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--佛教論議の伽藍スレ-- 第四巻
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0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/01/29(火) 03:00:13.20ID:pS7QGcmv
仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。

-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
   2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
    (チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。内容を一つに纏めてから投稿しよう)
   3.コピー転載やリンク貼りのみの投稿は慎んでください。
   4.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
   5.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主の判断で即刻、退場してもらいます。
   6.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
    (1950年の世界仏教会議にて決議した)
   7.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
   8.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
   9.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(及びレス番2の戒律と資料リンク)を変えないこと。厳守!!
 以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。
0584宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/19(火) 04:19:59.03ID:mEt+3uV1
>>490
>482が正しいからこそ、「文言非我、文脈無我」であり、
>アートマンを認める仏教なぞありえない、ということを証明する482だね (´∀`)b

いやいや..文脈からいえば、
尚更、「アートマンは無い」というものではなく、
寧ろその逆であって、アートマン存在そのものを前提にしてることがよりハッキリと浮き彫りとなっていますよ。

>>491承狂
>実際、>>275でも釈尊の説かれた「修行者にとっては時間の無駄でしかないから考える必要はない」話を、
>まるで、釈尊が「真実の自己」をわざと弟子に教えなかったように書いてるしな。(笑)
>そんな性格悪い人じゃあ、応供とは言われないよ。(笑)

“真実の自己を求めよ”という意味でのアートマンの教えは説いた。
ただし、形而上学的な実体を論ずることは時間の無駄ということであって、
それは、「ヴェーダの説くアートマンが無いから」ではない。
そうはいってないから。

>そして、三世兩重説こそが、「部派」の後付けであり、

それは後で、あなたがしっかりと論証して下さいよ。
まずはその根拠を提示願う!!

>勿論、意識界に於いて霊的な様々な事象はあるが、それをどうこうってのは天部の法であり、
>仏教、仏菩薩の法門はその一段上の教え。

(私は)そんな話はまったくしてない。

>>492承狂
>仏教はオカルト趣味のバカな妄想ではなくて

あなたの方こそ勝手な妄想ではなくて、
しっかりとあなたの主張の正当性を示すその根拠となる仏典の記述なり、
資料なりの引用をして説明を願う
0585宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2019/03/19(火) 04:22:30.28ID:mEt+3uV1
>>493
良い資料に感謝します。

>>498
“絶対”というものはありませんけれど、
しかし私は、中村氏こそ(群を抜いて)最も優れた学者と評価しています。
直訳しかできない学者たちとはそもそも基本レベルが違う。
直訳というものは、原語の単語と文法ができれば誰でもできる(訳に間違いがないか程度は、原語比較ですぐに判明する話だ)。
しかし、中村氏のような深い意訳というのは、その何十倍もの幅広い見識(比較宗教学と古代インド思想哲学の知識)がなければ決してできない。
だから他の人には、中村氏の真似事は簡単にできない。

そして、中村氏の著作には、
伝統信奉者たちにとっては目を覆いたくなる“嫌な指摘や事実”が多いので、
だから、それを嫌う人がいるのだろうということです。

>>497
>二百歩譲って、最初期に非我だったとしても、
>律蔵大品の「60人阿羅漢の遊行開始時」に、
>「我(アートマン)の把捉」が悟りの基準だったとは到底思えず、

「真実の自己を見い出せ」と教えていたことは確かな事実でしょう。
ただし、バラモン達の説くアートマン論には全面賛成しないということに過ぎない。
で、それは「アートマンは無い」などという意味ではないから。
そんなこと説いてもいない。

>また、その後、我を見出した釈子は存在しないわけでね・・・。

はい、それは要するに、“アートマンの有無”について
確認できるレベルにも達してないからでしょうね。少なくとも、この私はそう見ていますよ。
仏教徒たちのレベルは(ヒンドゥーよりも)低いとね。

>>500
田上 太秀著『ブッダの自我と無我について』
この論文は、「アートマンは無い」という論調の伝統信奉者たちには特に広く読んで頂きたいものです。
>>280
昨年、18年にも新刊『道元のこころ』を出していることから在世には間違いようです。
果たして、連絡(メールや手紙等々)は可能なのでしょうかね?
分かり次第、質問状を送信したいと思います。
0586宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2019/03/19(火) 04:42:46.68ID:mEt+3uV1
>>505
>言ってることが矛盾してるでしょ。--中略--
>それは、無我じゃなかったら恒常(有我)ということでしょ、文章的には。
>恒常ということは実体があるということですよ。

だから、バラモンたちとは全面的な同意はしないのです。

>もうこの定義がおかしいでしょ。
>色を「自己のものである」と思ってることが(有)我ってことなんですよ。
>本来、自己のものでないものを、自己のものである、と思ってることが有我ってことなんです。

だから、「それらは我ではない」と教えたのがブッダです。
それが無我の教えであり、正しくは非我というものです。
「我が無い」ではありませんから。

>色を「無我」と見れれば悟りなわけ。  わかる?
>色を「無常」と見られれば、「無我」だと気付くわけ。
>色の世界を苦と見られれば、それも悟りなわけ。
>「苦」が「無常」や「無我」と同一のものじゃないんだよ。
>「世界を苦と見ること」がある意味、悟りの境地なわけ。

その通りです。
だから、「涅槃は無我だ」なんて主張するのは止めなさいな。
0587宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2019/03/19(火) 04:58:26.29ID:mEt+3uV1
>>506
>この文章から言うと、我々の今の境地は「色は自己ならざるもの(無我)である」っていう境地を
>達成してることになるよね?
>悟りの境地じゃないか。
>色は自分のものじゃないって突き放してるのに、何物も自己のものではないと空になってるのに、
>一体ここから、何から「解脱」するんだよ?
>もうすでに無我になって解脱してんじゃねーか。

達成してるのではなくて、衆生と凡夫の今の状態そのものをいっている。
だから解脱するのは、それら自己ではないものを自己と同一認してしまっている意識状態からの解脱ですよ。
なので、無我からの解脱です(そういう言い回しは仏教では使いませんけれど、
しかし、敢えてあざと極端に表現しているのです。それは、あなた方により違いが明確となるようにです)。

>宝珠は質問に答えないといけない。
>無我なのに、一体何が輪廻するのか?
>無我なのに、一体何が苦悩するのか?
>無我なのに、一体何から解脱するのか?

五蘊の「識」です。一般には「魂」と見なされるものです。
苦悩しているのは「心」ですよ。しかし、これも自己の本性ではない。
何から解脱するのかについては、上記で述べました。

>>507
あなたは、わたしが当たり前のものとして認識している仏教理解を、
ただ一生懸命、繰り返し繰り返し述べているだけですよ。
けれども、あなたは私の述べているあなたの理解とは異なる部分については、まるっきり出来ていない。
それが今のあなたとこの私との差なのです。

>>我(アートマン)は常住なので無常ではなく無常ではないので苦でもないのです
>常見は仏教ではないので、これを正解とするなら、宝珠の語るものは仏教ではない、
>ということになる。

ブッダがそのように説いたというのではなくて、
(ウパニシャッドのアートマンはそういう教え)であり、
ブッダの見解(教説)はこれを否定することにはならないのだ、ということ。
0588宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/19(火) 05:01:27.09ID:mEt+3uV1
>>510
>もし解脱の境地に達したとき、解脱者は存在しません(諸法無我)。
>そこには、ニッバーナだけが存在します。
>そして、ニッバーナは不滅です。

確かに、自我(低級性質)は消失しますが、
ニルヴァーナをそれとして覚知している自己というはあります。
ニルヴァーナに達したという智が生ずる自己はある。
そのことは、『ウダーナ』に明らかです。

 【比丘たちよ、しかしながら、まさに、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』
でないもの(涅槃)が存在することから、それゆえに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの
出離が覚知される」と。】
(『小部経典/ウダーナ(自説経』)8:3) 

>>511
>そして、諸法は、諸行を含む以外に、涅槃と概念法を含みます。
>あなたは以下の事に、特に注意しなければなりません。
>仏陀は諸行無我と言ったのではなくて、諸法無我と言ったのです。
>諸行は無常・苦・無我ですが、涅槃は常、楽、無我なのです。

ここが彼ら部派仏教たることのミソ!
敢えて、大乗的な云い回しを用いるならば、つまり、こういうことになります。
この現象界というものは、「無常」「苦」「無我」「不浄」だということ。
そこから解脱した境地である涅槃は、その真逆の「常」「楽」「我」「浄」となる。
涅槃は、「常」-常住で永遠不変。「楽」-苦が無くて安楽である。
「我」-なにものにも縛られることなく自由自在である。「浄」-あらゆる汚れを離れている。
その境地をありのままに体感体現している自己があり、その状態にある者のことを他の者たちが仏さまと呼ぶのです。
0589宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/19(火) 05:23:33.38ID:mEt+3uV1
「諸法無我」でいう「法」というのは、無我性の“もの”という意味で使われており、
理由としては単にそれだけのことです。経典の記述によっては実際、「諸行無我」とも書かれています。
だから、どちらでも何も問題はないということ。
それから、「一切」について(のあなた方の間違いについて)は、また後でやります。

 『つぎに諸法無我とは、パーリ語でsabbe dhamma^ anatta^ 「一切の法は無我である」ということであって、ここの法とは「もの」のこと
である。元来、法(パdhamma 梵dharma)にはいろいろの意味があるとされる。パーリ註釈書の説明によるれば、法には(1)pariyatti 教説、
(2)hetu 因、(3)guna 徳、(4)nissatta-nijji^vata^ もの、という四つの意味があって、ここでいう法とはこの中の第四の場合である。
 それはnissatta-nijji^vata^「有情なく霊魂なきこと」であって、アートマンとか霊魂のような不生不滅の実体が含まれていないことを意
味し、実体を離れた現象としての存在を指すことになる。この意味で、諸法無我の諸法は諸行無常の諸行と同じ内容のものとなる。実体のない
諸法が無我であるとされるのは当然である。』
(『東洋思想5/水野 弘元著「初期仏教の縁起思想」』東京大学出版会刊p134-135)

 『諸法の法とは、前に法の特質を掲げた中の第四の「無我性のもの」を意味する。これはたんに「もの」ともいえるが、原始仏教では
「もの」というのは「無我性のもの」に限られるから、この諸法は諸行と同じく、現象としての一切法ということになる。(p160)』
(水野 弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)

 【ただし『漢訳増一阿含』巻十八、三十六では、ともに「一切諸行無常、一切諸行苦、一切諸行無我、涅槃為永寂」となっており、ここで
は「諸行」を無我と見ている。】
(『東洋思想5/平川 彰著「初期仏教の倫理/無我の立場」』東京大学出版会刊p49)
0590宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/19(火) 05:28:43.90ID:mEt+3uV1
>>512
ブッダはそんなことは説いていない。

涅槃は「無」じゃないからね。
涅槃は永遠の境地であり、当然、そのことを覚知している自己がある。それが仏ホトケ。

>>513
>「本当の自己ではないものを自己だと思い込んでることが不幸なんだ。」と、
>言ってるんだよ。

そんなことは解ってます。
常識、ごく当り前の話ですよ。
あなたこそ..もう、何が何だかわからず混乱してるのが出てますよ!

