宗教とは何か?
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なぜ女性のテレサが改革に成功し、男性のヨハネは挫折するのか。
それはたぶん、キリスト教信仰における男と女の違いにある。
三位一体の教理から、男性のイエスが信仰対象にされているからだ。
女性の場合、イエスキリストへの信仰が恋愛感情と重なっている。
テレサの神秘的な恍惚感にはイエスとの合一が読み取れる。
テレサに憧れたマザーテレサにも同じような神秘体験がある。
他方、男性の場合は事情が異なっている。
イエスが男性であることが邪魔し、簡単には信仰に集中できない。
男性は基本、理論的にしかイエスを受け入れない。 十字架のヨハネは修道会改革を進める中で、
キリスト教「信仰」に絶望したのだ。
そして、自分に絶望すると同時に、神との出会いを果たし、
自分が「完徳の狭い道」を歩んで来たことを自覚する。
それが自覚できたからこそ、信仰という「不完全な霊の道」を
区別し、切り捨てることが可能になった。 ローマ教皇フランシスコが11月23日から26日の四日間来日。
世界平和の大きな翼 〜 カトリックを歓迎しよう。
人が神を探す時、まず神が人を探されており、
あなたがたが神を見出そうとする時、
神が最初に私たちを見出されます。by フランシスコ 教皇フランシスコ 〜 この名はアッシジのフランチェスコにちなむ
自伝より 〜 17歳(!)の時に体験した神との出会い
私に奇妙なことが起きた。何が起きたか解らなかったが、私を変えた。
不意打ちだったと言えよう。半世紀後の私はこう解釈する。
それは一つの驚き、(神との)出会いという驚きであった。私は自分が
求められていることを理解した。それは、一つの宗教的経験であり、
待っておられる方がいるという不思議な体験であった。
私にとってその瞬間から、神は人間に「初めに」語る存在である。
人が神を探す時、まず神が人を探されており、
あなたがたが神を見出そうとする時、神が最初に私たちを見出される。 469.おごるポッタンは久しからず。
大爆笑である。 何本もトラック録音して一人大爆笑するポッタン
きめぇなw キリスト教の場合、イエスが男であるがゆえに、
女性信者の思いはイエスに向かっていく。
あるいは赤子を抱くマリアである。
これに対して男性信者の思いはマリアに向かう。
つまりキリスト教は、女性優位の宗教なのだろう。
もともと、神を男とか女とかにすること自体に無理がある。
キリスト教の根本的な誤りは、人間イエスを神にしたことにある。
イエス自身は「自分は神だ」と言ったことがないのに ・・・ 神は男なのか女なのか。この問題を「四句分別」で整理すれば
@ 神は、男である → 十戒第二に違反
A 神は、女である → 同上
B 神は、男であり、かつ女である(半陰陽) → 同上
C 神は、男でもなく、女でもない → 十戒に合格
十戒第二・・・あなたはいかなる像も造ってはならない。(出エジ.20:4) イエスを神にしたのはどこのどいつだよ。パウロか。
カトリックの十戒は、第二戒の偶像崇拝禁止を削除している。
この戒を削除したら旧約聖書の世界が崩壊する。
ユダヤ教(モーセ教)の「かなめ」は偶像崇拝禁止だからである。
神は命であり、命は物質ではない。
だからこそ、偶像崇拝禁止なのである。
その結果として、神を探そう、命を探そうという話になる。
イエスや金の子牛を偶像崇拝したら、神や命を探さなくなる。 キリスト教の最大の誤りは「人間イエス」を神にしたことにある。
では、仏教はどうなのか。
阿弥陀とか大日如来とかを空想し、
空だとか無我だとか体験できもしない虚しい屁理屈をこねる。
こんな話を信仰すれば人生を浪費するばかりである。
キチガイとしか言いようがないキリスト教徒よりはましだろうが、
仏教徒の思い込みも相当ひどい。
かれらには身動きが取れそうにない窮屈な思い込みがある。
いまさら後に引けない事情もあるのかもれない。
ーー 洗脳度的には、キリスト教徒>仏教徒だろうか。 474.神は命、命は物質でない、か。
バカ丸出し、である。 要するに、仏教もキリスト教もダメなのだ。
信仰が邪魔をして、真理に到達することができない。
ではどうしたらよいのか。自分の信仰を捨てる必要がある。
信仰を捨て、自分の頭で考えなければならない。
その代わり、日常生活を重視し、
哲学や心理学や文学を参考にしながら、真理を探求すべきである。
私は宗教を笑っていたから、最初から信仰とは無縁だった。
たぶんそれが幸いし、30歳ごろ神と出会っている。 神(命)と出会うまで、宗教本を全く読まなかった。
熱中したのは、フロイトの著作、正反合の唯物弁証法である。
