の見解持ち込んで何の意味があるのか?と。

その指摘の意味については理解できないこともないけれども...
しかし、「中村氏だったら、当然、それくらい分かってるだろう」というのは、
そんなに私個人の勝手な過大評価でしたかね?
中国日本発祥の思想(仏教解釈)だから、
これは大乗僧侶や大乗専門の研究者(そんな人がいる?)でなければ正しく判る筈がないとでも???

それから〜
一体、どこに禅僧による良い解説があるのか私は知りませんし、
ただし一応、こんなものは見つかりましたけれどね...

『常楽我浄 いつも変わることのないまごころ、何をしても楽しい思いやり、
本当の自分に巡り会い、この世の中で清らかな心の教えに触れることができます。』
(臨済宗円覚寺派管長/横田南嶺 述『延命十句観音経のはなし』)
 https://runrig-marketing.jp/syanai/wp-content/uploads/2016/02/%E5%8D%81%E5%8F%A5%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E7%B5%8C.pdf

これは臨済僧侶ですが、
「何をしても楽しい思いやり」とか、こんな解説しかできないのかなぁ〜と、逆にガッカリさせられます。
ネット上の僧侶解説なんてこんなものばかりですよ。
一応、ここでは「我」は「本当の自分」のことと説明されていますよね。
やはり、これなら私が取り上げた真言宗の解説のほうがイイでしょう。あなた方の嫌いな“真実の自己”ともいってないし。
それとも真言宗はお嫌いだったかな? 密教だし...。

そして、本当に酷いものになると、
“「常楽我浄」なるものは何も無いのだと知ること”が悟りなんだと説くようになる。
これは、つまり唯物論(唯物主義者による涅槃境地の否定とか)ということなのであって、
こういうのはブッダによって完全否定された見解ですよ。
禅の坊さんには、やはりそういうのが多くなる傾向なのだろうとこの私は見ています。
一応、ここに禅の坊さんらしいアホ解説の一例を上げときますから(宗派不明)。

参考:活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜
 https://blog.goo.ne.jp/cotou/e/c86b092c69690931f2aba9459723db36
0680宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2019/03/31(日) 06:16:46.90ID:lQSdb2U6
承狂さんへ
>>671追記:
>あと、>>664の智山派の言う「我」は大我のことで、宝珠らの想定する「本当の私」ではありません。
>「文脈」を汲み取るとそうした事が書いてないのは明白のはず。(笑)

確かに、そこ(その機関誌)では“真実の自己”のことだとは述べられてはいません
(ただし、承狂のいう「大我」という文字も出てきてないけどね)。
そして、>>588でもその通りに、特に“真実の自己”のことだとは私は書かなかった...。
では一応、その機関誌から原文そのものを紹介しておきますから。
これは、“お釈迦さまの三大行事に参加しよう”ということで、「花まつり」「成道会」「常楽会」の三つについて解説したものです。

『また、お釈迦さまは、この世は「無常・苦・無我・不浄」であると説かれました。これが仏の世界では逆になり、
「常・楽・我・浄」の四徳となります。
  常--仏の世界は、常住で永遠に変わらない 
  楽--仏の世界は、苦がなく安楽である
  我--仏の世界は、なにものにも縛られず自由自在である
  浄--仏の世界は、一切の汚ケガれを離れている
真言宗智山派では、涅槃会を四徳の最初の二つの「常」「楽」の二字をとって「常楽会」といいます。』
(『生きる力SHINGON』vol.94のp9/発行:総本山智積院内「真言宗智山派宗務庁」)
0681宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2019/03/31(日) 06:18:12.02ID:lQSdb2U6
これは、つまり涅槃とは、“自在の境地”なのだといっているのです。
私からはこの前、原始経典の教えの理解で、無常であるから(にも関わらず、これが永遠であることを願い、
実体のないものを実体視し、そして、自分のものとしようとするところに)苦が生じる。
その苦とは、“思い通りにならないこと”だといいました。
だから無我なのだと。それは、自己の本性であるアートマンではないからですよ。
もしも、アートマンであれば、そういうことにはならない。
何故なら、あらゆるものごとが“自在”だからです。それがアートマンの根本性質なのだから。
だから、「それら(五蘊)はアートマンではない」と教えているのです。それが正しいブッダの無我の教えです。
“真実の自己”を実現したならば、それは当然、“自在の境地”(それが大乗の説く観自在菩薩の境地)ですから。
真実の自己でなければ自在ということは在り得ない。

ところで、
その「大我」について、その本当の正しい意味を早く教えてくださいよ!
あなたはプロ(元僧侶)なんでしょうからね。こちらシロウトは期待して待ってますから。

>>676承狂
>これは、釈尊が「本当の私」を知っててわざと弟子達に教えなかったとなる。
>または釈尊が言ったことを直弟子達が伝えなかったとなる。
>それは釈尊が人を見る目が全く無かったと言うのと同じで、共に釈尊を侮辱した話です。

はぁ? 明確にありありと説いてるでしょ!!
経典にもあのようにしっかりと残されているというのに、
勝手にそれを無きものとして扱うあなたがたこそがブッダを侮辱してることになるのです。
>>581-583で示したその証拠については無視するのですか?
『マハーヴァッガ』T.13、『ダンマパダ』380、『ディーガ・ニカーヤ』16/パーリ大涅槃経3.13、『サンユッタ・ニカーヤ』T, 神々との対話3-5
あなたは、いつも自分にとって都合の悪いところは逃げるし、そして、無かったことにする。
けれど、そういうところを閲覧者の皆さんはすべて見てますよ!
0682宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2019/03/31(日) 06:20:11.83ID:lQSdb2U6
つまり、ブッダが説いたものとは、「真実の自己を求めよ!」、
「(真実の)アートマンであるものを正しくアートマンとして見よ!」と、いっているというのが真義なのですよ。
ただ単に、バラモンたちと同じ教え方をしなかっただけです。
もしも、彼らと同じやり方だったならば、結局、バラモン教(そのまま)でイイんだと誤解されてしまうから。
それだとゴータマの没後には、ブッダの一生涯を掛けた尊い教えがすぐに掻き消えてしまうでしょうからね。
それだけは、何としても避けたかったのです。

まっ、あなたに向けて一生懸命に語っても上の空でしょうけれど、
この私は閲覧者のために書いてますから。

>これだとジャイナ教の教祖はブッダを詐称したって話だね。
>「ヒンドゥを馬鹿にするな」と因縁をつけた人とは思えない御言葉ですな。(笑)

いやいや.別にこれは馬鹿にしているのではなくて、マハーヴィーラ(ジナ)がいくらジャイナ教徒たちによって「ブッダ」
(ジャイナ教は仏教と同時期発祥の兄弟的な宗教であり、「呼称」を含めて共通事項も実に多いことで知られる)として讃えられようとも、
この私は決してそうは見なさないし、正しい仏教理解からもそれが認められていないことは正当な判断ですよ。
ゴータマ王子とマハーヴィーラが直接に交わったという記録はないけれども、
しかし、その弟子たちや信奉者は互いに接触していることは記録からも明らかとなっているので、その違いについてもよく分かっています。
単純明快にいうと、マハーヴィーラは禁欲苦行主義者だということ。
ゴータマ王子はその世界から足を洗った方(それでは悟りには達せられないと知る) なのですから、
当然、仏教視点からはマハーヴィーラがブッダではないことは明白なこととなるのです。
もしも、ただ自らがブッダを自認して、その弟子たちがその人を讃えていれば真実の仏陀だということになるんだったら、
それこそただ言った者勝ちだということになる。
麻原が、「わたしは最終解脱者だ!」と宣言して、それを信じる弟子が集っている。
「わたしはエル・カンターレ(地球の至高神)だ。そして、ブッダの再誕だ!!」といってる東大卒の商社マンに集っている教団もある。
「池田SGI名誉会長こそがお釈迦様の再誕だ」と崇めている人たちだって大勢いる。
0683宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2019/03/31(日) 06:24:50.53ID:lQSdb2U6
ヒンドゥーの話とは一緒にしないようにしよう!
「アートマンを説く有我論のヒンドゥーは間違っている」という話そのものが、
まったくの誤解であることをこの私は仏典から論証しているわけです。
ヒンドゥーの教えは、彼ら(ヒンドゥーのアヴァターラ方から)の“実経験”にもとづくヒンドゥー独自の教え方として在るものですよ。
その中身を解ってない者(仏教徒ら)が、それを非難する何ものもない。

>「業報輪廻は仏教経典全てにー」
>例えば無記にはありませんね。
>般若心経にもありませんね。
>観音経、つまり普門品第二十五にもありませんね。
>「全てに」って意味は判ってますか?