>>514
>お釈迦様の言ってる「無我」の「我」とは、真実のアートマンじゃなくて、
>普段、人間が「私」というときの私だよ。
>あれは「私のもの」、これは「私のもの」、って言うときの
>「私のもの」ってこと。
>なんでこれを「真実の自己」と解釈するのか・・・
>ここが出発点になってるから、ここの間違いを正さないと、
>いくら議論してもかみ合わない。

そう、そこが違う!
「無我」の「我」とは、究極にして真実の自己、永遠なる本性としてアートマンのことをいう。
「それらはそのアートマンではない。」「アートマンでないものをアートマンと見なすなかれ!」と、説いているのです。
それが無我ということ。意味としては、「アートマンは無い」ではなくて、「アートマンにあらず」としての「非我」となる。

第一、(バラモンの説く究極の)「アートマンなどは無い」というのがあなた方の伝統教義ではないのですか?
つまり、「無我」の「我」とは、その究極の恒常不変にして永遠なるアートマンのことを意味しており、
“それは無い”という意味として使っている筈です。
なのに、そうではなくて、ただ普通に自己として述べているときの私のことをだというのは、
一体、それはどこの誰の説明なのですか? どこの学者や僧侶による解説なのか? をできれば教えてもらえますか?
もしも可能であれば、その部分をピックアップして引用提示しい欲しく思います。
それとも、これはあなた独自の思い付きオリジナルですか?
0591宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/19(火) 05:32:28.67ID:mEt+3uV1
>>517
うん、そういうことになるのかな。

>>526
>我はあるという想いもないという想いもそれに固執すれば執着となる。
>このスレでも想いを手放させない人が延々と議論(戯論)をしていてその終わりがみえない。
>悟りの段階では本来は執着は手放さないといけないはず。
>
>無我というのがもし彼岸に渡るための筏だとしたら彼岸に渡ったあとには捨てるものとなるはず。
>我についても同じ。

はい、認めます。

>>527
>ただ、それならば、
>≪「無い」と言ってないから、あるんだー!≫
>という言説も【容認】しちゃ駄目でしょw

いやいや...だから〜
“「無い」とは言ってないから「在る」ことになる”などと、言ってるのではなくて、
“「無い」と言ってないものを勝手に「無い」ことにするな”。あなた方の浅はかな理解で以て、
“ヒンドゥーを「有我論」として馬鹿にするのを止めなさいな”、
と、私はいってるのです。

>>530
>この喩えだと、大海がブラフマンで、蛇口から出る水が真我アートマンってことになるのかな。
>蛇口の水も大海と全く繋がってるわけだから、ある意味同一ということになる。

はい。この私は譬えでいつも、大海の海水がブラフマン。
それを汲み取ったコップの水一杯があなたのアートマンだといってる。
あなたが知らないだけです。

ただし、
これはヒンドゥーの教えであり、
別にブッダがそう説いたとは私はいってない。
0592宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/19(火) 05:36:18.06ID:mEt+3uV1
>>531
>そして恐らくは宝珠氏はその自性清浄をアートマンと同一のものと見做している。

はい、その通りです。
図解の説明もまったく同意致します。

原語で、その「心」とはcittaチッタであるからアートマンではないという指摘も受けています。
しかし、そのアートマンはアートマンであるという表現はないでしょうから、
その心はアートマンと同じものであるという表現ならば通じます。
その経文の“文意から判断する” と、結果的にはアートマン(の特性)と同じことになるものと思います。
ただこの単語だけを切り取って、“「cittaチッタ」だから違う”では経文の文意をまったく無視しています。
これが大乗の「仏性」であり、「如来蔵思想」の発展となったブッダの教えだと私は思います。

>>532
ここだけ唐突に、
後代の(異思想による)付加挿入があったという見方は不自然だと思います。

>>533
はい、周知しています。
0593宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/19(火) 05:41:13.14ID:mEt+3uV1
>>549
とても、大切な視点だと思いますよ。
>>561
>識は輪廻する--中略--
>無我が輪廻する >我が輪廻する
>いや難しいですねw

“アートマンは輪廻しない”は、ヒンドゥーにおいて説かれています。
輪廻するのはjivaジーヴァ(個我/魂)であって、これはアートマンではありません。
そして、このジーヴァこそは仏教の説く「識蘊」だと理解します。

 『弟子は、「その無明とは何でしょうか。その対象とは何でしょうか。また明智によって自分の本性に立ち帰るわけですが、その
明智とは何なのでしょうか」と尋ねた。
 師は答えた。「君は最高我であって、輪廻しない。それにもかかわらず《私は輪廻しています》と言って、正反対に理解している。
また行為の主体ではないものにもかかわらず《(私は)経験の主体である》、(永遠に)存在するにもかかわらず、《(私は永遠には)
存在しない》(と、正反対に考えている)。-----これが無明なのです。」』
(シャンカラ著『ウパデーシャ・サーハスリー』U散文篇.第2章49-50/岩波書店刊)

ラマナ・マハルシもこう述べています。
 『知覚認識できる対象には[現象としての]終わりがあり、知覚認識する主体をジーヴァ(個的生命)であるとするなら、ジーヴァ
(個的生命)とて現象としての終末がある。現われ出るものは何かを見い出し、その現象の破壊(最後)を見極めれば、不滅の真実在
sat (Self) を覚智現成し、アートマン Atman とは何かを覚了する。新たに現われ出るようなものはいずれ消え去ることになり、それ
はジーヴァ(個的生命)あるいはその知覚認識対象であって、アートマン Atman ではない。』
(Talks 1_0704)
0594神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/19(火) 08:07:34.92ID:Q8+KAzAa
(昔、哲板でも展開した話だが)、

≪述部だけ(動詞形容詞形容動詞だけ)で構築されてるのが、仏教的世界観(≒悟りの世界)≫

なんだけどね・・。
『主語があるから、苦悩が生じる』、と。
それは要するに
『私(我)があるから、苦がある』、とw


『私が、走る』、のではなく、『走っているという事象のみがある』、と。
『私が悟る』『私の涅槃がある』、のではなく、『悟る』『涅槃がある』だけだ、と・・・。

事象のみの世界に怖れを感じる者は、そこに自我(主語)を建てたくなる。

尤も、それこそが、
一般的な、普通の、世俗という現実に即した、社会生活・共同体生活を営む者の、「生き物として正常な」感性ではあるが、
それは、悟りの世界を基点にした時には凡夫としての顛倒であって、
だからこそ、「この法は見難い」と言われ、梵天勧請のエピが伝えられ続ける所以でもあり、
ダニヤの章(或いは法句愛品)に象徴されてくるわけで・・・。
0595神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/19(火) 08:09:59.96ID:Q8+KAzAa
◎宝珠「涅槃を自覚するのは誰か?」URL集集

〔「涅槃を自覚する主体は?」URL集〕
仏教 議論スレッド その2
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1272850647/23

〔「涅槃を自覚する主体は?」 補URL集〕
仏教 議論スレッド その3
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1274492365/642

〔「涅槃を自覚する主体は?」 補補URL集〕
仏教 議論スレッド その3
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1274492365/602

〔「無為なる意識?」 URL集〕
仏教 議論スレッド その3
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1274492365/643
0596承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2019/03/19(火) 08:52:55.20ID:DvVnzWUw
>>581>>584
「三世両重説の論証」とか。(笑)
お前も大好きな仲村先生も書いてるし、Wikipediaにも書いてるような、仏教を学んだものには常識の話を、なんで俺が説明しなきゃならんのだ。(笑)
そーゆーのは、お優しいセブン先生らにお願いしな。(笑)
しかし、隠居と同じように「生命」を崇めてるのに、釈尊と龍樹菩薩の評価が真逆なのは笑ったな。(笑)
隠居にも何回も説明して、全く理解されなかったが、「生命」とか「意識」なんてものは、
科学的にはまだ定義付けさえ出来てないんだよ。(笑)
釈尊も、切りがないから考えるなと説かれたの。(笑)

(^。^)勝手な妄想して楽しむのは自由だが、それを「仏教」とか「科学」で、権威付けすんのは止めなさい。(笑)
0597神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:08:58.69ID:Q8+KAzAa
また、中村訳の功罪を、「直訳」か「意訳」かの違いでしか見えてない所が、
そもそも何も見えてない証拠であって・・・w >>585

片山さんも、結構意訳してるけどねぇ・・。
寧ろ、中村さんこそ、『【原義に拘った】直訳』だったりするしねぇ・・。(Snに顕著だけれど)