疲れたら、詩・小説・絵画・音楽などを楽しんでいた。
今思えば、宗教上の制約がなく、けっこう気ままだった。
アルバイト生活で貧しかったから、貧しさが生活を律していた。
つまり何も知らずに、カルメル山の小道を登っていた。 宗教本を読み始めたのは、神(命)に出会ってからである。
最初に読んだのは聖書(新約・旧約)だったが、
パウロ以下の手紙と黙示録は興味が全然わかずに読めず、
福音書→旧約→手紙・黙示録の順になった。
旧約は三か月かけて、最初から最後まで一気に読んだ。以上
耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。
おのが信仰を捨てよ。 by 釈尊 藤村操 1887.7.20〜1903.5.22、15歳と10か月没
巌頭之感悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。 ヨーガはただ、道をしめして命ずるのみーー
古き衣を脱ぎすてて、眼下の海に身を投げよ
俗なるものの否定に聖なるものは顕現し、
聖なるものの力によって
俗なるものは聖化されるーー 藤村操の「厳頭之感」は、若干16歳の文章とはとても思えない。
ウィキで調べたら、北海道の名家の生まれであり、父は屯田銀行頭取、
弟は建築家で三菱地所社長、妹の夫は安部能成である。
操自身は幼いころから優秀で飛び級もし、単身で上京、
第一高等学校に入学している。操が上京してまもなく父がなくなり、
母と弟妹も上京して同居する。
学校では、英国帰りの「夏目漱石」が英語教師をしていた。
操は英語に興味が持てなかったのか、授業で英文の日本語訳を指示
された時、それができなかった。夏目は予習を言い渡したが、
それを無視したため怒られる。そんなことがあった二日後に操は
自殺してしまう。夏目も責任を感じ焦ったことだろう。 藤村操については残念でならない
@ 子供のうちから哲学的になるのはよくない。
ーー名家だったから家に相当な蔵書があり、たぶんそれをこっそり
ーー読んでいたのだろう。哲学的な話は子供には毒だ。
A 「不可解」は人生の終わりではない。
ーー不可解だから探求が始まる。それは探求の始まりである。
B この問題は、ある程度の人生経験が必要である。
ーー釈尊もイエスも孔子もマホメットも30歳を超えてからだ。
C 操という名前はどうだったのか。その意味は、
ーー自分の立てた目標や考えを固く守り通すこと
ーー貞操(もとは神々しい青の美しさをいう) ・・・ 女性の名前? 藤村操も秀才である。
だが万能ではない。
自分の得意分野だけをやれば良かった。
そうすれば天才となれる。
今では放送大学が良い。 神に出会うのは至難の業である。
なぜなら、神は、人間ごときに騙される御方ではないからだ。
ヨブ記のように、神は神を探す人間を試みる。
過酷な試練によって、その人間の心の底の底を確かめる。
神を相手にして勝てる人間はいない。絶望だけだ。
しかし、絶望して死んだら負けだ。
神は、まだ命が残っているではないかと迫っている。
その命をどうするのかと ・・・ 生か死か、それが問題だ。 人間は心と体でできている。
心は非物質であり、体は物質でできている。
ゆえに、心は物質的には解明できない。
しかし、心は非物質であるから、心を用いて、
非物質である神や自己に近づき、それらを体験し、
神や自己を知ることができる。
心が、神や自己との出会いを可能にする。 つぎの問題を考え抜けば答えが出てくる
@ 自分はなぜ生きているのか
A 愛とは何か
私は10歳頃に問題を設定し、「大人になったら」思う存分、
時間を費やそうと心に誓った。← これが賢い
そして30歳頃に神(命)に出会い、それから半年後には、
坐禅で想受滅をして自己(霊魂)に出会った。 宗教を笑っていたから、宗教書を1冊も読んでないのに、
神(命)に出会い、自己(霊魂)に出会ってしまった。
自分が何を体験したのかもわからない状態だったので、
あわてて聖書から読み始めた。私の場合は信仰ではなく、
体験した事実として神や霊魂を受け入れている。 ただし物事には順序がある。
まず最初に、考え抜くことによって神(命)との出会いをする。
その次に、坐禅によって自己(霊魂)との出会いをする。
いきなり坐禅を始めるのは順序を間違っている。
神(命)に出会えないだけでなく、自己(霊魂)にも出会えない。
たいがいの場合、時間のムダでしかない。
かりに想受滅ができたとしても、生きて帰れず
そのまま死んでしまうだろう。
【神(命) → 自己(霊魂) の順序】を厳守すること
これが安全であり、近道でもある。
神はいったい、どんな人間を天国に招待するのか?