業報輪廻なしでは仏教理論そのものが成立しないの。それが「すべてに」ということです。どう.解る?
死ねばただ終わりで、その後に再誕をしないのならば、この一生涯でブッダにまで成れなかった者はただそこまでで終わりだということ。
なのに、その為にわざわざ禁欲をして、日々を厳しい修行で明け暮れるなどストイック馬鹿によるナンセンスの極みでしょうが!
それだったならば、自分の好き放題に生きた方が得に決まってるじゃないか!!
今生だけでブッダに成らなければならないのならば、
生まれつきの難病ですぐに亡くなられる子供や障害を持って生れて来る人は最初から他の人と同様に学習することが不可能だ。
その不条理はどうしてあるのか? 健常者ですからブッダには成れないのに、最初からそのようなハンデの中で生まれる赤子は何故、現れるのか?
例え、学び途中で人生を終えようとも決して無駄ではないのは、その成果が死後にもちゃんと持ち越されるからだ。
果報は行為に応じてある。修行の達成も同じであり、修行の努力は死んでそれで終わりではない。その続きについては、いずれ再び学習の機会が来る。
仏典ではそう明確に説いてる。「四向四果」「声聞衆」の教えにも明らかですよ。
それが信じられない(人の転生などないと思う)のならば、仏教を信じるのも辞めたらどうだい?
0684宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2019/03/31(日) 06:29:50.21ID:lQSdb2U6
おいおい!
特に書かれていない部分だけを勝手に抜き出してきてどうする?
仏典全体との関係と整合性において理解しないでどうするの?
もしも、「無記」との関係で説明できるというならば、是非ともあなたにそれをお願いする。
否定派の誰にもできなかったその偉業? が、あなたにはできると...。
できれば、それは後での方がイイかな。今は、「無我」をテーマにしてるから。
そして、そのデタラメはこの私が叩き潰すから!!(いや、ちょっと言葉が荒いか..反論させてもらいますからね)

>俺は「継承されてきた仏教」の側なんで、仮に文献学的に釈尊の本当の話が伝承と違っても全く関係ないから。(笑)
>(^。^)信仰ってのは、その程度でどうこうなる話ではありませんので。(笑)

まっ、「信じ続けるのが信仰だ」というならば、確かにそうでしょ!
何教を信じるも自由だし、それを信じ続けることも自由です。
学者の研究がどうだろうとも関係ない...。

でも一応、これは書いておきますね。

『彼らが信仰を捨て去ったように,そなたもまた信仰を捨て去れ。そうすれば死の領域の彼岸に至るであろう。』
(『スッタニパータ』1146)
0685神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/31(日) 10:01:20.09ID:Jwr9MaLT
「良い解説」だなんて一言も言ってないと思うが・・w  >>679


(原始仏教系・スッタニパータなどと同様w)ネット検索で山ほど出てくるブログやページから
禅宗関係者のものを拾い上げれば済むこと。

青松老師のそれも、どこから引っぱってきたかと思えば、
映画やドラマのあらすじや予告編のような意訳じゃねーかw
「私たち(凡夫・衆生)は、このように受け止めて、(世俗の)一日一日を生きていきましょう」
という総括で、全てが解説されたとでも思うんかね・・。
(禅家の場合、一般向けの法話講演と提唱は全く違うしw)

自分は、そんな通説、概説、偏見でヒンドゥを批判するなと言うくせにwww
0686承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
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2019/03/31(日) 11:08:34.93ID:GAKPsq7V
>>680
えー、俺は最低限のことしか知らない元下端ハゲだから、こうゆうのはセブンとかの現役がやるべきことだと思うんだが、まぁ、書けるとこまで書いてみる。
各自、鵜呑みにしないで自分で裏取りしてな?(笑)

前にも書いたように、大乗仏教は、中観の上に成り立ちます。
観音さんの三昧地もやはりそうです。
ところで、宝珠の想像する「仏教」とは、
まず真理としてシンチガクが根底にあって、
業報輪廻➡本当の私が輪廻転生して業を受ける!➡無我は間違いでなくてはならん!➡龍樹は間違い!
てな所ですが、(笑)
その経典の読み方の杜撰さ、お粗末さは>>461>>477に付いたレスを見れば瞭然でしょう。
また、「想定」と「必然」を混同してたり、「三世兩重」と「三世業論」を間違えたり。
というか、三世両重から時代が下って三世の業報という布教用の解りやすい話が出たと思うんだが。(笑)
ところで、俺は「大我」って密教の独自の言葉かと誤解をしてたんだが、(笑)
大乗とかでも使うそうですね。(笑)
「小我と大我」とかでググれば、宝珠の好きな「真我」と同じ意味だとか出てます。(笑)
まぁ、俺と宝珠は所詮この程度の人なんだが。(笑)
で、輪廻転生する個人主体云々という話は、前にセブンとしたような気がするんで、前略。(笑)

(^。^)ウガでもなく、ムガでもなく、ウガでないということもなく、ムガでないということもなく、ウガでムガということもなく、ウガでムガではないということもなく、……。(笑)
0687承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2019/03/31(日) 11:10:58.62ID:GAKPsq7V
では、あんまりなので、一言。
ちょっと「輪廻は皆否定しないよね?」って聞いてみ?

(^。^)お前らが「物質主義」とか呼んでる連中もみんな「当たり前だ!ふざけんな!」って肯定するから。(笑)
0688ポッタン師
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2019/03/31(日) 11:19:37.22ID:MAwpiH6N
687.輪廻は否定する、が正解である。
大爆笑である。
0689宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/31(日) 11:43:36.73ID:lQSdb2U6
>>687承狂
ハァ〜??? 
あなたは今まで私が立ててきたスレの一体、何処の何を読んできたの?
いやいや.伝統信奉者の七セブンなどは唯物論者であり、そして、転生の否定者でしょ!
しかし当然、伝統仏教においてはもちろん肯定される。唯物論についても否定されます。
ただ七のような特定個人が勝手に否定してるだけですから(禅者に多い傾向)。

絶句...
0690宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/31(日) 11:46:17.42ID:lQSdb2U6
>>687
追記:
まさか、また輪廻は認めてるが転生はない、とか言い出すのではないでしょうね。
だとしたら、まったく懲りないな...。進歩、学習能力なし。
0691宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/31(日) 11:47:31.23ID:lQSdb2U6
では、ここで一つ。
あなた方の嫌いな中村氏の著作からの一部を紹介したいと思います。

 『このように理想的な倫理的な行為を実践する主体としてのアートマンを認め、本来の自己(アートマン)を追求していくことによって、
現実の人生の苦を乗り越えていこうと、最初期の仏教では独自のアートマン論を展開していました。しかし、決してアートマンを形而上
学的実体と見なすこともせず、また「アートマンが存在しない」と否定もせず、アートマンの形而上学的な性質については完全に沈黙を
守っていたのでした。--中略--
 ですから、精神的な物質的な五つの構成要素、あるいはその機能は、すべてアートマンならざるもの(非我)なのです。それを敷衍フエンし
ていえば、人々が対象として把握しようとするいかなる形而上学的なものも、あるいは機能もアートマンではない(非我)。またアートマン
に属さないと説きます。このような教えは、じつは形而上学的な、具体的に把握されうるすべてのものに対する、人々の執着や煩悩を取り
除くための教えだったのです。解脱への実践目標を達成するための教えでした。

    物質的なかたち(または感受作用・表象作用・形成作用・識別作用)は無常である。無常であるものは苦しみである。苦しみである
   ものは非我である。非我であるものはわがものではない。これはわれではない。これはわがアートマンではない。正しい知慧でもっ
   てこの〔道理〕を如実に観ずべし。(『サンユッタ・ニカーヤ』)』

 この段階でも客観的実体としてのアートマンを認めるのでもなく、「アートマンが存在しない(無我)」というのでもなく、ただアートマン
の存在については沈黙していました。』
 (中村 元著『ブッダ伝--生涯と思想--』p204-205角川文庫)

と説明し、更には、「アートマンはない」という意味での「無我説」はパーリ語経典にはなく、
それが初めて登場するようになったのはサンスクリット語経典からなのだという。
そして、後代に説かれる明確な無我説を展開したのはあなたがたの嫌う『説一切有部』なのだといっています。
どうやら、経典の比較研究によってそこまで分かっているということです。
0692宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/31(日) 11:48:51.92ID:lQSdb2U6
ここで昨年の夏に取り上げた石飛道子氏との対話についての感想を述べさせてもらうと、
女史からの返答内容というのは、本当に気持ち悪いほどこのスレの七セブンとまったく同じものでしたね。
要するに、それだけ七の見解というのは個人的なデタラメではなくて、正しく伝統仏教に沿ったものなのだろうということが分かる。
それで私から、ではあなたの著作にあったあの見解は今では捨てたのか? と、問い質してみると、
いやそんなことはない。今でもその通りだ、と答えてきたのでした。
このトンチンカンな返答は一体、何を意味するのか? というと、つまり、これはここの承狂と同じなんだなということが分かるのです。
要するに、学問上の事実と私の信仰とは違うということです。
研究によって確認される事実を、学者としてはそれを認めるけれども、
しかし、私個人は長老たちによって伝承されてきた教えを信じるというものでしょう。
実は最近の女史は、あのテーラワーダ長老のスマさんと親しく交流を深めており、
長老が女史の住まわれる北海道へときたときには行動を共にしているのです。
つまり、通訳をしたり、互いに会場で講演をされたりしてるのです。。
そこで女史はスマさんから、“石飛道子氏は、日本において仏教を最も正しく理解している天才的な学者”
として称賛されているのですね。
0693宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/31(日) 11:50:07.18ID:lQSdb2U6
因みに、この私がこれはもう辞めたのか? と、
質問した女史ご当人による著作の一文(及びサイトでの女史の説明記述)とは、これのことです。