直訳と意訳の間には、無数の選択肢があってね・・・。訳し方がその二種しかないと思ったら大間違い。
(つか、自国語(の文法)に合わせようとすれば、自ずと意訳にならざるを得ないわけで・・。)



各種写本の発見ラッシュ以降、上座大乗中国日本、あらゆる方面で
考察・解釈の仕切り直しを余儀なくされている時代に、何言ってんだか・・・。
0599神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/19(火) 19:39:57.87ID:Q8+KAzAa
ふむ・・
直近の流れは、この辺と絡むんかな・・・  >>595

〔「無為なる意識?」 URL集〕
仏教 議論スレッド その3
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1274492365/437
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1274492365/438
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1274492365/439
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1274492365/442
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1274492365/485
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1274492365/487
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1274492365/489
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1274492365/490
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1274492365/491
0600神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/19(火) 23:27:17.38ID:Q8+KAzAa
598揚げ
0601神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/20(水) 02:32:22.61ID:kL6AjEt6
>>580
>最初から、今このままで「空」ですよ。
>「空」とは、現象界の事象のすべてに実体的な本質はないということを意味しています。
>だから無常であり、無常だから苦を生じるのであり、輪廻しているのです。

この文章はちょっとおかしいんですよね…
「無常だから苦を生じる」、んじゃないです。
「無常なものを常に続く(実体が在る)ように執着する」から、苦が生じるんです。
無常だけだったら苦は生じない。
真実、無常ということがわかれば、悟りなんですよ。

同じように、「空」であれば「苦」は生じません。
「空」と「無常」というのは仏教的にポジティブな言葉なんですよ。
しかし、「苦」はネガティブです。
「この世界を苦と見ること」は、ポジティブな言葉です。
それは悟った人の見方だからです。

なので、「苦」と「空、無常」がイコールなわけない。
それから、「無常」であるから「空」ということであって、「空」だから「無常」
という説明はちょっとおかしい。
「無常なもの」が「空」なんであって、衆生が先に理解できるのは、「無常」ということなんですよね。
いきなり先に「空」が来ない。
「よいか、実体の無いものは・・・」 な〜んて説明にならない。

それで、無常であれば輪廻するものは何もないです。
無常なものを実体があると思う・・・・  実体があると思ってる(執着してる)から、輪廻するんです。
無常だから輪廻するっていう語法はおかしいです。
0602神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/20(水) 02:35:16.36ID:kL6AjEt6
>>580
>従って、解脱した先がまた「空」の筈がありません。それでは解脱してないじゃないですか。
>いわば無我の状態(自己の本質を見失っている状態)から解脱するのです。
>だから、その解脱した先の涅槃が無我のわけがない。

あなたはまだ空の本質をわかってない。
空を「無」のことだと思ってる
空と言ったからと言って、仮にあなたの言う「超越的な自己」を
否定しているわけじゃないんですよ。
むしろ空じゃないとそれは成立しないんです。

絶対的な「一(いち)」とは何でしょうか…?
それは必然的に「無限」を表わすんです。
有限であれば少なくとも、内側と外側という、二つがあることになります。
これでは「一」ではない。

「無限の一」ということであれば、空を本質としないと困るんです。
中身が空っぽじゃないと困る。
そして無限であるわけですから、全体としてどこまで行っても「空」ということになるんです。
もし「空」が損なわれると、「一(いち)」もまた損なわれます。
0603神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/20(水) 02:37:52.63ID:kL6AjEt6
>>580
>「中道」は意味が違うから。「空=無我=無常=縁起」これだったならば図式としてはまったく問題ない。

あなたは中道の本質もわかってない。
中道は=空、=縁起 なんですよ  =諸法無我でもあり、=諸行無常ということ。
単純な話、たとえば、「晴れ」と「雨」があるとします。
「雨」はズボンや靴が濡れて不快だ、「晴れ」の方がいい、と思ったとします。
価値判断が働くわけですね。
ところが、価値判断の主体が無くなったら… 雨の被害を受ける主体が無くなったら・・・ 不快の主体が無くなったら、
どうなりますか?
「雨」と「晴れ」の差が無くなるわけです。
「雨(不快)」と「晴れ(快)」が平等になるわけです。
平等になれば、「不快」と「快」という相対的な両極が消えるんですよね。
差がゼロになれば、相対的なものは保てなくなる
意味をなさなくなるわけです。  これが「空」ということです。
そしてこの両極を越えた道が、「中道」ということです。
なので、もう一つ付け加えると、「中道」=「平等」、「空」=「平等」ということになります。

>その「空」の状態にあるところにおいて「苦」はあるのです。

空の状態において、中道において、平等において、「苦」というものはありません

>だから、「無自性/空/無我」なのです。これが「苦」の生ずる世界です。

無自性空において、無我において、「苦」の生じる世界ということはありません。

宝珠さんの文章が膨大なので、おいおいまた反論していきます。
0604神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/20(水) 17:35:04.78ID:QX17m9s5
598揚げ
0605ポッタン師
垢版 |
2019/03/20(水) 17:46:50.39ID:N3VDG+M6
603.雨と晴れ、との差がなくなる、ことはない。
大爆笑である。
0606承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2019/03/20(水) 18:37:36.57ID:zGd7y6ma
>>605
だから、ウゼーんだよ、朝鮮人。(笑)

(^。^)おまエラの存在が大爆笑なんだよ。(笑)
0607神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/20(水) 18:57:02.50ID:QX17m9s5
江戸末期から明治期の「近代居士禅」
の弊害の象徴が「悟りスレ系」の連中。

明治期から昭和初期の「西洋仏教学の洗礼」
の弊害が「議論スレ系」の連中(自分含w)。
0608承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2019/03/20(水) 19:04:13.31ID:zGd7y6ma
>>607
俺や宝珠は違いますから。(笑)

(^。^)オカルトブーム世代のお花畑だよな、宝珠?(笑)
0609神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/20(水) 20:41:35.93ID:QX17m9s5
>>608
「オカルトブーム世代」と「ユリ・ゲラー世代」と「韮沢・矢追世代」との違いは?w
0610承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2019/03/20(水) 21:11:01.52ID:zGd7y6ma
>>609
俺的にはオカルトブームは70年代から現代までのサブカルチャーの思想背景。(笑)
要は現実からの逃避と見てる。(笑)
ノストラダムスからUFOとか仙道、最近は輪廻転生アニメ。(笑)
学生運動のころは逃避先が共産主義で、もっと遡れば仏教のフダラクや極楽往生。(笑)
釈尊は、現世の修行者へ涅槃に行けと指導したけどね。
現実は辛すぎるから。(笑)

(^。^)因みに俺はシカイセンで、宝珠は「霊的な進化」。(笑)
0611神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/21(木) 15:15:59.66ID:ETCepY7b
第三「一切の章」は一〇経からなる。
 その第一「一切経」は、仏が比丘たちに、「一切」とは何かを語り、
それは六内処(眼・耳・鼻・舌・身・意)と六外処(色・声'香・味・触・法)である、
と説かれたものである。ちなみに、「一切」には
@一切の一切(一切知言、A処の一切(四地)、
B有身の一切(三地)、@場所の一切(五門所縁)の四種が知られ、
ここはAの「処の一切」が意趣されている。

(片山相応部冒頭概説)

そして 598揚げ
0612神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/21(木) 22:02:44.22ID:UMNmebjd
>>590
>「無我」の「我」とは、究極にして真実の自己、永遠なる本性としてアートマンのことをいう。
>「それらはそのアートマンではない。」「アートマンでないものをアートマンと見なすなかれ!」と、説いているのです。

あのですね、○○はAではない、△△もAではない、××もAではない、という、
いわゆる「非A」というのは、「Aである」と、錯覚してる人たちに言うわけですよね。
たとえば夢を見ている人が、現実だと思ってる場合。
これは現実ではない、あれも現実ではない、それも現実ではない、といって、
錯覚であることを教えようとしているわけです。

で、>>470を見て下さい。
ここでは体や感受、識別作用などが、錯覚の対象になっているわけです。
なにかに錯覚しているから、「そうではない」、といって、否定しているわけですよね。
問題は、何に錯覚しているかですよ。

仮にこれがあなたの言うように「超越的な自己」、だったとすると、凡夫は体や感受、識別作用を
「超越的自己」と錯覚していることになります。
われわれ凡夫は普段、体や感受、識別作用を「超越的自己」と錯覚していますか?
体がスーパーマン並みに何かをやれば「超越的自己」と錯覚してもおかしくはないですが、
一般の人たちが考えるのは、「体」は普通に自分の体だよな?、ってことですよね?
自分の体が「超越的自己」だ、なんて思う人は一人もいない。
それは感受であれ、識別作用であれ、同じです。
体も感受も識別作用も、何一つ「超越的な自己」を連想させるものはありません。
なので、>>470の非我の「我」が、「超越的な自己」であったらおかしいというのはわかりますよね?
0613神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/21(木) 22:03:51.54ID:UMNmebjd
>>590
では何がしっくりくるかというと、普段、人間は、体は誰のものと思ってるでしょうか?
感受は誰のものと思ってるでしょうか?
識別作用は誰のものと思ってるでしょうか?
バカではない限り、それらを「他人のもの」と言う人はいないでしょう。
また、「超越的な自分だ」、という人もいません。
あきらかに、それらは、「自分のもの」、と言いますよね
だからお釈迦様は、「それらは自分のものではない」、と言ってるわけです。

仮に、人々が「超越的な自己」だと錯覚していないで、いきなり「超越的な自己」の説明をしたとします。
「よいか、あなたたちの体があるだろう、それは超越的な自己じゃないんだ、超越的自己だったら病気になどなりはせぬ、
識別作用があるだろう、それも超越的自己じゃないんだ、感受もそうだ。」
聞いてる人は「???」ですよ。
「そんなこと知ってるし・・・」と思うでしょう。
だから宝珠さん、あなはこの簡単な文章を誤読してるんですよ。
0614神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/21(木) 23:31:41.13ID:+YaNH5DK
277 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

278 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

279 「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

今生きているこの世界が無常であり苦であり無我であるのです。
それ以上ごちゃごちゃ思弁を凝らす必要はありません。

またブッダのことを大いに評価しているヒンドゥー教の聖者でもブッダは自分達と同じように本当は有我論者であった、とは言いませんでした。
ブッダはアートマンについてはあるともないとも言ってない、これで話は終わりですそれ以上ごちゃごちゃ思弁を凝らす必要はありません。
ブッダの本心は無我だった、有我だったというのは個人の想像の話に限られそれを人に押し付けるものではありません。
0615ポッタン師
垢版 |
2019/03/21(木) 23:39:43.24ID:HsyBX7Js
614.バカ丸出し、である。大爆笑である。
0616神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/22(金) 00:42:51.35ID:g3iSoHBf
>>614
あなた文章がメチャクチャじゃないですか。

>今生きているこの世界が無常であり苦であり無我であるのです。

無常だから「苦」なのですか?