神の視点で考えてみよう
金持ちが天の国に入るのは難しい by マタ19:16-26
一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、
どんな善いことをすればよいのでしょうか。」 イエスは言われた。
「・・・ もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。
「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分
のように愛しなさい。」 そこで、この青年は言った。
「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
イエスは言われた。もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、
貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。
それから、わたしに従いなさい。」 青年はこの言葉を聞き、
悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。 貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。 by ルカ6:20,24 始めに言葉ありき。
言葉は真理であった。
真理は神であった。 イエスは言われた。
殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、
また隣人を自分のように愛しなさい。
これらは十戒の第五から第十に該当するが、
自己愛から他者愛に突き抜ければ全部クリアできるではないか。
ということは、自己愛を卒業すれば
神(命)に出会えそうである。 宗教とは自分の保護者(天使、御使い)などと交わる機会かと。 500.宗教とは世界から、排除、疎外される、ことである。 ハゲ豚は女を盾に利用して使い捨てするのが楽しいんだろ?
利用できるモノは利用する
俺はお前よりかっこいいから女には不自由しない 俺に危害を与えるのはハゲ豚なら証拠をみせろ。
日本製○の本スレで「ハゲ豚キモイ能無しの役立たず」ってレスして
確認出来たら信じる アルベルト・アインシュタイン
人の価値とは、その人が得たものではなく、
その人が与えたもので測られる。 >C 神は、男でもなく、女でもない → 十戒に合格
グレイ 藤村操もそうなんだが、
苦痛だから、生きていることがつらいから自殺してしまう。
つまり、自殺は自己愛の一種ではないだろうか。
これが「自殺は罪だ」と言われる理由か。
他人のために自殺する人はいないなあ ・・・ ヨハネ福音書 15:13
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
これに気づくかどうかが分かれ道。
自己愛を否定し他者愛を選べば、神(命)に出会うことができる。
新約聖書はミソクソ混ぜこぜになっていて油断ならないが、
この箇所は信用してもいいだろう。 他人のために自殺する人がいない、ということは、
この地上には愛が存在しない、ということを意味しないか。
人間は砂漠のような場所に住んでいるのか。
自殺を考えるなら、その命を友のために使えばいいだろう。
そう気づくかどうかが運命の分かれ道になる。 夏目漱石は何を考えていたのだろうか?
47歳の時に、「私の個人主義」を学習院の学生に講演している。
ーー 青空文庫にあるのでお勧めしたい。
ーー それほど長くないし、おもしろくてわかりやすい。 >>490
それにはまず物質である体を捨てなさい。 漱石は49歳の時、「則天去私」を説いてから亡くなった。
則天去私とは、小さな私を去って自然の導きに従うことをいう。
彼の作品「それから」には、「賽を投げる以上は、天の法則
通りになるより外に仕方なかった」とある。
「私の個人主義」を講演したころに何があったのか?