 【つまり、自己はあるまたは自己はないと書くことができるか、ということが問題となる。もしこのように述べられるのであれば、「自己」は、
おそらく「法」と呼びうる存在であり、そして、当然「生じ滅する存在」とブッダが承認したことになるのである。
 しかし、このようなことは阿含経典の中には見当たらない。これにかんしては、中村元博士の『原始仏教の思想』(上巻一六五頁)にも、初期仏
教では「アートマン(アッタン)は存在しない」とは説かれていない、と明言されている。
 したがって、ブッダにとって「自己」は生じ滅する法ということはありえない。もし、ブッダが「自己はない」と語ったとすれば、当然生じ滅
する法として「自己はある」も語っていなければならないからである。ブッダの公式に載せられる語でなければならないからである。--中略--
 それだから、ブッダは「自己はない」とは語らなかった、そして、もちろん「自己はある」とも語らなかった。いや、語りえなかったと述べた
方がいっそう正しい。(p161-162) --中略--
 実際には、阿含経典では「無我」は「自己でない」の意で用いられていることがわかるだろう。ブッダが「自己はない」は説きえないことがはっ
きりしている今となっては、これは当然のことだが。】(p166)
(石飛道子著『ブッダ論理学五つの難問』講談社2005年刊)
0694宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/31(日) 11:50:47.09ID:lQSdb2U6
 『anattan(無我、我ならざるもの)の語は、ブッダも使います。ブッダの教えの中で重要な用語です。これは、「主語+述語」の文の、述語に
置かれます。「苦であるものは、我ならざるものである(=我ではない)」ということで、「無我」は「我がない」という意味ではありません。「我
ではない」という意味です。
 ブッダの教説の中では、attanが主語におかれて「我がない」とか「我がある」とかいう文は作ることはできないのです。『ブッダ論理学』の
【難問5】にあります。彼の教説は、生じ滅するものだけを扱うからです。しかし、生じ滅する「色」が、我ならざるものであることは、述べる
ことができます。述語には、規定はありません。だから、「無我(我ならざるもの)」という言葉も出てきます。ただ、いつの頃からか「無我
(anattan)」に「我がない」という意味が混入してきますね。(部派時代頃かな)
これは、経典を作りかえたとかそういうことではなくて、解釈として、このような解釈が入ってくるということです。』
(管理人エム著/マニカナ掲示板過去ログ2739.)
0695ポッタン師
垢版 |
2019/03/31(日) 12:11:47.24ID:MAwpiH6N
694.我=アートマン、はない。
大我=アートマン、はない。
大爆笑である。
0696ポッタン師
垢版 |
2019/03/31(日) 12:27:20.73ID:MAwpiH6N
真我=アートマン、はない。
大爆笑である。
0697宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/31(日) 12:56:37.60ID:lQSdb2U6
おい! ポッタン師? とやらさ。
スレは1000で終了してしまうんですよ。そしたら、また新しく建てにゃ〜ならなくなる。
どうせ、人のいうことなんか聞かないだろうけど、それらは...1度の投稿に纏められるでしょ!
携帯からの投稿なのか? は、知らないけれど(いや、それにしてもだ...)
だからもう、あなたは二度と出て来なくて宜しいから。
0698ポッタン師
垢版 |
2019/03/31(日) 13:02:49.34ID:MAwpiH6N
697.バカの宣伝隊長の言い分、か。
大爆笑である。
0699神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/31(日) 13:42:26.89ID:aDeyBZxL
>>677
常楽我浄はインドで成立した大乗涅槃経(大乗大般涅槃経)で説かれているので中国日本発祥ではありません。
大乗涅槃経では、如来常住、一切衆生悉有仏性、なども説かれています。

なお、この大乗涅槃経は読んだり聞いたりすると功徳があるありがたいお経であると、「大般涅槃経 名字功徳品」にて説かれています。

大般涅槃経 名字功徳品 第三
https://blogs.yahoo.co.jp/petero_rom/41067873.html

んな馬鹿な!
とか思って大般涅槃経を誹謗すると一闡提という成仏できない人になるので気をつけましょう。
0700神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/31(日) 14:01:54.18ID:aDeyBZxL
無記は毒矢の喩えで有名な箭喩経ですかね、あとヴァッチャ火経やアーナンダ経でも形而上のことには無記ですが。

それらの経典や般若心経や観音教普門品偈も輪廻前提ですよ。
そもそも、仏教における苦が生病老死であること、お釈迦様は菩提樹下で生存の素因を滅却して解脱した時に「これが最後の生である」と言ったと自称していふこと、
解脱智見において「生は尽きた〜もはや後有はない」としていることから、苦からの脱却、苦を度する、解脱というものは二度と再生しないことであります。
つまり、経典に苦と書いてあれば輪廻について書いてあることになります。

細かく見ていくと

マールンクヤプッタよ、『永遠であるのは世界である』という見解があろうと、あるいは、『永遠でないのは世界である』という見解があろうと、あいかわらず生があり老いがあり死があり、愁い、悲しみ、苦しみ、歎き、悩みがある。
わたしは、(自らにより)見られた法において、それらは破壊されたと教えるだろう。
(箭喩経)
ここに輪廻という言葉は直接には出てきませんが、
「あいかわらず生があり老いがあり死があり、愁い、悲しみ、苦しみ、歎き、悩みがある。
わたしは、(自らにより)見られた法において、それらは破壊されたと教えるだろう。」
とは涅槃に入り二度再生しない(=後有はない)、輪廻からの解脱のことを説いているのを読み取るべきですね。

種種諸惡趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅
(観音教普門品偈)
ここからも輪廻を読み取らないと。

照見五蘊皆空 度一切苦厄
(般若心経)
これも輪廻前提であることがわかります。一切苦と書いてあれば生も含まれるそれを度するということは輪廻からの解脱を意味します。
0701ポッタン師
垢版 |
2019/03/31(日) 14:06:36.56ID:MAwpiH6N
700.輪廻がない。
輪廻からの解脱もない。
バカには理解できない。大爆笑である。
0702神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/31(日) 14:33:58.78ID:Jwr9MaLT
>>699
だから、それを言ったら、古代インド仏教以前からある話。(それこそアートマンとして。)
十句観音経が、インド由来の(≒バラモン教由来の)お経だとでも言いますか?
インド的解釈(→大乗涅槃経的読み)でいいなら、中村さん一人で十分だよ。
また、そこで問われるのは
「大乗涅槃経は、(先祖返りをして)永遠なる真の自己を説き始めた」
という仮説の検証でしょう。

けれども、今問われているのはそうじゃない。
十句観音経のその四文字が、近現代禅宗の中でどう読まれているか、
の話じゃなかったか?
勿論、それが、「大乗涅槃経の解釈がベースである」ということであってもいいけれども、
それなら、大乗涅槃経と(近代仏教における)十句観音経の流行との関係性が示されねばならない。
その上でようやく、
「近現代禅宗は、(真のバラモン教としての)真我を、”アートマン”を説こうとしている」と見做すかどうか、
という次の話題へ繋がってくわけ。
0703神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/31(日) 14:45:38.88ID:Jwr9MaLT
或いはまた、高弟東嶺円慈の註釈でも引いていれば可愛げのあるものを・・。 >>679

常。無常計常、常計無常。
楽。苦計楽、真楽計苦。
我。無我計我、真我計無我。
浄。不浄計浄、浄計不浄。
真浄縁因、即一心帰命諸仏智徳、冥加了因即性徳自現義。正因同前句。
(東嶺円慈釈/白隠全集八巻拾遺)

常。人これ、無常を常なりと解し、常なる法を無常と見、
楽。苦なる世間を楽となし、真の安楽(法)を苦と想う。
我。無我なる我を我と抱き、真我を無我なりと錯誤する。
浄。不浄なる六身を浄と為し、浄なる行を不浄と為す。
真浄の縁因は、諸仏の智徳に一心に帰命することにあり、さすれば、仏の性徳自ら現ずること必定なり。
正因即ち、根本因は前句に同じ。
(→自己の本仏と面前の妙法、既に不二合一なることを明かす)。
(春秋社「延命十句観音経霊験記」/伊豆山格堂)
0704宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/31(日) 17:12:05.31ID:lQSdb2U6
>>699
情報ありがとうございました。

>>702
イヤハヤ.七セブン!
「中国発祥だ」だなんて嘘をいってたら成仏できなくなるとさ!
(おっと危ねぇ〜!! オイラも巻き添えを喰らうところだったわw)

まっ、元々最初から転生なんて信じてはおらず、
今生で死んだら、それでもう二度と母胎に宿ることはない、というのが七の見解なのだから、
それはつまり、今生でブッダにまで成れなかったら、それですべてがお終いということなんだな!!
だから、ヨカッタじゃない! その思ってた通りなんだからさ。

それとも、
七は本気で今生だけでブッダに成るつもりで、日々精進していたということなのかな?
もしも、それだったならば本当に頭が下がる想いだ。
金夜TVでやったチベットのリンポチェなど問題ないくらい素晴らしいことです。
是非、供養したいくらいだ!