「(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。」と、
上に書いたばっかりじゃないですか。
無常ということが分かれば、ひとは苦しみから遠ざかるんでしょ?
なんで 無常=苦 と言い張るんですか?

何度も言うように、無常であるものを実体があるように錯覚しているから、
「苦」が生まれるんですよ。
「明らかな知慧をもって観る」と書いてあるじゃないですか。
無常というのは明かな智慧を持ったときに、
わかるものなんですよ。
明かな智慧を持っていなければ、無常ということはわかりません。
世界が無常に見えない。

その次の278で、
>「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに・・・・
と、書いてあるでしょう?
明かな智慧で世界を「苦」と見るんですよ。
明かな智慧がなければ、世界を「苦」と見れないんです。
世界を「苦」見れないから、自分の体も含めて、
いろんなものに執着しちゃうでしょ?
それで「苦」が生じるんですよ。

いいですか、この世界が「苦」だから、「楽」にしないといけないってことじゃないんです。
この世界が「苦」だとわかったら、「苦」から遠ざかり離れることが出来るんです。
この世界が「苦」だとわかったらそれで完結なんですよ。
悟りなんですよ。
278に自分でコピペしてるじゃないですか。
0617神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/22(金) 00:55:04.85ID:g3iSoHBf
>>614
279だって、あなたの解釈だとおかしくなるでしょ?

>「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、
>ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

もしここでいう「我」が、あなたの言う通り「超越的な自己」だったら、
「一切のものは超越的自己ではないんだ」と明らかな智慧を持って観ることが出来たら、
ひとは苦しみから遠ざかることが出来るんですか?
すべてのものが「超越的自己」ではないとわかったら、清らかな道になるんですか?
文章がおかしくなっちゃうじゃないですか。

なんで「超越的な自己」ではないと見れたら、苦しみから遠ざかることが出来るんですか。
「超越的な自己」にならないと、「苦」を克服できないんでしょ?
見れただけじゃダメでしょ。

「超越的な自己ではない」と見れただけで、「苦」から逃れられて、清らかな道に入れるんですか?
それだったら、「超越的な自己」になる必要がないじゃないですか。

「無我」が「苦」なんでしょ?
「超越的な自己」ではないことが、「苦」なんでしょ?
それだったら何で、「超越的な自己ではない」、と見れたら、「苦」から逃れられて清らかな道に入れるんですか?
言ってることが真逆じゃないですか。
0618神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/22(金) 01:20:51.19ID:g3iSoHBf
>原始仏教の重要な教説である「無常・苦・無我」説

ってとあるサイトに書いてあったけど、この「無常・苦・無我」って並べて教えと解釈するの、
仏教学者か何かが、こういう書き方を勝手に作ったのかね・・・?

原始仏教の重要な教説は、「無常・世界を苦と見ること・無我」、なんだよ。
「世界を苦とみること」、ってところを勘違いしちゃって、「あ〜、苦というのは重要な教えなんだな」と、
頭の悪い仏教学者が考えたんだろ。
「世界を苦とみること」という、仏教の教えの本質と照らし合わせた文章形態を
正しく見ることが出来なかった。
「世界を苦とみること」と、「苦」が、イコールだと思っちゃったんだな。
なので、文章が長いので、「苦」の一言に縮めちゃった。

違うんだよ。
「世界を苦と見ること」と、「苦」というのは、決定的な違いがあるんだよ。
一方は悟りの領域で、一方は凡夫の領域なわけ。
一体どこのバカが「無常・苦・無我」と並べたんだよ。
学者はこれだからダメなんだよ。
0619神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/22(金) 01:28:34.48ID:kxOeJrKY
>>616-618
しつこい
あと君はそういう話が大好きそうだが俺はもう飽きたので個別に反論はしない
ただ一つ、人に自説の押し付けはしないことだな
0620神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/22(金) 08:06:49.56ID:4eGdZ+vv
現在の争点
1、「一切」の範囲
2、「無我」という表現の正当性、是非
3、「無為(なるもの)」の在り方・在り様について
4、涅槃を「見る」主体(→真我)の必要性


1に関しては、相応部当該箇所(の訳)を、ざっと眺めてみたが、
註をも見れば、宝珠のように「十二処」限定とまではいかないが、本文は、ほぼそれに尽き、
≪「無為(涅槃)」は、その中に入らない、「無為法」という呼称・分類が話をややこしくした≫
ということでFAでよいかな、と。 ここに関しては宝珠は別に間違っていない、と。
ただ、その代わり、今度は3に関わってくる。(そこで>>598
0621神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/22(金) 09:06:36.55ID:4eGdZ+vv


反論してたのは宝珠だけで、
貴方は何も発言してなかったと思うけど? (´・ω・`)    >>619
0622ポッタン師
垢版 |
2019/03/22(金) 10:14:43.59ID:yBZRLiC2
620.現在の争点。の4、が悟り、である。バカには理解できない。大爆笑である。
0623承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2019/03/22(金) 13:35:11.88ID:Nf8gQImF
>>622
このように、「何かを私は得た、コレが涅槃という境地に至った証だ!」という連中は、バカカルトと同類のエセ仏教徒であり、朝鮮人と同類の虚言癖でしかない。(笑)

(^。^)おまエラは日本人じゃないんだから、さっさと日本から出ていけ。(笑)
0624ポッタン師
垢版 |
2019/03/22(金) 14:18:24.41ID:yBZRLiC2
623.バカ丸出し、である。大爆笑である。
0625神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/22(金) 18:31:04.00ID:4eGdZ+vv
現在の住人
宝珠、直近ID g3iSoHBf 氏、紹興、ぽったん、、規制おじゃる、時々パーピ、(&ワシ)

寂れたなぁ・・w
(中身のある書き込みのできる人材が少なすぐるw)
0626神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/22(金) 18:53:49.64ID:4eGdZ+vv
ま、
議論としては出尽くしてて、
今現在も、アートマンスレでの遣り取りの再演でしかないしね。
≪『再演』にしかならない≫ ほど、論点と証左は明らかだ、と。


あとは、それらについての個々人の解釈・理解の相違しか残ってない。
同じ文言を、互いに論拠にしている喜劇とでも謂うべきか・・・。
0627神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/22(金) 19:11:44.47ID:4eGdZ+vv
そして自嘲自省揚げ
0628承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2019/03/22(金) 19:22:33.57ID:Nf8gQImF
釈尊は弓矢の形状や材質や由来を問う前に行しろと言われたのに、
お前らときたら、やれ「この文献にはー」とか、やれ「何とか博士はー」とか、やれ「アストラル体がー」とかばかりだろ?(笑)

(^。^)観音様でも呆れ果てると思うぞ?(笑)

あと、朝鮮人と並べられると紹興酒さんはご立腹だと思います。(笑)
0629神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/22(金) 19:32:21.05ID:4eGdZ+vv
そりゃ、紹興酒の方が、半島系の酒よりは遥かに美味いと思うけどw



ただ、マジレスすれば、
文献無視はあり得ない。

文献(原典批判的研究含)で体験を「確認する、検証する」
―一代に言わせれば、師匠による倹単も含めて、だがw―
ことを蔑ろにすれば、
オウムにしろ大川君にしろ桐山君にしろ、宝珠にしろ在家にしろカラスにしろ隠居にしろ、

 「言ったもん勝ち」

でしかないし、
彼らの発言を却下する正当性を持ち得ない。
0630承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2019/03/22(金) 19:47:26.87ID:Nf8gQImF
>>629
そーじゃなくて、比較同定の話よ。(笑)
勿論三宝に帰依するのは大前提です。(笑)
例えば、我等中観系統の皆でコケにしてるトクシブでも、もしかしたら口伝で自性の否定をしてたかも知れない。(笑)
少なくとも、経典の軽重を測って釈尊の本意を探る学者先生方よりは、トクシブの僧侶の方が行者としては真摯な態度だと思うがな。(笑)

(^。^)此義如何。(笑)
0631神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/22(金) 20:57:04.74ID:4eGdZ+vv
トクシブの僧侶=宝珠=在家=カラス=隠居

という等式を成立させ得るなら、貴方の言う通りでしょう。

別に、学者最強説を唱えているわけではないのでw
個人的な選り好み・好き嫌いで評価してるだけwww
0632承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2019/03/22(金) 21:11:00.13ID:Nf8gQImF
>>631
その等式はwww

(^。^)一切論無戯論性故応知般若波羅密多無戯論性♪
0633神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/22(金) 21:42:37.88ID:4eGdZ+vv
つーか、その辺は、
こういうことだと思うから。