43歳、胃潰瘍で吐血
45歳、胃潰瘍以外に痔、神経衰弱、糖尿病などを患う
49歳、胃潰瘍再発、内出血にて死没
ーー 生い立ちも病いも死も従容と受け入れる = 則天去私か ? 漱石の時代においては、死を覚悟するような病気だったかも。
結核もかっては死病であった。^^ 宗教というものは頭でわかるものではありません。
キリスト教の神は、聖書の最初の段階【創世記】の部分から間違いを起こしています。
「 神はこの世に全てのものを作られました」 というところです。
そのところ詳しく話しますと、
まず第一目に神は天と地を創造された。
二日目に、大空を作ってその大空の上下に満々とたたえる、 水で覆つています。
3日目に地上に繁茂するあらゆる草木を作られました。
そしてやっと太陽とか地球に輝く星々を作られたそうです。
五日目には鳥類、爬虫類、海に群がる魚類、などを作っています 。
最後は6日目に入って地上の動物と、人間を作られたいうことです 。
ここまでの話で、なんだかおかしいと思いませんか? 今から、2000年も昔でしたら、天文の知識もないし地球もごく平らなものだと思っていましたから、
神の言うことは何でも、真実だと信用していたでしょう。
しかし現代の、 文明が発達し 宇宙の始まりまで、解ってきては、聖書がただの神話、物語となってしまい、
そこには、真実を説いた神の姿など は、微塵も感じられません。 ずばり一生分稼ぐ株でね
でもまだ働いてるわ
株チューバーていいのいない
共栄タンカーあてるとは
毎日興奮してるからデパス必須
ベンチャーオーナーから教えて貰ったサイトほんまもんに使える。
https://twitter.com/kabuzyouhou
イチバン手っ取り早く稼げるのって結局投資でそれも株だと思い知らされた
株ならコノ人がいい、とりあえず感謝してる。自分的には神株さま
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) ヨブ記の構成について ・・・ 試論
32章 〜 37章 エリフの言葉
38章 〜 41章 主なる神の言葉
@ これらはヨブの自問自答・独白であること
A ヨブが神と出会うのは、42章4節の一瞬
B 1〜2章、42章 結びは枠文学であることを示している 内村鑑三の「ヨブ記講演」を青空文庫で見つけ
少し読んでみたが、やたら長過ぎるし、
旧約なのにキリスト教視点で読み解いている。
キリスト教徒だから仕方ないのだろうが、
それはないだろうと思った。TT ユングは「ヨブへの手紙」を書いているが、
書評などを検索して読むと、ヨブは旧約の神より優秀であり、
それを知った神はキリストになって地上で修行する、
という話をそこで説いているらしい。あほくさ。
証拠も根拠もない、狂ったユングの妄想としか思えない。^^ ヨブはなぜ自殺しなかったのだろう?
自分は正しい、自分には罪がないと思っている人たちは、
簡単には自殺しないだろう。自殺する理由がないし、
罪を認めることになるからだ。
しかし、そういった自己愛自体が罪であるなら、ヨブは罪人である。
神やエリフとの自問自答によってそのことにようやく気づく。
その瞬間、ヨブは深く絶望し、自分の死を完全に受け入れたが、
これで終わりなら、ヨブは罪人として死ぬばかりである。
ここでヨブは、常に善行を心掛けていた日頃の習慣から自然に、
どうせ死ぬなら自分の命を善いことに使おうと考えた。
ーー すると、神の雫がヨブの心に落ちてきた ーー ヨブ記が難解なのは、
自己愛を捨てることが問われているからだろう。
あなたは他者のために自殺できるか。
これは実行しがたいからこそ、理解できないのだ。
他者愛に生き、自己愛が消えてしまえば、
ヨブの苦難も一瞬で消えてしまう。雲散霧消する。
神(命)との出会いがそれを可能にする。
神は存在する。そして偉大である。 @ 自分はなぜ生きているのか
なんとなく
A 愛とは何か
オキシトシン >神は存在する。そして偉大である。
根拠不明証明なし。 >>531
あれれ?????