とはいえ、
本題としては、「常楽我浄」の正しい意味は何か? が、
解ればそれでいいことだけれどね...。
0705神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/31(日) 17:39:20.97ID:Jwr9MaLT
>>704
そうじゃねーよw

近現代の十句観音経解釈が、本当に大乗涅槃経に則ってるか?が重要なの。
「道元の本覚思想」問題も、同じ構図なのw
0708神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/31(日) 17:46:47.54ID:Jwr9MaLT
十句観音経を見る時に、大乗涅槃経に常楽我浄があるからといって、
「わーい、仏説だー!」とか、「ちゃんとインド経典に根拠があってよかったぁ・・嘆」
と安心するほど素直じゃないんでねw
0709承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2019/03/31(日) 17:48:07.20ID:GAKPsq7V
>>690
宝珠は、>>687から、仏教のいう「輪廻」と、宝珠のいう「輪廻転生」は別のことだとは読み取れないので、こんなレスになる。(笑)
>>700はその通り、輪廻を読み取る事も出来るけど、
「個人主体が輪廻する」という話は読み取れないんだよね。(笑)
縁起してるから、輪廻してるし、本質的なものはないし、無常だし、無我と読み取れる訳だから。(笑)
以て「空」の一文字に約された訳だが、
宝珠解釈だと、「本当の私」についてだけは「不生不滅不垢不浄不増不減」ではないし、「意識界も無い」事もなく、「無明が尽きることも無く」って事も無く、「苦集滅道も無く」も間違いで、「無所得を以ての故に」も間違いな訳だ。(笑)
龍樹菩薩以来の般若経典群も大否定しといて、論拠をその般若経典群に求めるというね。(笑)

(^。^)ちょっと面白かったよ。(笑)

あ、こっから先は中観派の論になるから反論とか説明は一切しません。(笑)
なので、逃げたとか知らないんだとか悦に入ってて下さい。(笑)
では、サラバじゃ。(笑)
0710神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/31(日) 17:49:36.84ID:Jwr9MaLT
単語、術語が共通して存在する事と、
その語によって指示される概念、考え方が同義である・共通するものかどうかは別問題。

まさに、無我や無為に関して、宝珠が抱いている相違が、そこにもあり得るよ、と。
0711神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/31(日) 17:53:25.08ID:Jwr9MaLT
>>707は、ご希望なら、
(強調記号入れながら)6レスくらいには削ってレス入れることも吝かでないよ。 >>宝珠

ノシ
0712宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/31(日) 18:13:46.45ID:lQSdb2U6
>>711
はい。
解説できるのならば、どうぞ宜しくです。
ただし、シロウトにもわかる優しい説明でね。

>>709承狂
>宝珠は、>>687から、仏教のいう「輪廻」と、宝珠のいう「輪廻転生」は別のことだとは読み取れないので、こんなレスになる。(笑)

いやいや意味不明ですよ。
私のいう転生とは、仏典のこのことでいいんだけど。
(『スッタニパータ』278)(『ディーガ・ニカーヤ』『沙門果経』出家の功徳2:93〜94)
 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1541436305/21

是非とも、
これがどう一個人による輪廻転生のことではないというのか? の、あなたの説明を願う!!
今回は絶対に逃げないように。あなた元プロ(密教僧)なんだから!!

>では、サラバじゃ。(笑)

おやおや?
また、逃げるのか〜い!!!!!!!!
今回もまた逃げるのならば、もう二度とここに来なくてもいいからね。
0713ポッタン師
垢版 |
2019/03/31(日) 18:27:18.67ID:bN7tIANl
712、輪廻転生は科学の問題である。
それは仏教の問題ではない。
バカには理解できない。大爆笑である。
0714神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/31(日) 19:15:49.16ID:aDeyBZxL
>>703
>我。無我なる我を我と抱き、真我を無我なりと錯誤する。

・無我なる我を我と抱き→凡夫の顛倒(有為の顛倒)
・真我を無我なりと錯誤する→二乗の顛倒(無為の顛倒)

残り3つも同じでこの註釈はインドで成立した大乗大般涅槃経に沿っていると思います。
0715神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/31(日) 20:10:45.28ID:Jwr9MaLT
>>714
そう。
格堂さんが解説するように、
「本来は」、≪大乗涅槃経の常楽我浄≫に立脚した「常楽我浄」である筈のもの。

問題は、
『近現代(特に現代)の仏教者・禅家が、ちゃんとその上に乗っかっているかどうか』
が一つ。(六祖以降、「己事究明」が「アートマン究明」になってないかどうか?)
もう一つは、
『そもそも、大乗涅槃経で掲げられた「常楽我浄」が、釈尊その人に反してはいないか』
ということ。(田上さんの修士論文もまた同じ。)
永遠常住なる存在を希求していないか(→自身の永遠を望んでいないか)? と・・・。
0716宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/31(日) 20:13:00.90ID:lQSdb2U6
>>709承狂
>宝珠解釈だと、「本当の私」についてだけは「不生不滅不垢不浄不増不減」ではないし、「意識界も無い」事もなく、
>「無明が尽きることも無く」って事も無く、「苦集滅道も無く」も間違いで、「無所得を以ての故に」も間違いな訳だ。(笑)
>龍樹菩薩以来の般若経典群も大否定しといて、論拠をその般若経典群に求めるというね。(笑)
> (^。^)ちょっと面白かったよ。(笑)

この私は、そんな発言など何一つしてないから。
参加したての新しい人が、へぇ〜そうなんだと勘違いするようなデタラメを書くんじゃないよ。
こりゃ〜もう、ほとんど犯罪レベルだぞぉ(怒)
破戒僧もいいところだ。あんたは訴えて遣るぅぅぅ〜

>>713
もしも、本気でヤル気あるんだったら相手してやってもいいぞ!!
その変わり、こっちの問いには必ず答えてもらうからな。
そんな幼児の三行レスなんかじゃ〜
とても返答の説明は無理だぞ。

まずはPC買え!!
0717神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/31(日) 20:15:40.53ID:Jwr9MaLT
そう。

宝珠というか、神智学の方向性は、
『所詮、【自己の永遠】【永遠なる自己】の希求、仙道の如き【不老不死】の希求になってないか』
ということ。
昔の遣り取りで言えば、不公平の帳尻合わせをのzんでるだけじゃねーのか?と。
一位もビリもない、皆で手を繋いで一緒にゴール、
みたいな似非平等じゃねーのか? と。