〔内的体験の不確実性及び確認検証可能性〕

☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート25
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1265848995/619
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1265848995/631-632
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1265848995/656-657

参:
【最終】輪廻転生説はどう扱うべきか!?【決着】4
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1260569824/698
【@規制】心と宗教板避難所総合【@鯖落】
http://sports2.2ch.net/test/read.cgi/entrance2/1262698032/42-48

(さらに参:http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1265848995/601-604
0634神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/23(土) 00:33:42.45ID:Ho8uYM4d
仏教って難しいんだね
0635神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/23(土) 05:31:04.61ID:kPHjXJtn
あと39日
0636神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/23(土) 05:35:01.50ID:kPHjXJtn
--佛教論議の伽藍スレ-- 第四巻
0637神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/23(土) 08:54:41.50ID:Ho8uYM4d
要するに清浄な自己を求めよというのが仏教の言ってることだよね?
0638神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/23(土) 09:12:44.43ID:xNLshty/
だから違うって、不垢不浄なんだよ
中道ってこと。
わかんねーだろうな・・・。
0639神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/23(土) 09:31:09.09ID:Ho8uYM4d
マジでわかんないから、わかりやすく解説してくれない?
0640ポッタン師
垢版 |
2019/03/23(土) 11:41:08.40ID:ofCn4+oQ
637.清浄な自己、か。
それを、どのように、求める、か。の問題である。
その方法論の問題である。
バカ坐禅か、バカ瞑想か。
0643ポッタン師
垢版 |
2019/03/23(土) 16:47:21.95ID:ofCn4+oQ
慧能が言う。本来無一物。
0644神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/23(土) 18:46:30.09ID:F/iW7qyD
ああ、
禅宗を梵我一如化へと向かわせた大罪人かw   >>慧能
0645神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/23(土) 20:16:02.22ID:F/iW7qyD
8:1 (因縁略)。
『比丘たちよ、このような境地(Ayatana)があります(atthi)。
そこには、地(paThavI)もなく、水(Apo)もなく、火(tejo)もなく、風(vAyo)もなく、
空無辺処(AkAsAnaJcAyatana)もなく、識無辺処(viJJANaJcAyatana)もなく、
無所有処(AkiJcaJJAyatana)もなく、非想非非想処(nevasaNNAnAsJJAyatana)もなく、
この世(loka)もなく、あの世(paraloka)もなく、月・太陽(canima-suriya)の両者もありません。
比丘たちよ、私は、そこに来ること(Agati)も、行くこと(gati)も、止(とど)まること(Thiti)も、
没すること(cuti)も、生まれかわること(upapatti)も説きません(na vacAmi(vadAmi))。
依り所のないもの(appaThitta)、生起のないもの(appavatta)、
所縁のないもの(anArammaNam)が、すなわちこれ(etamM)です。
これがすなわち苦の終わり(anto dukkhassa)です』

8:2 (因縁略)。
『「不屈(anata)というものは、見難い(duddasa)。
なぜなら、真理(sacca)は見易いもの(sudassana)ではないからである。
知る者(jAnato)に、渇愛(taNhA)は洞察され(paTividdha)、
見る者(passato)にいかなるもの(kiJcana)も存在しない(natthi)。』
0646神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/23(土) 20:24:37.50ID:F/iW7qyD
>>645

  passato natthi kiJcanaM は、 (男性中性)同じ主格として

 「見る者」【は】、 「いかなるもの」【としても】、 ない
  passato          kiJcanaM       natthi

と読めるんじゃないかと、今ふと思ったw
0647神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/24(日) 05:07:02.64ID:6kEAxnBd
あと38日
0648神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/24(日) 12:40:02.68ID:M5K0hSSc
『四諦 (cattari sacanni)を如実に,聖 道の慧 (ariyamagga・panna)によって知る者に,見る者に,
有 などに屈する渇愛は存在しない。』

知る者、見る者は同一主体ってことかな。
渇愛を理解した人が見る時には、それら渇愛は存在しない、と。

たとえばそれは、「この世界の存在というものを深く洞察して知っている人の目には、この世界の存在というものは存在していない(実体がない)ように見える。」
ということと同じ。
洞察して知っている人の見え方が、どういう見え方か、という
説明なんじゃないか。

「自分というものが無くなった人」という言葉がある場合、矛盾しているように見えるけど、
「人」の部分が無いと、完全に「無」になっちゃうし、「人」を「自己」と思っちゃうと、
「自分というものが無くなった」ことにはならない。

有無というのは人間の思考の領域で、涅槃は思考(有無)の領域外のことだから、
勝手にふつうの人間が涅槃を有無として扱ってはいけないことになる。

ふつうの人間の思考側から言えば、すべての物は幻想だから、
ありとあらゆるものに実体は無い、で終わりなんだよね
幻想がすべて実体のように見えてる人に、涅槃は洞察できない。
もし洞察したら、それらは幻想の世界の上に構築していることになる。
たとえば、夢の中で「目覚めた人」を洞察したら、夢の中で「目覚めた人」を目指すことになるだろう
夢から出られない

だから、夢の中ではあくまで、これは夢ですべてのものに実体はない、で終わりということだろう。
0649ポッタン師
垢版 |
2019/03/25(月) 08:21:04.06ID:n8c6+H5m
648.バカ丸出しである。大爆笑である。
0650神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/25(月) 09:36:24.91ID:gkbuzQcn
あと37日
0652ポッタン師
垢版 |
2019/03/27(水) 01:21:24.51ID:KpD+0V+M
651.ニャンゴスター、か。大爆笑である。
0653神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/28(木) 00:52:14.84ID:Qv2X7Fye
『「私は一切の有類の中にありながら、虚空のように、唯一であり、一切の有類は私の中にある」
ー このように見ている者は [再び] 生まれることはない。』

『〔真理を〕認識した者にとって、一切の存在物がまさにアートマンそのものになったとき、一なること(ekatva)を見た人にとっては、
そこにいかなる迷妄があろうか、いかなる悲しみがあろうか』

『(アートマンは)行為主体でもなく、対象でもなく、結果でもないから、
また内も外も含み、不生である。ーーー から、どうして、誰が、それに対して 
「(これは)私のものである。」「(これは)私である。」という観念を
持つことが出来るであろうか。』

『ただ、一としてのみ見られるべきである。』
0654神も仏も名無しさん
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2019/03/28(木) 01:21:09.43ID:iEwiFQj0
ヒンドゥー教の聖者でもブッダのことを尊敬している聖者はたくさんいる
ただしそれらの人たちはブッダは本当は有我論であったとは決して言わない
逆にブッダは無我を説いたから本物だと言ってる聖者もいない
0655宝珠真範& ◆SojY0GLQ0zOa
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2019/03/28(木) 16:03:30.27ID:77Ho5dWe
>>653
ウパニシッャッドの聖句ありがとうございました。
まさに真理は一つ。ただブッダを含め、様々に説かれているだけと感じます。

>>654
はい! 然り
0656神も仏も名無しさん
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2019/03/29(金) 00:11:42.86ID:p3cSNViQ
(臨済)禅家が持て余す(w)延命十句の常楽我浄を、
神智学的に読み解いてみてほしいもんだw        >>655

つか、「【文言】上」は、ここぞとばかりに引用してもいいくらいなのに。
それとも、「【文脈】上」使えない?w
0657承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
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2019/03/29(金) 01:20:51.41ID:GavmiYV8
>>654
天皇陛下を尊敬している外国の要人は多数いるが、
それらの人々は天皇陛下の本心がどうとか言わない。
逆に天皇陛下の本心だとデタラメな事を言って世界中から嘲笑われるのは朝鮮人だけ。

敬意とは、そういう話じゃあ、ありませんからね。(笑)

(^。^)仏家は釈尊に帰依してるから経典に依るけど、お前らは自らの盲執に執着するから良いとこ採りに右往左往する。(笑)
0658神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/29(金) 01:29:41.42ID:I4Dd7DZK
>>657
文書読めてない早とちりさんは黙ってたほうが吉
己の痴を晒してるだけだぞ
0659神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/29(金) 08:31:08.72ID:yg4JNMPY
 
真俗二諦
その当時の、その地域の人々に仏教を理解せしめるためには
その当時の、その地域の人々にとっての世間的な「想い」を一応認めて
その理解のうえで、仏教を理解せしめるという
対機説法としての?
 ↓

常楽我浄の

仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある
 ↓

スッタニパータ 21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない

彼岸に到着しているのなら
対機説法としての
 ↓

インドの人々にとってのアートマンも
常楽我浄も
菩提分法も
必要はない(筏の必要はない)

>有我論であったとは言わない

みたいな?
0660パーピマン
垢版 |
2019/03/29(金) 10:26:05.58ID:nnPxrX51
>>859
>おじゃる

君は、スレ主である宝珠に書き込みを遠慮するように言われてたはずだ。

それは、コテを外せばOKというものではないでしょう?
まさか、コテを外せば分からないだろうとは思ってないだろうが。

貴方が、拒否されたのは、
@他者の見解を曲解し、それをその人の見解として述べる・・・・・「〜〜みたいな?」
Aコピーの連投に終始し、決して自己の言葉として述べない。
B分からないことを質問するのであれば、その回答に対して「ありがとうございます」
 の一言でいいものを、「それは・・・・・みたいなことでおじゃりますな?」と
 コピペを貼り付け、結局は質問ではなく、自己の見解の押しつけ(それも、しばしば
 論点がずれてる)の繰り返し。

・・・・以上のようなことが原因だと思うけどね。

「・・・・・は、〜〜〜です。」 「・・・・・・は、違います。」 のようにはっきりと自己の見解を
述べるようになるまでは書き込みは止めた方がいいでしょう?