ヨブ記を手掛かりに、神との出会い方を書いたのですが 聖書読んでも自分の知りたいこと書かれてない
やっぱり禅だな 自己愛 → 他者愛 ・・・ 神(命)との出会いが生じる。
この出会いによって神の至福を体験する。
すると不思議なことに、自然と坐禅がしたくなる。。。
すでに自己愛から離れることができるから、
数息感によって短期間で想受滅に入ることができる。
想受滅に入れば自動的に霊魂体験をする。
霊魂状態は痛いほど清浄だが、
神との出会いで味わった至福感とはまるっきり違う。
その違いに気づいて地上の身体に戻ることができる。
無事、坐禅終了。五感が驚くほど鋭敏 ・・・ 世界人口が70憶人として、
悟った人は世界で7人ぐらいだろうか。
それとも70人。いてもおかしくない数字だけどね。
それとも7百人。こんなにいるかなあ。
それとも7千人。これだけいれば世界が変わるだろう。
それとも7万人。こんなには絶対いない。 宗教が誕生した時代は王が強く好き勝手やってる時代
差別、奴隷は当たり前
そんな王に対抗するために生まれたのが神の名を使った宗教
最初に宗教を考えた人は純粋に理不尽に苦しむ人々を救いたかったのかもしれない
だが、いつしかその宗教さえも人間は権力や金儲けの道具に変え現在に至る
神がいるならそんな信者達に真っ先に罰を与えそうだが歴史上そういう事実は一度もない 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。 敦盛(幸若舞)
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ 人間百二十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これで後半の寝たきりだと、口惜しかりき次第ぞ キリスト教徒の罪と罰は、
人間イエスを神にして偶像崇拝するところにある。
仏教徒の罪と罰は、
神を探すことなしにイキナリ坐禅を始めたり、
呪文を唱え始めたりするところにある。
求道者が最初にやるべきことは、
真実の「神」を探すことでなければならない。
真理に到る道はこれ以外にない。 凡夫問う。
煩悩は108つもあるが、
これを全部捨ててしまうにはどうしたらよいか。
無学道答える。
煩悩の根っこは自己愛だから、
自己愛を捨てよ。 煩悩は108つもあったのか? それは何と何と・・・何ですか?
6っ個あり。眼耳鼻舌身意
3っつあり。好き嫌い、平
2つあり。浄(きれい)、染(きたない)
3っつあり。前世、今世、来世
すなわち、6×3×2×3=108 回の除夜の鐘 キリスト仏教批判なんて掲示板では好評スレッドが続かないと終わらないな。 今年は水害の多い年でしたが、被災された方々には
心からお見舞い申し上げます。m(__)m
さて、11月中に粗大ごみを処分、大掃除もだいたい終わり、
12月1日にはお屠蘇に雑煮を食べました。
別にキリスト教徒じゃないし、
今年はクリスマスを完全に無視することにしました。
それでなくても忙しいのにクリスマス・ソングで
余計せわしなくなってしまうからです。 (-"-) hage
今日も無事終了。眠いのでもうじき寝まつ。 538神も仏も名無しさん2019/11/29(金) 23:03:11.19ID:nCgDd5MD
世界人口が70憶人として、 悟った人は世界で7人ぐらいだろうか。
それとも70人。いてもおかしくない数字だけどね。
それとも7百人。こんなにいるかなあ。
それとも7千人。これだけいれば世界が変わるだろう。
それとも7万人。こんなには絶対いない。 この世には大別して二種類の人間がいる。
金や銀や銅のスプーンをくわえて生まれた、幸運な人たち。
もう一つは泥のスプーンをくわえて生まれた、不運な人たち。
神はどちらを選ぶのか?
泥のスプーンをくわえた人たちを選んでいる。
貧しい人々は、幸いである。・・・
悲しむ人々は、幸いである。・・・
すなわち神は、貧しさや悲しみを選び、祝福している。
なぜなのか? ・・・ 神が幸運な人々を見捨てるのは、
生まれつき幸運な人々は神を探さないからである。
ーー かれらは外交的であり、スポーツに興じて体を鍛え、
ーー 海外に興味を抱いて外国語に興じ、やがては海外に出張する。
ーー それが人生なのだと頭から思い込んでいる。
これに対して不運な人々は、なぜ不運なのかと人生を考え始める。
神はこういった内向的な人間を待ち望んでいるのだ。
かれらこそ、神を探し当てるからである。 TV、芸能界、宗教、ヤクザ、政界となって特定の一般人追い込みかけるのやめろ! 夏目漱石は「外交的」な性格なのかもしれない。
文豪と言われて別格扱いされてるが、
その作品は趣味人・文人的な臭みが濃厚で感動とは無縁。
これに対して宮沢賢治とか中原中也とか荻原朔太郎とかは、
たぶん「内向的」な人間だったのだろう。
藤村操も、外国語嫌いのスポーツ嫌いだったのかもしれない。
人生の探求に外国語もスポーツも無意味だからね。 求めなさい(マタイ7:7-10)
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。
そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、
門をたたく者には開かれる。
あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、
石を与えるだろうか。
魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。
おのが信仰を捨てよ。 by 梵天勧請
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