ああ、なんか当時の遣り取り思い出したらイラついてきたwww   凡夫だなぁ・・・(しみじみ) orz
0718解説でなく、局所引用なw
垢版 |
2019/03/31(日) 20:48:15.31ID:Jwr9MaLT
常楽我浄は涅槃(さとり)の四徳と――。
――煩悩・迷いの火を吹き消した状態を言い、「滅」と訳され――。
「四徳」の「徳」は優れた性質を言う。
涅槃には有余(有余依)涅槃・無余――
以上の小乗の――、大乗は無住処涅槃・不住涅槃を説く。
生死・迷界に住せざるのみならず、
衆生を敘うため、涅槃・覚界にも住しとどまらざる
真の涅槃という意である。
==
 「常・楽・我・浄」は
【凡夫(仏の教えを知らぬ凡庸な人)の「四顛倒」(四倒)】と
【涅槃の「四徳」】の二種に区別される。「顛倒」は道理に背く見解を言う。
「凡夫の四顛倒」とは、
【無常を常、苦を楽、無我を我、不浄を浄と思う】ことである。
凡夫・凡人といえども無常の世の姿を見ていないわけではないが、――、
【いつまでも一切が存続するように考えている「常見」に】とらわれている。
この「常見」「常顯倒」に対し、仏教では
「諸行(変じ滅ぶ一切の存在・現象)無常」を説いた。
「常」とは「永遠」の意である。
『涅槃経』聖行品第十九の「諸行無常、是生滅法。
生滅滅己、寂滅為楽」の諸行無常偈(雪山偈)は有名で、
わが「いろは歌」にも――。
==
0719神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/31(日) 20:49:21.44ID:Jwr9MaLT
四顛倒の第三は「我顛倒」である。
「我」は「常一主宰」の義とされている。
【おのれの内に一の主宰者があって常住なりと認めること、
実体的・個体的の自我を認めること】は誤りである。
それ故仏教では「諸法無我」を説く。
人を含め、すべての存在には実体が無い。
自己は五蘊和合の存在に過ぎず、空であり、
常一主宰者を自己に認めることはできない。
しかるに凡夫は
【「我」に執らわれ「我愛」に陥り、利己に奔る】。
「諸行無常」が現象を時間的に観ているのに対し、
「諸法無我」は現象を空間的に観ている。
何れも一切の実体は認められず、畢竟空なる理を示している。
==
 さて素朴な「常想」を打破するためには
「諸行無常」観を説き、「心念処」を説くのは適切であったが、
しかし【人々はその消極性に甘んずることができず】、
【積極的な「常」「永遠」を求めざるを得ない】。
そこで大乗の涅槃はついに「無常」をさらに否定・超克して
【高次元の「常」の世界に出た】。涅槃の四徳の一としての「常徳」である。
大乗は無常に対立し無常の外に常を求めることをせず、
【無常のただ中に常を】見るのである。
それは思慮分別を絶した深い体験的な世界である。
==
0720神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/31(日) 20:50:59.09ID:Jwr9MaLT
 涅槃の四徳の第三は
凡夫の四倒の一たる【「我見」を転じて「我徳」とする】。
凡夫が「我」としているのはいわば小我である。
小我を超克して無我に入り、【無我に徹すれば「真我」が現われる】。
それは「大我」であり、【自在の妙用をなす「自在我」】でもある。
小我を脱すればすべてが我れならざるは無きに至る。
真の主体性の実現と現代風に言うこともできよう。
ただし「無我」と言っても単なる無意識・無心の段階に留まってはならない。
そこからさらに一歩を進めなければいけない。
「無心猶隔万重関」である。ここが極めて難関なのである。
==
 以上、『十句経』本文の「常楽我浄」について、
『涅槃経』に基づき、凡夫の「四顛倒」が涅槃の「四徳」に転ずること、
「四徳」の内容について概観した。
 そもそも『涅槃経』には小乗の――大乗の――。
「涅槃の四徳」は大乗のそれに述べられているものである。
小乗の――は釈尊の死を中心としてその前後のできごとを記したもので――。
身心滅した「無余涅槃」に入るということである。
大乗『涅槃経』は『法華経』と並び、
【仏を仏たらしめ、覚者を覚者たらしめる根源は法であり】、
【法は永遠に変らない】ものであるから
【仏には生死が無い】とする【「法身常住」】を説く。
――。そしてこの永遠性の法は
【同時に普遍的】なものであるから
【「仏凡一体」「一切衆生悉有仏性」】である。  〔→更には煩悩則菩提、本覚・始覚へ〕
悉有仏性ではあるが、凡央・衆生が有する
【仏性は】【煩悩・惑に覆蔵されていて】【露われていない】。
前述の如くこれを「如来蔵」と言う。
==
0721神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/31(日) 20:51:58.66ID:Jwr9MaLT
天台では空仮中の三諦を――。
一切は無自性の故に「空」であるとする空諦(真諦・無諦)、
一切は縁に依って仮に存在すると肯定的に見るのが仮諦(俗諦・有諦)、
空・仮と一面的に考えず、この二つを越えた存在の第一義を示すのが中諦(中道第一義)である。
そしてこの三諦が究極において別々に隔歴することなく
「相即(融合)」すると見るのを「三諦円融観」と言う。
==
原始仏教においては「中道」は主として
「不苦不楽の中道(苦行と快楽の両極端を排斥)」
を意味していたが、大乗においては、
形而上的体験的に、対立を絶した不二・空の意に深められた――。
「涅槃の四徳」としての「常楽我浄」は、
凡夫の「常見」としての常楽我浄と、
それを否定する「断見」としての小乗の無常・苦・無我・不浄の、
二つの四顛倒・四倒見を超克した境地である。
常・無常を超えた絶対的の常、
苦・楽を超えた絶対的の楽.
我・無我を超えた絶対的の我.
浄・不浄を超えた絶対的の浄 が四徳の常楽我浄で.
それは「空」の世界の四面を表わしている.
==
0722神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/31(日) 20:54:30.55ID:Jwr9MaLT
>しかし【人々はその消極性に甘んずることができず】、
>【積極的な「常」「永遠」を求めざるを得ない】。
>そこで大乗の涅槃はついに「無常」をさらに否定・超克して
>【高次元の「常」の世界に・・・・・・
0723パーピマン
垢版 |
2019/03/31(日) 21:35:45.98ID:OqAzpJGP
>しかし【人々はその消極性に甘んずることができず】、
> 【積極的な「常」「永遠」を求めざるを得ない】。

そしてここから、二種のバカ・・・・・先尼外道と自然外道が生まれるとww
0725宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/31(日) 23:42:09.63ID:lQSdb2U6
>>717
一体、何が神智学なんだい!
だから、そうやって自分の無理解を
いつまでもいつまでも神智学のせいにして説明責任を逃げるんじゃないっていうの。

いやいや.望むも何も...。
今、ここで問題にしてるのは“ブッダの教え”でしょうよ!!
で、涅槃とは常住にして永遠の境地だと認めるのかな?
そして、ブッダが教えたのは、真実の自己の探究とその実現であるということは理解したのかな?
つまり、涅槃の境地とは真実の自己(真我)の実現のことなのだと認めますか?
それが涅槃を、自分が涅槃に達したものとして自覚する所以だということを。
そして、無くなる自己とは、煩悩に塗れた自我意識なのであり、
低級な性質の自己のことをいってるに過ぎないのだということを。

これらすべては経典内容と何も矛盾しない。
矛盾してるのは自分(あなた)の頭の中だということ!!
もう、さっさと素直に白旗を上げなさいな!
意地っ張りは、ただ見っともないだけだ。

以上.
0726神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/01(月) 01:49:08.27ID:Oe74HNWc
>>694
「苦であるものは、我ならざるものである」って・・・  一体この文章、どっから持ってきたんだよ?
この文章だと、「苦であるもの」は、「我」ではないけど存在する、っていう
含みを持っちゃうぞ。

同じように、「色はアートマン(真実の自己)ならざるもの」 っていう文章にしちゃうと、
「色」が「偽の自己」として存在することになっちゃう。
もう、おまえの主張はめっちゃくっちゃだよ。

そもそもアートマン(真実の自己)とは「一」として全ての物を内に含んでいるから、
>>470の文章を、「○○はアートマン(真実の自己)のものではない」、という風に読み取るのはおかしい。
ありとあらゆるものはアートマンに包含されていて、アートマンのものではないものなんて無い。

しかし、アートマンを今の自分と別異のように扱って、目指すべき対象としたり、
自己が変化(進化)して達成せられるべきものとするのは、
非常に誤ってる。

釈迦の教えが錯覚を取り除くことに始終しているのは、基本的に、我々の自己の内奥が
唯一性のアートマンであることを知っているからだよ。
自分とは別に目標にするものではなく、また、自分を変化(レベルアップ)させて得られるもんじゃない。
そういった自分とは別のものじゃなく、「本来」なんだよ。
だから、全体を一としてみる唯一性ではなく、「個」としてみる錯覚を無くせばいいと言ってるわけ。
その錯覚を無くせば、「本来」なわけだ。

宝珠の考え方は、本来の唯一性のアートマンからも外れてるし、仏教の教えからも逸脱してる。
もうこれは宗教でもスピリチュアルでも何でもないよ。
狂ってる。
0727神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/01(月) 01:57:00.08ID:yjLFs5x2
>>725
>つまり、涅槃の境地とは真実の自己(真我)の実現のことなのだと認めますか?

涅槃の境地とは真実の自己の実現である
とお釈迦様は説法しましたか?

如来の滅後は完全なる涅槃に入るので輪廻から解脱するようなことは説いていたと思いますが
・「如来は死後存在する」のではない
・「如来は死後存在しない」のではない
・「如来は死後存在し、かつ、存在しない」ということはない
・「如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない」ということはない
と箭喩経でマールンキヤープッタの問いに対して答えていて、死後に完全なる涅槃に入れば真実の自己が実現するというようなことは言いませんでした。

スッタニパータ
1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」

1076 師は答えた、
「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」

ヴァッチャ火経
「五蘊として如来を認知する者は、如来にはその五蘊は捨てられており、根を断たれたターラ樹の幹のように消滅し、未来に再び生じないものであることを認知するであろう。
ヴァッチャよ、如来は意識という呼び名から解き放たれており、大海のように深く、無量であり、〔底が知られない。
それゆえ再生するというのは適切でなく、再生しないというのは適切でなく、再生しつつ、しかも再生しないというのは適切でなく〕再生するのでもなく、再生しないのでもないというのは適切ではない」

どこにも死後般涅槃すれば真実の自己が実現するとは説かれていません。
0728神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/01(月) 01:57:17.25ID:yjLFs5x2
生きてる間の涅槃については無記です。
ウダーナの涅槃に関する経でも「そこには識別される何かがあるのではなく、またそこでは私は何も説かない」と引き算で説明していることはしていますが、結局は無記です。