貴方はかつて、一代に「仏教を学ぶにあたって、どのような本から学んでいけばよいか?」
と尋ねた際にも。結局、そのアドバイスを全く無視し、従来の書き込み方式を続けている
と言う事実があります。

これからも、そのやり方を続けるつもりならば、自分のスレでやりなさい。
貴方と対話を希望する人は、そこであなたと対話をするでしょう。
0661宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/29(金) 11:48:02.01ID:tYLRvfsk
>>660
ありがとうございました!! (感謝)。
さすがですね(一代が認めただけのことはある)...。
いつも沈着冷静に各投稿と流れを読んで分析し、しっかりとその意味を把握している。
頭が下がりますm(__)m
0662神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/29(金) 12:00:06.75ID:V1f2NYnf
スレがとっ散らかるのが嫌なのかな?
0663宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/29(金) 12:07:45.24ID:tYLRvfsk
〜皆様へ
なかなか投稿の時間が取れないことも多くて、
どうか気長に宜しくお願い致します。どうもすみません。
-------------------------------------------------------------------------------------------
---お知らせ---
今夜、素晴らしいドキュメントがTV放送されるようです。
仏教の関心のある方には必見かと思います。
私は勤務なので録画して見ます。

NHKEテレ1
午後10時00分〜 午後10時45分
ドキュランドへ ようこそ!「輪廻(りんね)の少年」
 『パドマ・アンドゥは「リンポチェ=輪廻転生の高僧」とされる存在。しかし、中国のチベット政策のために、ラダック地方と“本家”と
の接触は限られ、パドマも“特別な才能”を失っていく…世話役のウルギャンの勧めで、少年は「本来あるべき自分になるために」雪降るチ
ベットを目指してインドを横断する旅に出る。長く険しい道のりの末に、たどりついたチベット仏教寺院。そこで2人が見つけたものとは─』
 https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/4471/1418034/
 https://www4.nhk.or.jp/docland/
-------------------------------------------------------------------------------------------

>>596承狂
これは大変、失礼しました。
「三世両重説」は十二縁起に関する話ですよね。
うっかり、“三世業論についての否定”の話として勘違いして読んでしまいました。
ここに謝罪をします m(__)m
0664宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/29(金) 12:20:13.74ID:tYLRvfsk
>>656
>つか、「【文言】上」は、ここぞとばかりに引用してもいいくらいなのに。
>それとも、「【文脈】上」使えない?w

あくまでも“大乗の教義”なので、意識的に殆ど採り上げて来なかったということ。
大乗は、当時の上座部に反旗をひるがえして独自の創作経典を制作していったのだけれども、
その創作過程においてヒンドゥーを取り込み利用していくという流れにおいて、
しかし結果的には、テーラワーダが誤解し放棄してきた“ブッダ本来の説かれた「真実の自己」の探究”
という最重要なキーポイントへと独自に近づくことが出来たのだということ。
これを一般的には、“ヒンドゥー化”(反仏教的)と称して批難する評価があるわけですね。
私は読誦経典の一つとして、観音の御縁日(毎月18日)や納骨堂での読経などで唱えています。

>(臨済)禅家が持て余す(w)延命十句の常楽我浄を、
> 神智学的に読み解いてみてほしいもんだw       

<<「無常」「苦」「無我」「不浄」>>とは、真逆の世界が涅槃の<「常」「楽」「我」「浄」>>となる。
なるで、涅槃が無我である筈がないのです。セブンの説明にあった「この現象界が無我であるということを悟ること」によって、
という言い方はもちろんとてもイイと思います。現象界が「無我」だと悟って、その「無我」から解脱して「我」の境地へと至るのだと。
>>588の私の説明というのは、真言宗智山派の機関誌における解説を元にしたものです。
(真言宗)だから、より「常」「楽」「我」「浄」の理解が明確なのだと思います。
0665宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/29(金) 12:21:53.61ID:tYLRvfsk
神智学的な視点での違いは特にないと思います。
もしも、強いてあげれば、「我」についてはウパニシャッドのアートマンを、神智学的な表現と理解において更に具体的に説かれるだけです。
神智学ではこれを「モナド(真我)」、「神の閃光キラメキ」、「スピリット(霊)」(心霊学用語の「霊」とは異なる)といっており、
“ロゴス(神)の分霊”がモナドであり、このモナドが神の意志と御径論に沿ってこの現象世界に自身の「魂 ソウル)を反映していく...。
これが“霊の物質化”です。
魂が物質界の輪廻転生によって獲得してきた人生経験の記憶データのすべてを上位のモナドが吸収して、
これらすべての人間の体験記憶がロゴス御自身の経験値へと加味プラスされていく...。これらが物質の霊化だとされます。
魂は一定基準の必要経験を獲得してその役目を終えると、モナドへと再吸収されて“消滅”します。
これが神智学的な意味での“輪廻の終焉”となります。
0666宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/29(金) 12:26:10.28ID:tYLRvfsk
>敢えて、大乗的な云い回しを用いるならば、つまり、こういうことになります。
>この現象界というものは、「無常」「苦」「無我」「不浄」だということ。
>そこから解脱した境地である涅槃は、その真逆の「常」「楽」「我」「浄」となる。
>涅槃は、「常」-常住で永遠不変。「楽」-苦が無くて安楽である。
>「我」-なにものにも縛られることなく自由自在である。「浄」-あらゆる汚れを離れている。
>その境地をありのままに体感体現している自己があり、その状態にある者のことを他の者たちが仏さまと呼ぶのです。>>588

「禅」(禅宗)は、ただ黙って信仰対象としての“お釈迦様と「禅」修行一本”に絞ってさえいれば
テーラワーダ的な諸派になれたところを(それが望ましいという意味ではないが)、あくまでも大乗の一派としての位置付けと枠組みの中にあって、
その流れの中で「やれ観音様だ〜」、更には「豊川稲荷(神)だ〜」とやっているから自身の内に葛藤を抱えているのです。
『大悲心陀羅尼』を含めてかなり密教化した観音と、そして、以前にも述べたように豊川稲荷の荼枳尼天は関わるべきではないバケモノでもあるし
(元々、これを導入したのが真言宗ですが、とっくに密教の中に取り込まれていた)...。
まっ、何はともあれ“思い通りにならない苦の領域”から解脱して、自在(観自在菩薩=観音菩薩)を獲得した涅槃の観音は、
衆生を救済すべくこの現象界において三十三化身を顕して虚空に遍満している、と。

つまるところ、この現象界を「無我」だと悟って「我」に至るのと同様、
現象界は「空」だと悟って「涅槃」に至るとみれば、「空」に対する「自性清浄.如来蔵.仏性.我」
についての論争などは即座に解消するでしょう !?
0667承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2019/03/29(金) 12:54:17.42ID:GavmiYV8
>>663
三世両重説の否定は良いの?
三世両重説が三世業報の根拠じゃないの?
相変わらず宝珠の仏教解釈は訳が解らん。(笑)

あと、>>664の智山派の言う「我」は大我のことで、宝珠らの想定する「本当の私」ではありません。
「文脈」を汲み取るとそうした事が書いてないのは明白のはず。(笑)

(^。^)密教は、特にこうした誤解を招く大胆な記述が多いので、俺は素人にはお薦めしない。(笑)
0668
垢版 |
2019/03/29(金) 13:17:24.79ID:p3cSNViQ
宝珠は、上の方で長文書いてた人を、やっぱりワシだと思ってたようだなw

ほぼ賛同同意見だけど、ワシじゃないw
0669延命十句バリエーション
垢版 |
2019/03/29(金) 13:22:40.26ID:p3cSNViQ
観世音。南無仏。
与仏有因、与仏有縁、仏法僧縁、常楽我浄。
朝念観世音、暮念観世音。念念従心起。念念不離心
              『延命十句観音経霊験記』(白隠)

觀世音。南無佛。
與佛有因、與佛有縁。佛法相縁、常樂我「淨」。(二水の浄)
朝念觀世音、暮念觀世音。念念從心起。念佛不離心
              『太平御覽』卷六百五十四 釋部二 談藪の条

観世音。南無仏。
与仏有因、与仏有縁。仏法相縁、常楽我浄。
朝念観世音、暮念観世音。念念従心起。念念不離心
              『仏祖統紀』巻第三十七 文帝 元嘉二十七年

觀世音。南無佛。
與佛有因、與佛有縁。佛法相縁、常樂我情。
朝念觀世音、暮念觀世音。念念從心起。念佛不離心
              『太平広記』卷百十一 報應十 王玄謨の条

觀世音菩薩。南無佛、南無法、南無僧。
佛國有縁、佛法相因。     常樂我淨、有縁佛法。
              『佛説高王觀世音經』(白隠)
0670神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/29(金) 14:17:38.99ID:8s0Tm+GF
>>655
どういたしまして!


『最高アートマンが認識主体の対象であるならば、これは無明によって誤って想定されたものである。
ーーー と伝えられている。 
[このアートマンが]縄に[誤って想定された]蛇のように排除されるとき、[このアートマンは]不二である。』

『無形のものと有形のもの、行為と潜在印象は、無明のために、その見[=純粋精神]が混迷した人々によって、
アートマンに誤って想定されたものである。
それゆえに、[天啓聖典は]、「そうではない。[そうではない]といって、[それらを]見を本性とする
[アートマン]から排除し、見のみを残したのである。』
0671宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/29(金) 14:56:40.23ID:tYLRvfsk
>>667承狂
>三世両重説の否定は良いの?
>三世両重説が三世業報の根拠じゃないの?
>相変わらず宝珠の仏教解釈は訳が解らん。(笑)

十二因縁そのものが本当にブッダ本来のものかが確信が持てません。
十二因縁のそれ自体、すべてが部派に依るものであるかもしれません。
ですが、業報輪廻は仏典すべてに貫く根幹ですよ。
もしも、これもダメならば仏典そのものすべてが無価値だということですから。

>あと、>>664の智山派の言う「我」は大我のことで、宝珠らの想定する「本当の私」ではありません。
>「文脈」を汲み取るとそうした事が書いてないのは明白のはず。(笑)

常・樂・我・浄の「我」を“真実の自己”とするのは、
割とさまざまな方によって採用されている見解ですよ(引用は一例です)。
また私は、「大我」とは真実の自己が具現する様についての言葉だと見ています。
もしも、それがまったく違うというならば是非、その違いをここに示してもらえます?

『★常・樂・我・浄
 涅槃(究極のさとり)の徳を4つに分けて示したもの。「常」は消滅変化をまぬがれている徳、「楽」は生死の苦しみを解脱している、
「我」は真実の自己を得ている徳、「浄」は迷妄を離れて清らかである徳、である。』
(中村 元著『仏教のことば/生きる智慧』主婦の友社刊)

>俺は素人にはお薦めしない。(笑)

あぁぁ.. シロウトで悪かったね(爆)。
下手な僧侶より解ってると思うけど...。
0672宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/29(金) 14:59:18.77ID:tYLRvfsk
>敢えて、大乗的な云い回しを用いるならば、つまり、こういうことになります。
>この現象界というものは、「無常」「苦」「無我」「不浄」だということ。
>そこから解脱した境地である涅槃は、その真逆の「常」「楽」「我」「浄」となる。
>涅槃は、「常」-常住で永遠不変。「楽」-苦が無くて安楽である。
>「我」-なにものにも縛られることなく自由自在である。「浄」-あらゆる汚れを離れている。
>その境地をありのままに体感体現している自己があり、その状態にある者のことを他の者たちが仏さまと呼ぶのです。>>588

「禅」(禅宗)は、ただ黙って信仰対象としての“お釈迦様と「禅」修行一本”に絞ってさえいれば
テーラワーダ的な諸派になれたところを(それが望ましいという意味ではないが)、あくまでも大乗の一派としての位置付けと枠組みの中にあって、
その流れの中で「やれ観音様だ〜」、更には「豊川稲荷(神)だ〜」とやっているから自身の内に葛藤を抱えているのです。
『大悲心陀羅尼』を含めてかなり密教化した観音と、そして、以前にも述べたように豊川稲荷の荼枳尼天は関わるべきではないバケモノでもあるし
(元々、これを導入したのが真言宗ですが、とっくに密教の中に取り込まれていた)...。
まっ、何はともあれ“思い通りにならない苦の領域”から解脱して、自在(観自在菩薩=観音菩薩)を獲得した涅槃の観音は、
衆生を救済すべくこの現象界において三十三化身を顕して虚空に遍満している、と。

つまるところ、この現象界を「無我」だと悟って「我」に至るのと同様、
現象界は「空」だと悟って「涅槃」に至るとみれば、「空」に対する「自性清浄.如来蔵.仏性.我」
についての論争などは即座に解消するでしょう !?
0673宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/29(金) 15:03:45.30ID:tYLRvfsk
>>668
>上の方で長文書いてた人を

ん? どれのこと?
>>481>>505とかならば、七とは見てなかったけどね。

>>486
>駒大卒というのは、
>所詮は、やはり曹洞宗に着色されてるということなのかなぁ?
>まっ、宗門(曹洞宗)の看板を背負ってる以上は、“素直になる”のもなかなか正直いって難しいのでしょう...。
>これには除籍処分を受けて、無宗派になり、独立宗派でやっていくくらいの覚悟がないことには無理か。

↑あっ、それからこれは撤回します。ていうか訂正ですね!
別に、宗派宗門の看板を捨てる必要はないです。ただ自分自身がしっかりと理解をすればいいだけ。
そして、今の自分に与えられた環境の中で精一杯の努力向上をすればそれでいいのです。

>>672
失礼、操作ミスですm(__)m
0674宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/29(金) 15:06:56.22ID:tYLRvfsk
つまり、私の理解を開陳するとこういう感じになります。

“仏教発祥以前”の完成者たちの教えについては、仏教では「過去七仏」などといわれている。
実はこれこそがインドにおいて、聖賢リシたちによるヴェーダの伝承(文字化以前)とされているものなのです。
しかし、完成者の出現は遂に絶え、気の遠くなるほどの永い年月を経てこれらの教えはただの言葉だけとなって形骸化し、
祭祀中心となり、数々の迷信が蔓延っていった...。
そんな時代に、バラモンたちによって永く待ち望まれ予言されていた完成者の出現。目覚めた者であるブッダが遂に誕生することになる。
それがゴータマ王子の生誕でした。王子はその予言の通り、見事にブッダとして目覚め、その教えを説き始める。
こうしてブッダは、当時のバラモンたちの間違いを次々と指摘していった(それはヴェーダにおいて伝承された真理そのものの否定ではない)。
アートマンではないものをアートマンだと勘違いしているバラモン達、それはつまり、自己の魂ジーヴァを自覚するに至った超人的な行者たちだった。
確かに、彼らは驚異的な能力を獲得していたが、ブッダはそれらはまだゴール(涅槃)ではないこと。
彼らがアートマン(ではないものをそれとしてみる)を誤認していることを指摘した。
それがバラモン六十二見についての教え(パーリ長部『梵網経』)だった。
0675宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/29(金) 15:07:44.05ID:tYLRvfsk
ブッダは、彼らバラモンたちと自分が同類視され、教えが混同されることを避けるべく、
敢えて伝統的なヴェーダの教え方を採ることをやめて、認識できるレベルにない者に無駄なアートマンについての形而上学的な教えを説くことはせず、
必要な過程と実修行のみに専念することを指導する経験主義を貫いた。その目的は、真実の自己の探究であり、真実の自己の獲得とその具現だった。
それがアートマンのみをニルヴァーナだとするバラモン教と、真我(真実の自己)の実現こそがニルヴァーナだとするブッダの教え方との違い。
無くなるべきは、煩悩によって汚れた我執まみれの自己としての「自我」のことだったのだが、
ブッダが世を去って数百年が過ぎて、現象界においては(未完成者によっては)知覚され得ないアートマンのことを、
それはアートマンそのものが無いからであるとする勝手な誤解が部派仏教によって説かれるようになった。
その間違った無我の理解が、口伝によって(経典の記述とは矛盾するにも関わらず)二千年以上もの永きに渡って脈々と伝承されることとなる。
師(及び先達)から弟子へと絶対的な真理(ブッダが説いたもの)として伝承され、それを疑うことは決して許されなかった
(自分の愚かな頭で考えることはすべて我見であるとして排除され、それはブッダに対する不敬と冒涜として見なされた)。

しかし今日、近代仏教学の進歩によって仏典の研究が進み、彼ら伝統上座部と経典の記述との矛盾点が明確となったのです。
このことを認めたくない伝統教団の僧侶たちは、修行しないただの文献学者らの戯言として批難するのに必死となっているということ。
それが今の仏教界の姿なのです。


また、暫く席をはずしますm(__)m
0676承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2019/03/29(金) 16:53:49.55ID:GavmiYV8
>>674
これだとジャイナ教の教祖はブッダを詐称したって話だね。
「ヒンドゥを馬鹿にするな」と因縁をつけた人とは思えない御言葉ですな。(笑)
>>675
これは、釈尊が「本当の私」を知っててわざと弟子達に教えなかったとなる。
または釈尊が言ったことを直弟子達が伝えなかったとなる。
それは釈尊が人を見る目が全く無かったと言うのと同じで、共に釈尊を侮辱した話です。
いずれにせよ、そんな人の仏教なのに、釈尊はーとか経典がーとか言うのは矛盾した行いですね。
>>671
「業報輪廻は仏教経典全てにー」
例えば無記にはありませんね。
般若心経にもありませんね。
観音経、つまり普門品第二十五にもありませんね。
「全てに」って意味は判ってますか?

「真実の自己とするのは、わりと様々な方がー」
主婦の友とかの一般向けではなくて、専門家の書籍ではどうかな?
宝珠さんも、「ちさひろや著作」の仏教本でここの議論してほしくは無いだろ?

学者さんらの話は、まぁ、パーマンとかでやってくれ。
俺は「継承されてきた仏教」の側なんで、仮に文献学的に釈尊の本当の話が伝承と違っても全く関係ないから。(笑)

(^。^)信仰ってのは、その程度でどうこうなる話ではありませんので。(笑)
0677神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/03/29(金) 18:29:43.44ID:p3cSNViQ
常楽我浄について、
(有名無名どっちでもいいけどw)どっかの(禅家)和尚の解釈・法話なりでも挙げてくれば、
少しは、センスあって日本(禅)仏教の展開も見えてて
且つ自分なりの評価評論を加えられるくらいは事柄を理解できてるかな、
と評価してやってもいいものを、
手垢のついた中村元とか・・・・www  orz    >>671   (玄侑宗久は願い下げだけどw)

中国日本発祥の常楽我浄に、インド系「学者」の見解持ち込んで何の意味があるのか?と。


宝珠はホント劣化したな・・・。  ;д;
0678承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2019/03/29(金) 22:33:01.42ID:9NMWvHOf
結局の所、宝珠の「論拠」とか「勉強した」のは、一般向けの「分かりやすい仏教の本」って事ですね。
だから「龍樹菩薩」を否定して、その後継である日本仏教のつまみ食いもしてしまう。
禅宗と大乗なのに変な話になった一部宗派を除いて全てが龍樹の系譜なんだから、宝珠が期待する話なんか無いのも判らない。

(^。^)こーゆー人にも分かる「ような」書き方をされた中村先生は、賛否両論あるが、それでもやはり大乗の系譜である俺なんかは尊敬するよ。(笑)
0679宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/31(日) 06:13:02.60ID:lQSdb2U6
>>677
>中国日本発祥の常楽我浄に、インド系「学者」の見解持ち込んで何の意味があるのか?と。

その指摘の意味については理解できないこともないけれども...
しかし、「中村氏だったら、当然、それくらい分かってるだろう」というのは、
そんなに私個人の勝手な過大評価でしたかね?
中国日本発祥の思想(仏教解釈)だから、
これは大乗僧侶や大乗専門の研究者(そんな人がいる?)でなければ正しく判る筈がないとでも???