もちろん経典を色々と足し合わせて「ブッダはこう悟ったのだ!」と個人が思うのは自由ですが、それが真相だとか人に押し付けるものではないと思います。

もちろん、お釈迦様本人の言葉で「涅槃に入れば真実の自己が実現する」と説いている経典などがあって、私がそれを知らないだけという可能性も多々ありますが。
0729神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/01(月) 02:15:01.33ID:yjLFs5x2
>>726
バラモン教の仙人であったヤージュナヴァルキヤにおいては認識されるものはアートマンではありません。
つまり、お釈迦様が色とか識とか眼識とか耳識とか名付けた認識の対象となるものはアートマンとはされません。

 ヤージュニャヴァルキヤ
  「非らず。非らず」 『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』 
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/yajnav.htm

ただし、お釈迦様のいうアートマンとはヤージュナヴァルキヤのいうアートマンともまた違うようで、不壊であると同時に思う通りになるもの(苦ではないもの)をお釈迦様はアートマンとしていたようです。
アートマンの有無について聞かれた時は答えるのを避けていましたのはご承知の通りですね。
0730神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/01(月) 06:18:25.80ID:Oe74HNWc
>>729
全然間違った解釈をしている。
アートマンとは認識主体そのものであって、そしてアートマンとは「唯一」のもであって、
「一切」がアートマンであって、一切が認識主体であるということ。
なので、本来、「認識対象」というものは存在しない。

もし、「認識対象」というものが存在したら、そこには区別(差別)が起こることになり、
アートマンの唯一性を破壊することになる。

もし、色はアートマンではない、識別作用はアートマンではない、と、区別すれば、それ自体が認識対象を見ていることになり、
「認識主体」と「認識対象」に分裂していることになる。

『実にその人にとって、一切が自分自身のアートマンになった場合に、
かれは何によって何ものを嗅ぐことが出来ようか。』
(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド)

『しかし、他を見、他を聞き、他を認識する場合には、それは小である。
・・・・しかし小は死すべきものである。』
(チャーンドギヤ・ウパニシャッド)

『この世において多様であるかのように見るものは、死から死に至る。』
(ブリハット・アーラニヤカ・ウパニシャッド)

「色とか識とか眼識とか耳識とか」を認識対象として、これらはアートマンではない、と、
区別するのではなくて、アートマンと平等と見れなければ、唯一性は保てない。

アートマン以外のもの(認識対象)は存在しない。

『しかしアートマンにおいて一切万有を見、一切万有においてアートマンを見るものは、
それから畏縮することはない。』
(イーシャー・ウパニシャッド)

『一切万有の中にかくされているこのアートマン。』
(カタ・ウパニシャッド)

『最高の自在主は一切万有の中に平等に住す。』
(バガヴァッド・ギーター)
0731神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/01(月) 06:29:25.90ID:Oe74HNWc
>>>>729
>不壊であると同時に思う通りになるもの(苦ではないもの)を
>お釈迦様はアートマンとしていたようです。

だからそれは >>470 を、勝手に、
自分なりに解釈したんだろ?
な〜にが 「お釈迦様はアートマンとしていたようです」、だ。
勝手に決めるなよ。

>アートマンの有無について聞かれた時は答えるのを避けていましたのはご承知の通りですね。

何が「ご承知の通りですね。」だ。
気持ち悪いなぁ〜
言ってることが矛盾してるだろうが。
お釈迦様が言及を避けるってことは、示唆することも避けるってことだ。
バカじゃねーか?
ご承知の通りだったら、「無我」は「真実の自己ならざるもの」じゃなくて、
「(単なる)自己ならざるもの」じゃねーか。
アートマンの有無について回答を避けてる人が、「それはアートマンじゃない」「これもアートマンじゃない」っていうか?
よく考えろ。
0732神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/01(月) 07:26:04.23ID:yjLFs5x2
>>729-730
改めて
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/yajnav.htm

ここに書いてあるヤージュナヴァルキヤのアートマン論を理解できるまで何度も読んでください。

そして

この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは
捉えることができない。捉えられないから。
壊れることがない。壊されないから。
こだわりがない。こだわらないから。
つながれず、動揺せず、損なわれない。
ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。

の意味が分かるようになってくださいね。

認識の主体を認識したら認識した瞬間にそれは認識の客体へと変わり認識の主体ではなくなる。
ですから非らず、非らず、でしかアートマンは表現できない。
色は認識の客体だからアートマンではないのですよ。
受想行識も客体だからアートマンではないのですよ。

あとお釈迦様がアートマンの有無について聞かれた時に答えるのを避けていたのは事実でしょう。
もしあなたが事実ではないというのなら
http://zhaozhou-zenji.hatenablog.com/entry/2016/12/03/095850
http://manikana.la.coocan.jp/canon/kaccayanagotta.html
を読んで事実ではないということを確認してください。

合掌
0733神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/01(月) 13:30:03.19ID:Oe74HNWc
>>732
こいつアホだぁ〜
ときどきコイツ出てくるよね
あたかも自分が知ってるかのように、教師ぶってるやつ。

一番気持ち悪いのは、こういう言い方しちゃうところ。

>の意味が分かるようになってくださいね。

こいつは自分の論が一番正しいと思ってて、しかも、それを論証しなくても
世間に通用すると思ってる。
非常に幼稚な、自己中心的な態度。

「○○はこうなんだよ。」 までだったらまだいいよ。
こいつが気持ち悪いのは、
「○○はこうなんだよ、だから考えを改め治してくださいね。」 というところ。
ここまでくると仏教の議論以前に、精神的な回路に問題があるというしかない。
こういう人は議論スレや、公共の場所でやるんじゃなくて、自分の妄想を自由に語れるブログとか、
ツイッターでやるべきだよ。
あるいは独自で自分のためのスレを立てるか。
ここで割って入られたら迷惑以外の何ものでもない。
0734神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/01(月) 13:40:56.20ID:yjLFs5x2
>>733

人のことを言う前にまずあなたが
>>731
で使っている

>気持ち悪いなぁ〜
>バカじゃねーか?
>よく考えろ。

という言葉遣いから見直した方がいいと思いますよ。
>>733での言葉遣いもまた酷いですけどね。
0735神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/01(月) 13:51:12.68ID:yjLFs5x2
読み直したら私が書いた

>>732
>あとお釈迦様がアートマンの有無について聞かれた時に答えるのを避けていたのは事実でしょう。
>もしあなたが事実ではないというのなら
http://zhaozhou-zenji.hatenablog.com/entry/2016/12/03/095850
http://manikana.la.coocan.jp/canon/kaccayanagotta.html
>を読んで事実ではないということを確認してください。

この最後の一行が自分でも分かりにくいかな、と。

を読んで事実ではないというあなたの言い分が正しいのかどうかを確認してください。

に改めさせて頂きます。
0736神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/01(月) 13:59:27.37ID:Oe74HNWc
>>732
それで、コイツが愚かななのは、自分のレスで自分の間違いを
暴露しちゃってるところ。
理解しないでしゃべってるから、そういうことになる。

>この世の万物がそれによって認識するその当の本体を、人は何によって認識できるのか。

って、書いてあるだろ?
真にアートマンを知ってる人は、認識対象が存在しないことを知っている。
認識対象が存在しないということはどういうことかというと、すべてがアートマンに帰してるときだよ。
すべてが認識主体であれば、どうやってその認識主体を認識できるのか、一体誰が認識し、アートマンを認識対象に出来るだろうかと
そのウパニシャッドは言っている。

色がアートマンのものではない、となれば、そこに分離が起こる。 つまり、認識対象が生まれる。
つまり有無の二元性が生まれる。

『二元が存在するかのように思われる場合は、AはBを見る。』
(ブリハッド・アーラニカヤ・ウパニシャッド)

二元性が存在しないというのは、アートマンに全ての物が帰一し、唯一になってるから
対象が存在しないということだ。
ありとあらゆるものがアートマンにならなければ、アートマンの唯一性が壊れる。
すなわち、二元性が生まれる。

また一方で、「そうではない、そうではない」、というのは、アートマンを全体として捉えようとした時だ。
アートマンとはこういうものだと、定義づけをしようとしたとき。
そのとき、アートマンを対象としてしまってることになる。
ならば、認識対象としている認識主体は誰か? という誤りが起こる。

アートマンを個として捉えると、内と外が生まれ、認識対象化され、外側から見ていることになる。
だから、そういう風に捉えようとすることに対して、ただ、「そうではない、そうではない」として、
アートマンを個別化することを避けるんだよ。

『内も外もなく』
(ブリハッド・アーラニカヤ・ウパニシャッド)
『内も外も含み、不生であり』
(ムンダカ・ウパニシャッド)

全ての物をアートマンに包含すると見た場合は、すべてにおいてアートマンが遍満すると見るのが正しい。
「すべてのもの」を外側から対象化するとしたら、それは「そうではない、そうではない」 ということになる。
0737神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/01(月) 14:08:37.35ID:Oe74HNWc
>>735
「Aは自己ではない」という文章と、「自己は存在しない」という文章が
違うということに気付け。

「Aは自己ではない」というときは、「自己」の存在自体の有無を
判別しているわけではない。
仏教は二元性を越えた中道を本分としているから、有無に関してはあくまで
「非有非無」の立場をとる。
0738神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/01(月) 14:20:19.47ID:Oe74HNWc
補足:
相対否定で「そうではない、そうではない」といって唯一性を示すのも、
「すべてがアートマンである」、といって唯一性を示すのも、
二元性を排除するということ関して同じなんだよ。

「すべてがアートマンである」ということは、「相対否定」と同じということ。

たとば、「鳥も雲も花もアートマンである」というとき、アートマンは限定されていない。
すべてが無限のアートマンになっている。
ところが、「アートマンとは○○というものだ」と限定するとき、内と外、認識主体と認識対象、など
二元性が生まれる。

だからこの二元性を生み出すような限定がアートマンにおいてなされようとするとき、「そうではない、そうではない」といって、
その限定を解除するわけだ。
相対否定ということが、「そうではない、そうではない」の真意ということ。
0739神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/01(月) 14:57:19.94ID:Jel9xS3/
>>734
貴方と問答している人はセブンといって臨済宗のお坊さん

臨済宗では罵倒したり足で蹴ったりの暴力的指導が当たり前
だからセブンも自分の暴言は正しいものと思っている
それが臨済宗の伝統なのだから
先輩の雲水の暴力的指導に耐えきれないといっぱしの臨済宗の僧侶にはなれない
優しい僧侶では荒々しい臨済宗僧侶会で渡り歩けないからね
0740神も仏も名無しさん
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2019/04/01(月) 15:16:49.79ID:bUPUxDnI
おいおいw
ワシは、彼とレスの遣り取りしたことは一度もないぞ? >>739
IDくらい確認しとけよ。
口が悪いのは認めるけどw
0741パーピマン
垢版 |
2019/04/01(月) 15:17:20.59ID:LSpGBD21
ID:Oe74HNWc は、セブンじゃないよw
0742パーピマン
垢版 |
2019/04/01(月) 15:18:24.62ID:LSpGBD21
セブンは、もっと口が悪いwww
0743神も仏も名無しさん
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2019/04/01(月) 16:36:55.35ID:yjLFs5x2
>>736
やはり読めてないですね。

「この世の万物がそれによって認識するその当の本体を、人は何によって認識できるのか」
というのは
「ああ、認識の主体を何によって認識することができようか」
と同じ意味です。
ですから、非ず非ずでしかアートマンは表現できないわけです。

あと、全てにおいてアートマンは内在している、と全てはアートマンである、では意味が違うのにあなたは一緒くたにしていることに気づいていますか?
鳥や雲や花がアートマンであるというのと鳥や花や雲にもアートマンが内在している、というニュアンスの違いに気づいていますか?

内も外もないというのはアートマンには内も外もないということでしょう。

>塩の塊には内も外もなく、完全に味の塊であるように、このアートマン(自己)には内も外もなく、完全に英知の塊のみである。
>(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド4巻5章13節)

引用するなら部分だけではなくこのように全体を引用しないと。

『内も外も含み、不生であり』
(ムンダカ・ウパニシャッド)

これについてはあなたもお読みになっているでしょうシャンカラ本に記載のパリサンキヤーナ想念
https://blogs.yahoo.co.jp/advaita_com/29360240.html
において、その言葉の直前にこの言葉があります。

>また、私を信愛する者もその反対の者も、身体と感覚器官の集合体のみに注意を向けて、
>〔私に〕好ましいもの、好ましくないものなどを結合させようと願い、その結果、善業と悪業などを得るのである。
>善、悪の業を得るのは、それらの人々のみであって、不老、不死、不畏の私ではない。

ここを無視して自説に都合の良い言葉だけ引用しては駄目です。
善悪の業をえるそれらの人々と、不老不死父畏の私は違うのですから。
あとアートマンの解釈もウパニシャッドによって微妙に違うし、それらをまとめたシャンカラは最終的にはアートマンブラフマンに帰するけども幻影のマーヤというものももってきていたはず。
あなたは現象世界のマーヤまでアートマンそのものだと言っているようですが(鳥や花や雲の例から察して)、それは違うのではないですか、と問わせて頂きましょう。
0744神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/01(月) 23:57:38.10ID:Oe74HNWc
>>743
こいつ気持ち悪いほどアホだぁ〜

>「この世の万物がそれによって認識するその当の本体を、人は何によって認識できるのか」
>というのは
>「ああ、認識の主体を何によって認識することができようか」
>と同じ意味です。

だからぁ、>>736に、

>認識対象が存在しないということはどういうことかというと、すべてがアートマンに帰してるときだよ。
>すべてが認識主体であれば、どうやってその認識主体を認識できるのか、

って書いてあるだろ?
おかしなこと言ってんじゃねーぞ。
何が、やはり読めてませんね、だ。  気持ち悪いなぁー

>あと、全てにおいてアートマンは内在している、と全てはアートマンである、では意味が違うのにあなたは一緒くたにしていることに気づいていますか?
>鳥や雲や花がアートマンであるというのと鳥や花や雲にもアートマンが内在している、というニュアンスの違いに気づいていますか?
>内も外もないというのはアートマンには内も外もないということでしょう。

こいつ気持ち悪いわぁー
内在じゃねーよ、何もわかってねぇじゃねーか、こいつ。
「アートマンが内在している」って、主体と述語に分離してんじゃねーか、バカが。
認識主体と認識対象に分かれないって言ってるのに、なんでアートマンが何かをするんだよ、バカが。

で、こいつが全く分かってない、ってのが明らかになったんだけど、内在ってことは、アートマンと鳥、花、雲などは別ものだってことだよね。
分別しちゃってる。  
こういう典型的な二元性の文章を書きながら、平然とウパニシャッドの文章をコピペして
知ったかぶりしてくる。

挙句の果てには、重要箇所の抜き出しを、全体の文章を抜き出さないといけないと、
難癖をつけ、知ったかぶりして全体をコピペしたものの、全く意味が変わらないというw
バカじゃねーか。
0745神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/02(火) 00:05:34.77ID:7WxZmlgB
シャンカラはウパニシャッドの相対否定を越えて、アートマンを説明しようとしているのであって、
ウパニシャッドの真意がわからないやつがシャンカラの教えを見ても、
曲解するだけで理解なんて出来ないだろ。

あと、アートマンの教えの基本はウパニシャッドだからな。
シャンカラの文章を真意もわからずに絶対視して、ただコピペすればいいってことじゃないからな。

こいつ、全然自分の言葉で語ってないだろ。
自分で理解してないのに、ただウパニシャッドだ〜、シャンカラだ〜、と、コピペ引用が主体になっちゃってる。
自分で咀嚼出来てない。
ただ表面的な理解だけで、わかったと思ってる。
バカじゃねーかコイツ。
気持ち悪いなぁ〜。
虫唾が走るよ
0746神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/02(火) 00:18:49.46ID:7WxZmlgB
>>743
>内も外もないというのはアートマンには内も外もないということでしょう。

だからそう書いてるだろうが、オレがウパニシャッドから引用して。
頭大丈夫か?

それで、おまえはその意味分かってないだろ?
なぜ内と外が無いか。

オレが前のレスで説明したから、今は答えられるかもしれないけど、
全然意味わかってなかっただろ。
全部丸写しじゃん。
0747神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/02(火) 01:20:13.40ID:aAkqhLVD
>>744-776のレスを拝読して、これ以上やりとりしても決して分かり合えることなく悪い方向に向かうだけなのがよく分かりました。
互いにとって益がなく戯論を繰り広げるだけだろうというのがよく分かりました。
もうこれ以上レスはしません。自分まで口汚くなりたくもないですしね。
>>744-776の人はその人が信じるアートマンをどこまでも持ち続けたら良いでしょう。
0748神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/02(火) 01:34:14.54ID:7WxZmlgB
>>743
>あなたは現象世界のマーヤまでアートマンそのものだと言っているようですが(鳥や花や雲の例から察して)、
>それは違うのではないですか、と問わせて頂きましょう。

稚拙な判断を基に反論したり、引用したり、こういうやつは議論するのが大変。
こいつの稚拙な理解をいちいち尻拭いしてから反論しないといけない。
「アートマンそのものだ」というのは、オマエの稚拙な理解でそう聞こえるわけだよな?
おそらくコイツは、アートマンというものを限定していると思ってるんだろ。

違うんだよ。
認識主体のみであれば、他に一切の認識対象は存在しない
すべてがアートマンに帰一すれば、すべてがアートマンにおいて平等になるんだよ。 わかるかな? わかんねーだろうな。

アートマンにおいて平等ということは、それらが「空」になるということ。
あれもこれもアートマンで区別がなければ、どうして鳥、花、雲、というものが実体を持っていることになる?
何がマーヤーがアートマンだ、ボケナスが。