それから〜
一体、どこに禅僧による良い解説があるのか私は知りませんし、
ただし一応、こんなものは見つかりましたけれどね...

『常楽我浄 いつも変わることのないまごころ、何をしても楽しい思いやり、
本当の自分に巡り会い、この世の中で清らかな心の教えに触れることができます。』
(臨済宗円覚寺派管長/横田南嶺 述『延命十句観音経のはなし』)
 https://runrig-marketing.jp/syanai/wp-content/uploads/2016/02/%E5%8D%81%E5%8F%A5%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E7%B5%8C.pdf

これは臨済僧侶ですが、
「何をしても楽しい思いやり」とか、こんな解説しかできないのかなぁ〜と、逆にガッカリさせられます。
ネット上の僧侶解説なんてこんなものばかりですよ。
一応、ここでは「我」は「本当の自分」のことと説明されていますよね。
やはり、これなら私が取り上げた真言宗の解説のほうがイイでしょう。あなた方の嫌いな“真実の自己”ともいってないし。
それとも真言宗はお嫌いだったかな? 密教だし...。

そして、本当に酷いものになると、
“「常楽我浄」なるものは何も無いのだと知ること”が悟りなんだと説くようになる。
これは、つまり唯物論(唯物主義者による涅槃境地の否定とか)ということなのであって、
こういうのはブッダによって完全否定された見解ですよ。
禅の坊さんには、やはりそういうのが多くなる傾向なのだろうとこの私は見ています。
一応、ここに禅の坊さんらしいアホ解説の一例を上げときますから(宗派不明)。

参考:活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜
 https://blog.goo.ne.jp/cotou/e/c86b092c69690931f2aba9459723db36
0680宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/31(日) 06:16:46.90ID:lQSdb2U6
承狂さんへ
>>671追記:
>あと、>>664の智山派の言う「我」は大我のことで、宝珠らの想定する「本当の私」ではありません。
>「文脈」を汲み取るとそうした事が書いてないのは明白のはず。(笑)

確かに、そこ(その機関誌)では“真実の自己”のことだとは述べられてはいません
(ただし、承狂のいう「大我」という文字も出てきてないけどね)。
そして、>>588でもその通りに、特に“真実の自己”のことだとは私は書かなかった...。
では一応、その機関誌から原文そのものを紹介しておきますから。
これは、“お釈迦さまの三大行事に参加しよう”ということで、「花まつり」「成道会」「常楽会」の三つについて解説したものです。

『また、お釈迦さまは、この世は「無常・苦・無我・不浄」であると説かれました。これが仏の世界では逆になり、
「常・楽・我・浄」の四徳となります。
  常--仏の世界は、常住で永遠に変わらない 
  楽--仏の世界は、苦がなく安楽である
  我--仏の世界は、なにものにも縛られず自由自在である
  浄--仏の世界は、一切の汚ケガれを離れている
真言宗智山派では、涅槃会を四徳の最初の二つの「常」「楽」の二字をとって「常楽会」といいます。』
(『生きる力SHINGON』vol.94のp9/発行:総本山智積院内「真言宗智山派宗務庁」)
0681宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/31(日) 06:18:12.02ID:lQSdb2U6
これは、つまり涅槃とは、“自在の境地”なのだといっているのです。
私からはこの前、原始経典の教えの理解で、無常であるから(にも関わらず、これが永遠であることを願い、
実体のないものを実体視し、そして、自分のものとしようとするところに)苦が生じる。
その苦とは、“思い通りにならないこと”だといいました。
だから無我なのだと。それは、自己の本性であるアートマンではないからですよ。
もしも、アートマンであれば、そういうことにはならない。
何故なら、あらゆるものごとが“自在”だからです。それがアートマンの根本性質なのだから。
だから、「それら(五蘊)はアートマンではない」と教えているのです。それが正しいブッダの無我の教えです。
“真実の自己”を実現したならば、それは当然、“自在の境地”(それが大乗の説く観自在菩薩の境地)ですから。
真実の自己でなければ自在ということは在り得ない。

ところで、
その「大我」について、その本当の正しい意味を早く教えてくださいよ!
あなたはプロ(元僧侶)なんでしょうからね。こちらシロウトは期待して待ってますから。

>>676承狂
>これは、釈尊が「本当の私」を知っててわざと弟子達に教えなかったとなる。
>または釈尊が言ったことを直弟子達が伝えなかったとなる。
>それは釈尊が人を見る目が全く無かったと言うのと同じで、共に釈尊を侮辱した話です。

はぁ? 明確にありありと説いてるでしょ!!
経典にもあのようにしっかりと残されているというのに、
勝手にそれを無きものとして扱うあなたがたこそがブッダを侮辱してることになるのです。
>>581-583で示したその証拠については無視するのですか?
『マハーヴァッガ』T.13、『ダンマパダ』380、『ディーガ・ニカーヤ』16/パーリ大涅槃経3.13、『サンユッタ・ニカーヤ』T, 神々との対話3-5
あなたは、いつも自分にとって都合の悪いところは逃げるし、そして、無かったことにする。
けれど、そういうところを閲覧者の皆さんはすべて見てますよ!
0682宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/31(日) 06:20:11.83ID:lQSdb2U6
つまり、ブッダが説いたものとは、「真実の自己を求めよ!」、
「(真実の)アートマンであるものを正しくアートマンとして見よ!」と、いっているというのが真義なのですよ。
ただ単に、バラモンたちと同じ教え方をしなかっただけです。
もしも、彼らと同じやり方だったならば、結局、バラモン教(そのまま)でイイんだと誤解されてしまうから。
それだとゴータマの没後には、ブッダの一生涯を掛けた尊い教えがすぐに掻き消えてしまうでしょうからね。
それだけは、何としても避けたかったのです。

まっ、あなたに向けて一生懸命に語っても上の空でしょうけれど、
この私は閲覧者のために書いてますから。

>これだとジャイナ教の教祖はブッダを詐称したって話だね。
>「ヒンドゥを馬鹿にするな」と因縁をつけた人とは思えない御言葉ですな。(笑)

いやいや.別にこれは馬鹿にしているのではなくて、マハーヴィーラ(ジナ)がいくらジャイナ教徒たちによって「ブッダ」
(ジャイナ教は仏教と同時期発祥の兄弟的な宗教であり、「呼称」を含めて共通事項も実に多いことで知られる)として讃えられようとも、
この私は決してそうは見なさないし、正しい仏教理解からもそれが認められていないことは正当な判断ですよ。
ゴータマ王子とマハーヴィーラが直接に交わったという記録はないけれども、
しかし、その弟子たちや信奉者は互いに接触していることは記録からも明らかとなっているので、その違いについてもよく分かっています。
単純明快にいうと、マハーヴィーラは禁欲苦行主義者だということ。
ゴータマ王子はその世界から足を洗った方(それでは悟りには達せられないと知る) なのですから、
当然、仏教視点からはマハーヴィーラがブッダではないことは明白なこととなるのです。
もしも、ただ自らがブッダを自認して、その弟子たちがその人を讃えていれば真実の仏陀だということになるんだったら、
それこそただ言った者勝ちだということになる。
麻原が、「わたしは最終解脱者だ!」と宣言して、それを信じる弟子が集っている。
「わたしはエル・カンターレ(地球の至高神)だ。そして、ブッダの再誕だ!!」といってる東大卒の商社マンに集っている教団もある。
「池田SGI名誉会長こそがお釈迦様の再誕だ」と崇めている人たちだって大勢いる。
0683宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/03/31(日) 06:24:50.53ID:lQSdb2U6
ヒンドゥーの話とは一緒にしないようにしよう!
「アートマンを説く有我論のヒンドゥーは間違っている」という話そのものが、
まったくの誤解であることをこの私は仏典から論証しているわけです。
ヒンドゥーの教えは、彼ら(ヒンドゥーのアヴァターラ方から)の“実経験”にもとづくヒンドゥー独自の教え方として在るものですよ。
その中身を解ってない者(仏教徒ら)が、それを非難する何ものもない。

>「業報輪廻は仏教経典全てにー」
>例えば無記にはありませんね。
>般若心経にもありませんね。
>観音経、つまり普門品第二十五にもありませんね。
>「全てに」って意味は判ってますか?

業報輪廻なしでは仏教理論そのものが成立しないの。それが「すべてに」ということです。どう.解る?
死ねばただ終わりで、その後に再誕をしないのならば、この一生涯でブッダにまで成れなかった者はただそこまでで終わりだということ。
なのに、その為にわざわざ禁欲をして、日々を厳しい修行で明け暮れるなどストイック馬鹿によるナンセンスの極みでしょうが!
それだったならば、自分の好き放題に生きた方が得に決まってるじゃないか!!
今生だけでブッダに成らなければならないのならば、
生まれつきの難病ですぐに亡くなられる子供や障害を持って生れて来る人は最初から他の人と同様に学習することが不可能だ。
その不条理はどうしてあるのか? 健常者ですからブッダには成れないのに、最初からそのようなハンデの中で生まれる赤子は何故、現れるのか?
例え、学び途中で人生を終えようとも決して無駄ではないのは、その成果が死後にもちゃんと持ち越されるからだ。
果報は行為に応じてある。修行の達成も同じであり、修行の努力は死んでそれで終わりではない。その続きについては、いずれ再び学習の機会が来る。
仏典ではそう明確に説いてる。「四向四果」「声聞衆」の教えにも明らかですよ。
それが信じられない(人の転生などないと思う)のならば、仏教を信じるのも辞めたらどうだい?
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