こいつは唯一性の特徴を理解出来てないよね
こっちの言ってることが何を言ってるんだか分かってないんだろ。

何もかもがアートマンだったら、アートマンを明示出来てると思うか?
「雲がアートマンだったら雲の内と外が出来るだろう」って、こういう稚拙な考えしか出来ないんだろ。
バカじゃないか?
雲も鳥も、花も、その隣の空間も、右も左も、上も下も、みなアートマンだったら
アートマンを明示できるか?
限定することが出来るか?
内と外があるか?
よく考えろ、このボケナス。
0749神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/02(火) 01:44:06.33ID:7WxZmlgB
>>747
今後一切話しかけないでくれ。
汚い言葉を使うのは、あなたがあまりにも気持ち悪い態度をとるからだよ。
自分の考えてることは正しい・・・ ここまで思うのはよい。
だが、あなたは間違ってるからこうしたほうがいいよ、的なことを言うのは、もはやどちらが正しいかを計る議論じゃない。
議論にはならない。
最初から自分の方が高レベル、相手が低レベルだと見下して、そのような態度でレスをするもんだから、
議論じゃなくて、まるで「師」のように振る舞ってる。
こういうヤツはもっとも議論スレで嫌われるということを気づいた方がいい。

おまえの主張を土台にいろんな議論を展開したとしても、そこにあるのは
矛盾と御解釈に気付くだけだよ。
試しにやってみるといい。
コピペではなく、自分の言葉で語ったら、あっという間に矛盾に陥るから。

それが分かってるから、自分の言葉で語れない。
コピペ引用で議論したつもりになってる。
こういうヤツは議論スレに来るべきではない。
時間の無駄。
0750宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/04/02(火) 05:32:55.81ID:xxm5SiiQ
>>726
>この文章だと、「苦であるもの」は、「我」ではないけど存在する、っていう
>含みを持っちゃうぞ。

いや、何も間違ってはいない。
仏教が説くところの苦を感受するのは“仮和合の自己”のことです。
それはつまり、形而上的な意味での実在(実体)という意味ではなくて、
日常において、我々が普段から自覚し意識するところの状態の自己です。
つまり、いつも歯を磨いたり、上司に叱られたりしてる自己のことだ。
仏教では、それはアートマンではない自己だというのです。

>ありとあらゆるものはアートマンに包含されていて、アートマンのものではないものなんて無い。

あなたのそれは「一元論」でしょう。
『ウパデーシャ・サーハスリー』とハマルシは読むから一元論の内容は分かってる。
しかし、“ブッダの教えは一元論ではないから” (要するに「二元論」なのです)。
一元論の視点だけを唯一の絶対のものとして、元々、一元論ではない教えについて述べているこの私を、
「それは一元論ではない」といって批難するのは完全にアホのやることだ。
0751宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/04/02(火) 05:34:18.75ID:xxm5SiiQ
>釈迦の教えが錯覚を取り除くことに始終しているのは、基本的に、我々の自己の内奥が
>唯一性のアートマンであることを知っているからだよ。

いやいや.そんなことは解ってる。
ただし定説上、仏教的にはウパニシャッドのアートマンとの同一性はまだ認められてはいない。
あくまでもただ個人において、そう読み解く者がいるというだけだ(私の様に)。

>だから、全体を一としてみる唯一性ではなく、「個」としてみる錯覚を無くせばいいと言ってるわけ。
>その錯覚を無くせば、「本来」なわけだ。

百も承知だ。

>宝珠の考え方は、本来の唯一性のアートマンからも外れてるし、仏教の教えからも逸脱してる。
>もうこれは宗教でもスピリチュアルでも何でもないよ。

仏教は二元論だ!
二元論で説くところがブッダの特徴であり、ブッダ独自の素晴らしい手法なのだということをだ。
それがわかってからココに来な!! 知ったかさんよ。
【でなければ、あなたとは対話しない(時間の徒労でまったく無意味だから) 】
何故、ブッダは一元論にて教えなかったのか? それが解ってからココにおいで。
一つだけアドバイスをしよう。一元論で得意になっているようだけど、『ギーター』は読んだのか?
『ギーター』のクリシュナを教えを理解すれば、
あなたのようなアホ(一元論のみを唯一絶対の真理とする見解者)はいなくなるから。

>狂ってる。

「鏡」は無いのか?

とにかく、出直して来な!
あなたには以上だ!!! お・わ・り
0752宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/04/02(火) 05:38:44.71ID:xxm5SiiQ
>>750
誤字訂正:
 正-(ラマナ)マハルシ
0754神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/02(火) 22:21:23.08ID:w4wXCkCQ
今、クローズアップ現代で、
元号の案の考案者捜しをやってるが、
NHKまで、そこまでやらんでも・・、と少々げんなり・・。
勿論、世間の興味として、或いはエンターテインメントとして、
或いは、何らかの経済的波及、知的文化的啓蒙として、
今の時代には、あってもいいムーブメントかもしれんけど、
NHKだけは、そういうミーハー要素とは一線を画していて欲しかった・・w

いや、わかる。
(日本人としてという面もあろうが)、
娯楽を求める現代人・知的遊戯を楽しむ文化人、人生に余裕のある生を生きていられるものにとっては、
実に、興味をそそられる話。

けれども、
「元号の主たる考案者が知りたい!」 ってのと
「涅槃を知覚する主体が知りたい!」 ってのと、
全く同じなのよね・・・。
0755宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/04/02(火) 23:35:51.54ID:xxm5SiiQ
>>754
>元号の案の考案者捜しをやってるが、

『報道ステーション』でも万葉集の研究家○○らしいと紹介してましたね。
取りあえず、見た目も響きもイイので決まって良かったと思います。

>「涅槃を知覚する主体が知りたい!」 ってのと、
> 全く同じなのよね・・・。

う〜〜ん。そんなに腐らないのぉ!
あのね...別に主体が知りたいのではなくて、
仏典から明らかな諸事実を無視して、ヒンドゥーをコケにしているから指摘してるだけ。

ただ伝統仏教が勝手に、
経典の記述から読み取れる涅槃の知覚主体を示唆する文言を無視して、
部派教団の勝手教義であり、ブッダが言いもしなかった(と見られる)「アートマンはない」という意味での「無我」を説き、
「涅槃には何一つ主体なるものはない」といい、そして、>>581-583でも示した通りの、
“探究すべき真実の自己”“自己の主である自己(真実の自己) ”“完成者である真人”の教えも無視して、
「涅槃には自己なるものはない」と言い張る。
そして、自分らの未熟かつ無理解を棚上げしておきながら、
ヒンドゥーを「有我論」として馬鹿にする...。

まっ、結局は、
信仰なのだから何でも自由でいいんだけれども、
自分らの勝手な誤解にしか過ぎない“ヒンドゥーを「有我論」として馬鹿にする”
その醜態さえ辞めるならば、別に私からは何もいうことはない。
あとはどうぞお好きなだけ自分らの信仰を続ければ、それでいいこと....。

たった、それだけのことですよ。
0756神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/04/03(水) 00:27:24.05ID:FsM/KYMB
>>750
あなた、そもそも日本語がおかしいんだよ。

>「苦であるものは、我ならざるものである(=我ではない)」

苦であるものは「我」ではないのは当たり前。
「苦」は「自己」じゃなくて、「自己」が感じるものだよね・・・?(笑)
だからお釈迦様は、「色、識別作用、感受」などを、「自己」と錯覚するな、
と言ってるんだよ。
色が、識別作用が、感受が、(自己が、)「苦」を感じるだろ?
もうメチャクチャじゃないか(笑)

>しかし、“ブッダの教えは一元論ではないから” (要するに「二元論」なのです)。

ここもメチャクチャ。
本来ウパニシャッドのアートマンも、ブッダの教えも、二元論は元より、
一元論をも超えてるんだよ。
だから、「そうではない、そうではない」 ということで、相対否定をしているわけ。
一つの特定された何かを示してしまったら、必然的に、相対的なものを生み出してしまう。
だからハッキリと言ってはいけなかったわけ。

>仏教は二元論だ!
>二元論で説くところがブッダの特徴であり、ブッダ独自の素晴らしい手法なのだということをだ。

仏教の「楽」とは何だよ?
ふだん、われわれ「自己」が感じる「楽」か?
瞑想して頭がスッキリして「楽」になった〜、という「楽」のことか?
違うだろ。(知ったかさんよぉ〜。)
座を組んで「無」を目指すのが仏教か?  ちがうだろ。

仏教の「楽」とは、「苦楽」を越えた中道にあるんだよ。
「無」を目指すんじゃなくて、「無と有」を越えたところに、本当の「空」があるんだよ。
(わかるかな〜? わかんねーだろうなぁ・・。)

二元論を越えたところに一元論があるんじゃないんだよ。
二元論を越えた中道・・・・ イコール 「空」なんだよ

もうね、あなたは仏教は愚か、スピリチュアルも全然分かってないし、
それでは本質は見えてこないだろ。
印象としては、スピリチュアル知識の低レベルな人が、下手な仏教やウパニシャッドの知識を得て、
こねくり回してるという感じ。
だから支離滅裂。

ちょっと、議論のレベルが合わなさ過ぎて、こっちが書いてることや、時間が、
もったいない感じ。
ここまで教えてやる必要があるのかと・・。
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